ようやくアベ首相が諸外国にせっつかれてオリンピック延期を決定しましたね。
この間のオリンピック騒ぎが走馬灯のように(笑)頭をよぎります。
ギリシャから「聖火」が飛行機で運ばれ、
それが福島で「復興の火」と名付けられたとのこと。
すみませんが私にはこの一連の操作が茶番劇としか映りません。
3月21日、この火を見ようと
仙台で5万人以上が新型コロナウイルスなどお構いなしに
密集して何時間も並んだことが海外に報じられると、
「日本人、何やってんの、この非常時に信じられない!」
と全世界が驚き呆れました。
私は呆れると言うより悲しかったです。
コロナ的にもそうですが、
人々がオリンピック「聖火」に何時間も群れ為して並ぶほど情熱を注ぐことに。
オリンピックを日本で開催することが決まってまもなくブログに書いた
5年ほど前の拙文を再掲いたします。
森喜朗を会長とするこの一大イベントの準備過程で
福島から、東北から、
「オリンピックにお金と人手を取られて復興が進まない」
「復興とオリンピックは並立しない」
「アンダーコントロールだ?笑わせるな」
という声がどれほど上がったか(そして今も)、
膨大な税金を費やした5年間の日本を振り返ると
苦い思いで胸がふさがります。
「オリンピックと政治の切っても切れない関係」 2014年1月29日(水)No.839 2014-01-29 14:40:28
昨年、2020年東京オリンピック開催が決まった。
国民のコンセンサスを得るためだろうか、
当初「被災地復興のためのオリンピック招致」という宣伝文句がよく聞かれたが、
それは「復興とオリンピック開催は矛盾せず成立するのか」という論議を呼んだ。
オリンピック開催のためにかかる膨大なコストは、
復興資金を削って成り立つ性質のものではないのか、
被災地は未だ先の見えない苦しい復興途上にあるというのに、という怒りの声も湧いた。
しかし、
「日本人であれば誰だって東北の人のことを思わない者などいない。
オリンピックで日本を元気にすることが復興につながるはずだ。
だから東京にオリンピック招致をするべきだ」
という東京都並びに政府の主張に、いつものようにメディアが同調し、
いつものように多くの日本人の心はそちらに傾いて、
招致国を決める際の安倍首相の
「東京は福島から離れているから安全には問題ない」
という福島県人の神経を逆なでする発言も、他の多くの政治家の問題発言同様、
日本社会ではうやむやにしてどこかに流されていこうとしている。
そしてとにかく本当に、
東京でオリンピックが開かれることになった。
「2020年まで生きていたいねえ」といった年配の人達の声もあると聞く。
それらの年配の皆さんはそんなにもスポーツが大好きなのだろうか。
スポーツと政治は関係ないと言われるが、オリンピックに関する限りこれは大嘘だ。
オリンピックを開催する国の政治家は、
その国の威信や評判といった国際的地位とともに当然経済効果にも腐心している。
即ち、その国の外交と経済の要として国際スポーツ大会を位置づけている。
過去のオリンピック大会を振り返ると、日本のオリンピック史上有名な、
「前畑がんばれ、前畑がんばれ、……勝った、勝った、勝った、前畑勝ちました……」
というアナウンスは、1936年ドイツのベルリン国際オリンピック大会でのことだが、
プールサイドの大観衆の中には当時のヒトラー総統もいた。
ヒトラーは当初、
「どうせアメリカが黒人を大勢連れてきてメダルをさらっていき、
ユダヤ人どもが金儲けに利用するんだろう。私は関心ない。」
と、開催に乗り気でなかったのを、ゲッペルス宣伝相が
「ベルリンでオリンピックをやれば、選手やコーチ、役員だけでなく、
大勢の報道陣、観光客も来ます。
我がナチスドイツの栄光を世界に宣伝する絶好の機会になるとお考えになりませんか。」
と説得したという。〈註1〉
宣伝外交の道具としてのオリンピック招致は、
ゲッペルスを持ち出すまでもなく現代では国家の基本である。
しかし、そのオリンピックに出場するスポーツ選手はたいへんだ。
もともとは日本国を背負って立つ気もまるでなく、
ただただ水泳が天才的に得意な和歌山県の女の子だった前畑秀子選手は、
「金メダルをとれ」という日本国(民)の期待を背負わされて、
ベルリンオリンピックに臨んだ。
もし金メダルを獲得できなかったら、
帰りの船から海に身を投げて死のうと覚悟していたという。〈註2〉
政治家や国民が自分のできない国家的事業を、
個人であるスポーツ選手に強要するために起きた悲劇の代表例が
1968年、マラソン選手円谷幸吉さんの自死である。
彼の『美味しゅうございました』を繰り返す遺書文は、
当時十代だった私にとってかなりの衝撃で、今も忘れることができない。
もし、自分のためだけに走っていられたなら、
円谷選手は今ごろ、孫に囲まれて
ニコニコ笑顔で彼個人に属する人生を楽しんでいたかも知れない。
スポーツと政治は関係ないというならばオリンピック選手が国家を背負って、
その重圧に押しつぶされて自殺する必要もないのだ。
国民も、政治家も、
国家の呪縛を一人のスポーツに秀でた人間に押し付ける権利をもつものではない。
前畑選手の悲壮な頑張りと、円谷選手の絶望は、
現代のオリンピックなど国際スポーツ試合ではあまり聞かない。
現代っ子の選手たちは国家の圧力を上手にマインドコントロールしているのだろうか。
そうであったとしても、今なお国際スポーツ大会の背後に
「国家」と「政治」は厳として存在し、個である選手の人生に確実に影響を与えている。
私は決してスポーツの試合を毛嫌いするものではないが、
国家意思が露骨に見え隠れするオリンピック大会には大きな違和感を、
スポーツが好きで、ひたすら自分の人生をかけてきた選手には同情を覚える。
〈註1、2〉参照:「オリンピックと日本人」(池井優著/NHK出版)