写真:東京新聞webより
上川陽子外務大臣(静岡一区選出・法務大臣歴3回)が
連日、静岡県知事選挙の自民党候補応援に入り、
5月18日に「今一歩を踏み出していただいたこの方(大村候補)を女性が産まずして何が女性でしょうか」
と驚きの発言をした。当然ネットは大騒ぎで、野党から
「産みたくても産めない女性への配慮に欠ける」などと批判され、翌日に
「女性パワーで未来を変えるというわたくしの真意と違う形で受け止められる可能性があるというご指摘を真摯に受け止め、この度撤回をいたします」
という展開になった。
上川さんは「女性パワーで大村候補を当選させる」というのが発言の真意で、
「子どもを産まなければ女性ではない」と意味したものではないと言いたいようだ。
ネット上の上川発言支持者の主張も、
〈上川氏は「自分も含めた女性たちが自民党の候補を知事にしよう」という趣旨を、「女性」「うむ(産む、生む)」という言葉で表現しているだけだ。切り取り過ぎの的外れな批判に対してひるむ必要は全くない〉というものだ。
そこでおやおやと思うのは上川外相、ネット支持者の双方とも
「女性」=「うむ(産む・生む)」ということを前提にし、
それに何の疑念も違和感も抱いていないことである。
つまり、女性も男性もようやく
多様な生き方が是認されるようになった現代日本社会にあって、未だに、
「女性は産んで当たり前の存在だ」というステレオタイプを肯定しているために、
「産まずして何が女性か(産まなかったら女性ではない)」などという言葉が
たじろぎもせず口から出るのだろう。
この価値観は次の‟筋金入り”の人々の発言と全く同じ脈絡にある。
故石原慎太郎(当時都知事)
「❝女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です❞って」
「❝男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だ❞って…。」(引用の形で自説を述べたもの。2001年)
杉田水脈(自民党衆院議員)
「彼ら、彼女ら(LGBT)は子どもを産まない。つまり生産性がない(だから彼ら・彼女らに税金をかけるべきでない)」(2018年)
森喜朗元首相(当時自民党衆院議員)
「子どもを一人も作らない女性が、好き勝手して自由を謳歌して楽しんで年取って…。それを税金で面倒見るのはおかしい」(2003年)
柳沢伯夫元厚労相(自民党)
「女性は産む機械」(2007年)
上川陽子さんは静岡雙葉高校というカトリック系女子高校出身でカトリック教徒だそうだ。
カトリックの教義では、「結婚(子づくり)とは、神創造への協力と考えているため、子どもを産むことは神への貢献」なのだそうだ。
国家主義的「産めよ増やせよお国のために」というのが、
上に挙げた石原慎太郎・森喜朗・杉田水脈・柳沢伯夫などの考えだが、
上川さんは宗教的信念に基づき、子を産むことを是としているのかもしれない。
(そうは言っても法相時代に、「殺すな」というカトリックの信念も何のその、
死刑執行を断じたのだから、彼女の宗教的信念というのも
国家のシステムの前には大したものではないようだ)
結局、上川陽子という人は所詮、権威に弱いただの優等生なんだろう。
だから、「神への貢献」などと真面目に考えたその頭で、
ほどなく自民党に巣食う「国家への貢献」病にも適応してしまうのだろう。
いずれにしても、今回の「産まずして何が女性か」発言は、
自民党の時代錯誤的価値観を余すところなく露呈しているように私には思える。
しかし、野党が「産みたくても産めない女性への配慮がない」とだけ批判するとしたら、
それはまた同じ穴の狢ではないか。
安心して命を育めない環境に置かれている場合、あるいはそもそも機会がない場合、
「(身体的には)産めるけど産まない女性」がいるのも当たり前だ。
産む、産まないは国家や神様ではなく、個々の女性が自分で決めることである。
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結局、静岡知事選で自民党候補は落選した。
「大村知事」を産まなかった静岡県には女性がいなかったのだろうか(笑)。
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