『若者から若者への手紙 1945←2015』
落合由利子、北川直実、室田元美〈著〉
出版社:ころから
時を超え、2015年の若者が70年前の若者に宛てた手紙。
敗戦の1945年に10~20代の若者だった15人の戦時体験談と、
それに対して書かれた15通の手紙をまとめた本です。
フェイスブック友だちみくにさんの投稿記事で知りました。
その記事に紹介されていた
1945年当時若い女性教員だった岩瀬房子さんの手紙と写真、
2015年に現役の20代教師である武井佑紀乃さんから岩瀬さんに宛てた
手紙と写真を孫引きさせていただきます。
私も教員の端くれですので、もし、その時代に自分が現場に教師としていたら……と
疎開の場面は胸苦しい思いで読みました。
敗戦で、それまで自分が信じていたことを黒塗りしなければならなかったのは
精神的にたいへんな苦痛だったことでしょう。
しかし、もう一度生き直す活路を日本国憲法に見つけられたのは
納得です。
「すべて人間は生まれながらにして、幸せに生きる権利がある」
と、高らかに宣言した日本国憲法は、
庶民が人間らしく生きるための最強の武器です。
岩瀬房子さん
『私が念願の教師になったのは1942年。十八才の春でした。
前年の十二月八日、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃しました。今でもはっきり覚えています。朝、新聞を読んでいた父が、ふだんは穏和な人だったのですが厳しい顔をして「アメリカと戦争して、勝てるわけないじゃないか。バカなっ❗」と吐いて捨てるように言ったのです。
その朝、「行ってまいりまあす」と家を出て振り返ると、家の物干しでは洗濯物がひらひらと風に揺れ、空は青々としているのよ。「こんなに静かで平和なのに、戦争が起こるんだろうか……」なんだか不思議な気持ちだった。
それから世の中全体がだんだん、戦争に協力しなくちゃいけないムードになっていきました。「贅沢は敵だ」と言われ、女の人は「パーマネントはやめましょう」ってお互い注意し合うようになったりね。私が勤め始めた国民学校でも、男の先生は出征して次々いなくなった。朝礼の音楽も、最初はタンタカタッタって、軽快な「トルコ行進曲」だったのに、いつのまにか「海ゆかば」になりました。この曲を聞くと、海に浸かっている血まみれの兵隊さん、雨にしたたか濡れて横たわる兵隊さんたちの姿が浮かんで、何とも言えない気持ちでした。ですから私は今でも、「海ゆかば」が嫌いです。
いよいよ戦争が激しくなってきた1944年八月。三年生の女生徒たちを引率して、長野の、戸倉温泉(現・千曲市)に学童疎開することになりました。私が受け持ったのは二十人ぐらいでした。子どもたちは遠足気分でリュックを背負い、いっぽう、駅に見送りに来たご両親は気が気ではないようでした。私の胸にぶら下がるようにして、「この子はすぐ風邪を引くんです。先生、よろしくおねがいします」「おねしょしないように、おしっこに起こしてやってくださいね」とおっしゃってね。一人ひとりの母親代わりになるんだと思うと、不安でいっぱいでした。
遠足気分の子ども達が喜んだのもつかの間で、三、四日経つと家が恋しい、帰りたいと言う。疎開先でもだんだん食べ物が粗末になって、子どもたちはお腹を空かせて、枕の中の小豆まで口にしていました。お夕飯はみんなで輪になって食べましたが、すいとんが出ると、私は大人だから一つぐらい多く入っているの。子どもたちの目が、じーっとそこに注がれて、でも、一人にあげるわけにはいかないし。もう、味なんてない。飲み込むようにして食べましたね。……
忘れもしない、45年の夏のことです。ある夜中に「グオオオ~」っとものすごい地響きがして、続けて空襲警報がなったのです。信州の山の中まで米軍のB29が飛んできたんですね。慌てて、旅館の二階に寝ていた子どもたちを起こしたものの、どうしていいか分からない。一階に降ろして場名前を呼んで、全員いることを確認して、玄関の側の広間に頭を真ん中にして放射状に寝かせました。そして、布団を何枚もかぶせて、その上に私がうつぶせに乗って「起きちゃだめだよっ!頭を上げるんじゃないよっ!」後にも先にも、あんな乱暴な言葉で怒鳴ったことはありません。とにかく子どもたちに飛び上がられちゃたまらないと思って、幸い爆撃はされませんでしたが、心臓も凍る思いでした。よそさまの子どもに何かあったら……。自分のことなんかこれっぽっちも考えられなかったわね。彼女たちとは、今でも時々会いますが、「布団の重み、肩が覚えていますよ」「あのときの先生、怖かった」などと言いますよ。「先生は重かった」(笑)って。だって、命だもの。
日本は勝っている、と聞かされてきましたが「B29が信州にまで飛んできたのだから、もう負けだな」と思いましたね。玉音放送は泊まっていた旅館の前に整列して聞きました。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という、あの放送です。ああ、日本は負けたのだと、ずしーんと鉛でも呑まされたみたいになりました。子ども達を部屋に集めて、戦争に負けたことをどう伝えたものか、子どもたち、泣くんじゃないだろうか。
ところが、一瞬、しーんとした後で、スギちゃんという小柄なお転婆さんが、素っ頓狂な声を出して、「おうちへ帰れますね!お父さん、お母さんに会える!」他の子どもたちも喜んでチョウチョのように部屋の中を飛び回って、私も「ああ、そうだ。戦争で殺されることはもうない。私も子どもたちも助かったんだ」。へたへたとその場に座り込んでしまってね。
生きていることが一番大切なんだと、子どもたちに教えられました。だから、私の原点は、敗戦なんです。
けれども気持ちは晴れない。私も学校では「日本でいちばん尊いのは天皇陛下です」と教えた。二重橋を知らないという子供たちを連れて、無邪気に皇居へ参拝に行ったこともあったのよ。なんにも知らなかったと言えばそれまで。だけど、戦争に加担したことになるんじゃないか。教師として辛い時期でした。「これから日本はどうなるんだろう」。子供たちの教科書を回収して、戦争を賛美する言葉を塗りつぶしながら、それが何を意味するのかさえ分からない。もしかすると、こうしてこれから全て、アメリカの言いなりになるんだろうか、と思いました。一年ほどして結婚し、子どもができたのを機に、教壇を去りました。
自信を失っていた時、希望を与えてくれたのが「教育基本法」と「日本国憲法」でした。目を皿のようにして新聞を読んで「すごい、すごい」。あの時はうれしかったですねぇ。とくに戦争放棄をうたった憲法九条は、こんなことができるんだ、と。私はようやく立ち直ることができた。「これで生き直せる❗」と思ったの。
三人の子育てを終えてからは、もう一度、戦後の新しい民主主義を学び直したいと思った。理由はいろいろあったんですけど、一つには、知らないことは罪になる、と戦争でしみじみわかったから。市川房江さんの下で学んで、もともと、亥年で猪突猛進なものだから、おかしいと思ったら自分から走り出して、そうやって平和のことや、地域を暮らし易くする活動にずっとかかわってきました。近所の子どもたちに戦争のことを伝えたいと思って、親子で「裸足のゲン」や「ガラスのうさぎ」を鑑賞する「いずみの会」を立ち上げました。
それなのに、二度と戦争をしてはいけないという当たり前のことも、命の大切さも、今の時代、わからなくなってきているようです。
命がいちばん大事。私は疎開先で子どもたちから教わった。生きている限り、それを伝えたいのです。』
武井佑紀乃さん
『拝啓
あの日のあなたへ
私は今、二十代も半ばを過ぎ、教壇に立つのも四年目になります。自分が学生だった頃は「先生」というと、本当に大人で、住む世界も違って、だからこそあまり好きではなくて……思春期ならではの「心のモヤモヤ」ぶつける相手でした。そんな子どもだった私がまさか教師になるなんて、当時は考えも及びませんでした。今でも当時の先生方とお会いすると、頭が上がりません。
社会人になり、周囲からもやっと「大人」の扱いを受けるようになった頃、祖母から色々な昔話を聞かせてもらうようになりました。祖母は長崎出身で被爆者でした。私は実体験に基づく凄惨な話を身近な人から聞くことで、ぐっと「戦争」というものが身近に迫った心持がしました。「食べ物を思い切り食べられることが幸せ」「家族で一緒に旅行に行けるなんてすごい」……祖母がそれまで言っていた言葉の、本当の意味がわかった気がしました。当たり前が当たり前ではなかった時代がある。今を生きる私たちは、当時の経験がないからこそ、事実を知らなければならないのだと痛感するようになりました。
そんなときに岩瀬さんのお話をうかがって、同じ年頃で、また、同じ教師として、本当に胸が張り裂けそうでした。自分が岩瀬さんのような経験をすることになったら……。考えても、考えても、私には平和でない日本が想像できませんし、答えがみつかりません。岩瀬さんが感じられた寂しさや、つらさ、悩み、憤り……想像を絶することでしょう。共感だなんておこがましいとさえ、感じました。情けないです。しかし、今も昔も変わらないのだと、変に嬉しく感じられたのは「大人が子どもに教えられることがある」ということでした。終戦の瞬間、「助かった!」「家族に会える!」と声に出して叫べた大人どれだけいたことでしょう。軍国主義に染まっていた日本で、純粋に家族を恋しく思い、自分の心のうちを正直に表現できたのは、子供だけだったのかもしれませんね。
私は今、中学生や高校生と一日の半分以上をともに過ごしています。教師という立場ですから、褒めたり、叱ったり、時に一緒になって何かに夢中になったりもします。いつか立派に成長した教え子を見るのが私の夢です。ですが、子どもであるはずの彼ら彼女らに、はっと気付かされるときも多くあります。授業中、思いもよらぬ質問が飛んできたり、まっすぐな感情で喧嘩をしていたり、私たちが成長してしまって「できなくなったこと」を、子どもたちはまっすぐに行います。岩瀬さんもあの終戦の時、そんなことを感じられたのではないでしょうか。
わたしは「せんせい」としてはまだまだ未熟です。ですが私なりに、先に生きてきたものらしく、誇りを持って次世代の子どもたちに多くのことを教え、伝えていきたいと思います。そして、岩瀬さんのような素敵な「せんせい」がいらっしゃったことも。』
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