キラキラ

毎日の生活を写真と共に綴っていきます。

無言歌(映画)

2012-01-16 04:29:27 | Weblog

 新しい年の1月9日(日)に

また、また 十三の七藝に向かいました。

そうです。映画を観るために・・・。

 

 

 

 

(七藝の下には、門松も。)

 

 

 

 

次男からは、『マイナーな映画を観るのが好きなんやなぁ~。』

とからかわれながら。

 

 

 

友だちからは、「周りの人があまり観ない映画に行くんですね。」

なんて言われています。

 

 

今回の映画は観ていて、とても辛かったです。

『ムーランルージュの青春』 を観た時に予告編が放映されて

『この映画は、是非観たい!!』 と思い張り切って行ったのですが

しおれて帰ってきました。

 

 

 

 

 

(ゴビ砂漠には、作物も実りません。)

 

 

 

 

 

 

『むごい、残酷』 な映画でしたねぇ~。

『氷雪の門』 では、しっかり泣けましたが、悲し過ぎて

涙も出ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 ストーリーは

1949年、毛沢東の革命は希望だった。

1956年、毛沢東は自由な批判を歓迎すると言った。

人々は未来を思い、はつらつと発言したものだ。

しかし、その数ヶ月後。彼らを弾圧する 「反右派闘争」 が始まった。

彼らはだまされたのだろうか、彼ら自身の政府に。

 

 

 

(これを読むと、無言歌の映画の背景が分かるようです。)

 

 

 

 

反右派闘争というのは、

毛沢東は、『共産党への批判を歓迎する』 という

『百花斉放・百家争鳴』 と呼ばれる運動を推進。

これ以後、知識人の間で中国共産党に対する批判が

出始めるようになった。しかし、1956年6月 毛沢東は人民日報に

『右派分子が社会主義を攻撃している』 という社説を掲載させ

突如、方針を変更。ここから一気に、それまで党を批判した人々を

容赦なく粛清する 『反右派闘争』 が始まった。

 

 

 

 

 

 

(監督・新藤兼人さんや女優・小山明子さんもメッセージをよせています。)

 

 

 

そして、

右派分子とされた人々が収容された再教育収容所では、

ちょうど59年から61年にかけての 『大躍進政策』 がもたらした

飢餓の時期と重なったため、多くの死者を出した。78年以降、多くの

「右派」の名誉回復を行ったが、いまだに名誉を回復されていない者も多い。

 

収容所と言っても

ゴビ砂漠の中にある洞穴のようなものでした。

飢餓の時期と重なったとあるように

映像には、仲間の嘔吐物の中にあるトウモロコシの実を食べる

ネズミを煮て食べる という胸の痛む場面もあり

目を覆ってしまいました。

 

 

 

 

そして、どんどん人が死んで物のように埋められていく。

その死体のももの部分や臀部がえぐり取られていたということも・・・。

 

 

 

 

 人間って、どこまでも残酷になれるのです。

権力者が、自分に都合が悪くなると、主義を翻す。

 

それでは、説明のつかないものを、この映画は訴えているように思いました。

 

 

 

 

 話は変わりますが、このごろPV数やIP数がずい分増えています。

順位もつくようになりました。

たくさんの方に読んでいただいてうれしいです。ありがとうございます。

 

1月15日のアクセス数 は、

閲覧数:687PV    訪問者数:232IP

順位: 4,299位 / 1,673,105ブログ中 (前日比  )

 

 

 

 

 

(迎春の幕が下がっている十三の商店街で、お買い物をして

 帰ってきました。)

 

 

 

 

1月16日のアクセス数 は、
閲覧数:629PV    訪問者数:283IP
順位: 3,033位 / 1,673,439ブログ中 (前日比  )  でした。

 

この日のブログは、途中で用事ができて2日にわたって完成の目をみました。

 

コメント
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