毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「大江健三郎『家族の両義性』について」No.1881

2017-03-04 19:04:04 | 

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よろしくお願いします。***

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昨日、「最近よく落ちる樹の花?」と紹介したものを拡大したのが下の写真です

これがあと少ししたら白い綿を辺り一面ふわふわ巻き散らかすので、

絶対マスクが必要になります。

これ、北海道でも子どもの時よく見ていた気がするんですが、

やはり名前が分かりません……。何だったかなあ。

 

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子どもの頃、私はまあよく本を読んだ方でしたが、

仕事をしつつ子どもを産み育てている間はなぜかハウツー物ばかりで、

今に至って読みたいのに読んでいない本が信じられないくらいいっぱいあり、

これからの、そう長くない人生の時間を思うと、

(ピッチあげなあかんな)と思う今日この頃です

 

昨夏、神戸の古本屋さんで買うだけ買って放置していた何冊かの中に、

大江健三郎さんの『あいまいな日本の私』(岩波新書)があり、

今回菏澤まで持ってきました。

 

余りにも有名な1994年のノーベル賞受賞記念スピーチの他、

1995年、大江が60歳で作家生活に一度区切りをつけた時期の講演が

全9編収められた本です

時に読み続けるのが苦しく、持ち堪えられなくなる彼の小説作品とは違って、

この講演集では大江健三郎の天性の、否、恐らくはその人生で心に刻んできた

深い優しさに説得され、不意を突かれ、

突発的に涙が噴出することもしばしばでした。

60歳を機に小説を書くことを止め、人生の終末期の仕事にとりかかろうとする

大江さんが聴衆に語りかける言葉には、それぞれテーマの違いがあっても

必ず、人間が希望を持ち続けることの大切さが底に流れています。

愛媛県の山奥で育った大江さんは子どもの頃、樹々を心の友としていたとのこと、

私もそうだし、おそらく山奥育ちの多くの子どもにとって樹は特別な存在ではないでしょうか。

私は大江さんのように一本一本の名前がパッパと出てこず、

すぐ他人に頼るところが残念ですけどね。

 

本当に珠玉の講演集ですが、特に、

この冬休み、娘夫婦の家に日参し、

彼らが育児を懸命にこなしているのを見ながら、

親と子の関係についてあれこれ感じていた私には、

大江さんがご自身の体験をも交えて家族について講演された内容は、

どれもすうっと腑に落ちて、書き留めておきたくなりました。

文章が長いため最後の部分だけの引用なので、

タイトルとは異なり、「両義性」についての説明では

ないのです

あとは自分で買って読んでね~~。

―――「家族のきずな」の両義性―――

「(シモーヌ)ヴェイユは、人間にとって一番重要な能力は、祈ることができる能力だと言っている。その祈る能力を訓練するためにはどうすればいいか、それをどう学ぶことができるか、ということですね。

そこでヴェイユは、注意力を育てるようにすればいい、と言っているんです。

学校で勉強するということは、注意力をつけるために勉強しているのだ、と言うんです。

注意力をつけようと思って勉強していると、それでも失敗することがある。そうすると、謙譲な性格ができる、とも言っています。

そして私はね、学校のほかに注意力と謙譲の力とを学ぶことができる最良の場所があるのじゃないかと思います。

それが家庭あるいは家族の中ということじゃないでしょうか?

家族の中で注意深くあることを学ぶということはできます。『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマがありましたけれども、宇宙の荒野での話で、みんなが家族ともども注意力を働かせて生きなければ死んでしまいますから、みんなが一番学んでいるのは注意力についてなんです。この惑星での日常生活でもね、お父さんが「君は注意力が足りないぜ」と言うのは根本的な教育でしょう。家庭の中で注意力をつけるということを勉強することはできるのです。

同時に、間違いを自覚するということで、謙譲の徳ということを人間が獲得するというその過程、そういう進み行きも、家庭で、家族の中で行われる場合、優しくできると思うんです。

それが一番自他を傷付けないで失敗から学ぶことのできる仕方です。家庭の外で失敗して、謙譲の徳を勝ち取ることもできますけれども、社会に出てから失敗するということは辛いことですよ。

家庭というところでは、失敗を通じての謙譲の徳というものを柔らかに獲得することができる。もう一度言いますが、お父さんお母さんが、日常生活の中で、子どもに教えてあげることの中心にあるのは、注意力ということです。

お母さんが赤ちゃんに言葉を教えるということも、間違った言葉を赤ちゃんが発すると、それを受け止めて、正しい文脈においてフィードバックしてやって、注意して言葉をしゃべるように教えることだそうです。

育児というものの根本・家庭の教育の原理は注意力を与えることにあるんです。

さらに両親はね、子どもとの関係において、しばしば自分の注意力の不足、謙譲の足らなさを、ゾッとするようにして自覚するんですよ。

家庭とは、ほんとうに私たちが安心して失敗することのできる場所。失敗しても、それで迷惑をかけた相手に憎まれないと言うか、その上で改めてお互いに和解しあうことのできる場所、その基本的なモデルです。そういうところで私たちは注意力を学ぶ。

その結果、私達信仰を持っていない人間にも、お父さんやお母さんや娘や息子が一つの方向に目を向けることができるようになる。そしてそれは、家族における上下関係、家族における圧政を伴うような、権力を伴うようなハイアラーキーとは違ったかたちを発見していく、そのための出発点たりうるものだと思います。

そういう態度を私たちの家族が獲得していく。それが我々の社会において、民主主義が家族の中に滲み通り、それが本当に人間らしいものになる、私たちの魂の問題にすらなる、ということの出発点ではないだろうかと私は考えるのです。

(1994年11月26日、上智大学、国際家族年記念講演)

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やっぱり、あまりに無責任なのでちょっとだけ、

「家族の両義性」について述べているところも、

書き足します(眠いけど力を振り絞って)。

大江さんが親は子どもを育てると同時に弾圧する役割を持つ存在だと言い、

彼自身が光さん(彼の息子)に対して上位に位置していたのではないかと

気がつかされたときのエピソードは、

まさに大江さんならではの注意深さです。

(息子の光さんが脳に障碍と言うか、脳に瘤を持って、言い換えれば二つの脳を持って

生まれてきたことや、生まれて6年間鳥の声しか理解しなかったこと、

現在音楽家として表現活動をしていることなどは、

周知のことですが蛇足的に書き置きます)。

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「私は子どもを理解しようとしていた、あるいは子どもの側に立って生きて行こうとしてきた。それは今でも、そういうように言うことができるのじゃないだろうかと思います。

一所懸命そうしてきたんだけれども、知らず知らずのうちに、自分が家庭の中で子どもより優位に立っているということがあったんじゃないか?(中略)即ち、家庭における親の上位、子どもたちの下位、権力を持って支配する者、それによって支配される者という、よくある構図が自分の家庭にもあったのじゃないか、ということに少し気がつき始めているわけです。(中略)

今からもう十数年前になりますけれども、私はあまり摂生しない人間なものですから、そういう生活の積み重ねの上で、とうとう痛風になってしまいました。足が赤く腫れ上がって、もう痛くて、動くことができないんです。一週間ほど動くことができなかった。

たいてい私どもはいつも居間に居まして、その居間の一番北の端で息子が作曲して、南の端で私が小説を書いて、家内と他の子どもたちの生活がその中間で行われるということになっています。

痛風になったものですから、その居間の長椅子に私が寝そべって、ずっとそこで一週間何もできない人間として暮らしていたわけです。そうしましたらば、子どもが喜びました、その光という長男が。彼は興奮しましてね、大きい獲物を打ち倒した若い猟師のような感じですよ。私の傍をドンドンドンドン駆け回って、喜んでいます。私に何かしてやろうとします。水を飲ましたり、辞書を取ってくれたりします。

そのうち彼は、あまり楽しんでいるうちに転んでしまった。私の足の上に倒れる。私は絶叫する。するとあまり面白いものですから、もう一度、こちらの隙を狙って倒れる(笑)。私としては、もう一度絶叫せざるを得ない。そういうことがあった。

そのうち私の痛風が治ってくると、また彼は静かな人間に戻って、私の周りを熱狂して走り回るということはなくなったのです。もしかしたらあの時、彼は自分と父親の関係が逆転したと思っていたのじゃないか?これまでは父親が上位だった、自分が下位にあった。ところが今や父親は何もできない。自分が何もかもやってやらなきゃならない。水も飲まさなきゃならない。時々は絶叫させてやらなきゃ、運動不足だ、というようなことを思ったんじゃありませんかね?

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 ☝これも、何だったかなあ( ^ω^)・・・

 

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2 コメント

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Unknown (mr.black)
2017-03-05 21:15:08
最初の写真の植物は多分「きぶし 木五倍子」だと思います。2枚目のは「みつまた 三椏」 、「こうぞ 楮」と同様和紙の原料になる落葉低木です。
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mr.blackさん (ブルーはーと)
2017-03-07 23:01:15
ありがとうございます。樹木図鑑で見ると、なるほど、キブシ、ヤシャブシと似たのがありますね。でも、ハシバミ、ハンノキというのも酷似しています。私は写真を2か所で撮ったのですが、違う種類の木を同じものだと勘違いしていたかも知れない、と後で気がつきました。よく見たら垂れ下がっている雄花が、数本まとまっているのと、一本だけのと、木によって違うのです。またバシバシ写真を撮ってブログにUPしますので、お教えください。
もう一つはミツマタですか~!中国原産なんですね。日本の北限は青森県だそうで、どうりで北海道の学校で「コウゾ・ミツマタ」と習いはしましたが、実際の木を見たことはありませんでした。北海道と本州以南では植物分布も大きく異なり、大阪で教師になってから四苦八苦した経験があります。
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