毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「加藤登紀子『討匪行』を20回聴く」 2013年7月16日(火) No.710

2013-07-16 21:04:16 | 
「討匪行」八木沢丈夫作詞/藤原義江作曲 

どこまで続く 泥濘(ぬかるみ)ぞ
三日二夜を 食もなく
雨降りしぶく 鉄兜(てつかぶと)

すでにタバコは なくなりて
たのむマッチも 濡れ果てぬ
飢え迫る夜の 寒さかな

いななく声も 絶え果てて
倒れし馬の たてがみを
かたみと今は 別れ来ぬ

ひずめの跡に 乱れ咲く
秋草の花 しずくして
虫が音細き 日暮れ空

通信筒よ 乾パンよ
声も詰まりて 仰ぐ目に
あふるるものは 涙のみ

賊にはあれど 亡き骸に
花を手向けて ねんごろに
興安嶺よ いざさらば



場所は興安嶺ではないが、
この歌を聴くと、1986年、江西省に謝罪に来た
大阪の「椿会」という戦友会の人たちを想う。
1986年にはほとんどが80歳以上になっていた彼らが、
日中戦争時、中国侵略の先兵として
江西省の地を行軍していた姿を想像する。
中国人を「匪賊」と見做し、
その命を奪うことが使命だった兵士たち。
中国人の命と尊厳を踏みにじると同時に自らの人としての意識をも
摩耗させることによって兵士としての日々を生きたのだろう。

ナチスのユダヤ人捕虜収容所でも、
ユダヤ人を人間と見做さないと思い知らせるだけでなく、
ユダヤ人同士がお互いを人と見做せないように計画し、
綿密に実行していたという。
今の時代のイジメ行動もこれに似ている。
「人が人でいられない状況」は想像するだけでも凍りそうになる。

この歌は甘いのではないだろうか。
生きて日本に帰って来られた、
その後だからできた歌なのではないのか。
そう疑うのは幸せな戦後世代の思い上がりだろうか。

1986年、南昌新建県のある村で、椿会副団長の井上さんは、
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。
これからは、日中友好のために尽くしたいと思います。』

と、村長に深く頭を下げて謝罪した。
村長は、うん、うんと頷いて握手し、二人とも涙を流していた。
(その時の通訳博堅先生からの聞き取りに拠る:2013年6月)

敗戦からこの謝罪まで、
元兵士たちはさらに40年以上の時を生きなければならなかった。
それもまた地獄だったのではないだろうか。


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