水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(12):水谷文子「評定の切なき仕事なし終へて」

2015年06月27日 07時46分01秒 | 一首鑑賞
評定の切なき仕事なし終へて一学期果つる日の淋しけれ
水谷文子『齶田(あぎた)』


 水谷は都立高校の教師をしていたという。「評定」は、生徒の成績つけだろう。団子状に固まった点数の分布にある子供達を僅かな差で切り分けていた《相対評価》は廃止され、2002年からは《絶対評価》が導入された。教科ごとに〈関心・意欲・態度〉〈技能〉〈知識・理解〉〈思考・判断・表現〉の観点別学習状況という項目でAからCの三段階評価が施され、その総合点で各教科の「評定」が決まる。テストの1点の差が内申の明暗を分ける相対評価に比べ一見公平なようだが、テストの点と平常点とどちらを重視するかは、学校や教師によって必ずしも統一されていないらしい。生徒達の将来を左右する評定を心を鬼にして為し終えた後の侘しさはどれ程だったであろうか。
 水谷は就職後に洗礼を受けたようだ。歌集中にもキリスト教がらみの歌がかなり見られ、一途な信仰の持ち主であることが伝わってくる。そんな水谷であるから、ヤコブの手紙3章1節の「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」という御言葉が、評定中の胸に去来することもあったろう。

  今日の我をゆるせぬわれは高速を失踪しつつあしたへ逃げる

 この歌の場面の前に何があったか定かでないが、あるいは仕事で不用意に人を裁いてしまったのだろうか。水谷は高速を飛ばして小さな旅に出る。しかし果たして気持ちが晴れたかどうか。マタイによる福音書7章1節の「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる 」という聖句にあるように、私達は常に内面を問われているのだ。
 人を評価することが務めとして課せられている教師という仕事に、誠実に取り組もうとしてもがく水谷のような存在に、私は少しホッとする。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルピシア福袋☆今夏はバラエティ♬ | トップ | ウチは私の代で途絶えるよ。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿