仁寺洞の火事について、こんなコラムがありました。朝鮮日報は何日かするとリンクが切れて有料になるので、全文を引用すると…
【萬物相】仁寺洞の路地
狭くて暗い室内、やぼったい木の椅子、きしむ床。ソウル市鍾路区仁寺洞の路地にある居酒屋「平和作り」は「梁山泊」という名前が似合いそうだった。同所は有名な芸術家、名士が集まる巣窟だった。1985年に小説家ユ・ジョンリョンが店を出し、最初は若い詩人たちが出入りしていた。聖歌隊出身の奇亨度(キ・ヒョンド)が大学の友人、ソン・ソクチェと共に美しい声で二重唱をした。申京淑(シン・ギョンスク)が初めての小説集を持ち込み、恥ずかしそうに名前を書いて帰っていった。
92年にイ・ヘリムが店を引き継いでからは、思想の左右、年齢を問わず混み合った。多くが顔見知りで、自然と交流が生まれた。酒代を誰が払うのか分からないほど、毎晩大騒ぎとなった。韓国料理店「宣川」は平安北道宣川出身の人が69年に開店した。すぐ隣の「サチョン」はその数カ月後にオープン。多味、友情、テファ、ヒャンジョンも、手のひらほどの四角い庭を持つ韓国式家屋の店だ。狭い路地、身をかがめて座る部屋で食事をし、雨でも降れば、心がしっとりと濡れる。
朝鮮王朝時代、仁寺洞は漢城部寛仁坊大寺洞という名前だった。「大きな寺」円覚寺があったためだ。宮廷に近く、李栗谷イ・ユルゴク)をはじめ両班(貴族階級)の官吏たちが暮らし、大院君の自宅、雲ヒョン宮もあった。仁寺洞という名前は、日本による植民地時代、日本が寛仁坊と大寺洞から1文字ずつ取って付けた。権力を握った人たちが没落する中、邸宅は細かく分かれ、小さな改良韓国式家屋に変わった。それらが「宣川」をはじめとする、今の韓国料理店だ。両班の家の高価な品々も市場にあふれ、骨董(こっとう)品店や古書店が繁盛した。
先日の夜、仁寺洞で火事が起きたと聞き、胸がどきっとした。ガスボンベが爆発する音が都心に響き渡った。場所は仁寺洞文化通りから少し離れた鍾路タワーの裏、仁寺洞3通りの飲食店街だった。旧大韓帝国末、閔泳煥(ミン・ヨンハン)が自決した場所、ハナツアービルの裏、鍾路に斜めに抜ける道だ。豚の皮や巻き貝あえなどを販売していた木造の店20軒余りが灰となり、すっかり崩れ落ちてしまった。車1台がようやく通り抜けられるほどの道で、消火活動に苦労したという。
外国人たちは仁寺洞の路地を「Many's Alley」と呼ぶ。見るものが「多く」並んでいる路地だという意味だ。その路地には昔のものと新しいものが混在している。詩人・千祥炳(チョン・サンビョン)の妻が経営していた伝統茶店「クィチョン」の双和湯(煎じ薬の一種)の香りとハングルの看板を掲げたスターバックスのコーヒーの香りが混じり合う。伝統的なまげを付けた高齢者の占いの店では、髪を黄色く染めた1組のカップルが相性を見てもらっている。仁寺洞の情趣は毛細血管のように広がった路地からあふれている。今回の火災は、消防車が入ることができなくても消火方法を考えておくべきという警告だ。
呉太鎮(オ・テジン)首席論説委員
記事のはじめのほうに
同所は有名な芸術家、名士が集まる巣窟だった。
とあります。
巣窟という言葉の使い方がおかしいので、韓国語の原文(→リンク)をみると、やはり「ソグル(韓国語の巣窟の読み)」となっていました。
日本語と韓国語で意味の違いがあるのかと思って、韓国語のネット辞書を引くと(→リンク)
巣窟 : 悪事をはたらく泥棒や悪漢などの仲間が活動の本拠地とする所。
とあって、やはり悪い意味にしか使わない。
以前読んだ韓国の歴史教科書に、
「世宗大王は倭寇の巣窟だった対馬を征伐した」
と書かれていました。内容はともかく、巣窟の用法としては正しい。
先ほどのコラムの文脈では明らかに不適切です。朝鮮日報の首席論説委員も漢字語は苦手のようです。
もっとも、日本には巣窟を「スクツ」と読んだ元首相がいましたが。
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一読者へそこまで対応してくれたのはすごいですね。
昨今のマスコミは天皇を日王に書き換えていますので、皇室は王室になるんでしょうか。
氏のメールアドレスも付いていたので、「そのテープを何とかして手に入れる方法はないだろうか?」と、問うと、「著作権の問題があるので、テープは、自分だけで楽しんでください。」との約束のもと、私の住所を訊いてきました。
チョー・ヨンピルとは、住いも近く飲み仲間だそうで、私が韓国に住んでいる頃からのファンであることを知って喜んでいました。
また、朝鮮日報の記事についての質問にも丁寧に答えられ、誠実な人柄を感じました。
ある友人から、プレゼントされた皇室晩餐会でお土産に賜る杯が、いくつかあり、送ってくださったテープの御礼としました。
杯の説明文を、お習字の筆運びでハングルで書きましたが、「感銘と驚き以上のものでした。」と、お返事にありました。
全てハングル文字の中に「皇室」は漢字でした。
全然+肯定は夏目漱石がよく使っていました。
最近の用法は先祖返りみたいなものですね。
実は2006年の一月に、編集長だった呉氏のコラムについてメールをしたところ、返事を頂きました。
しかも、それに関したテープまで、ある放送局から手に入れて送って下さいました。
最後に、このように結ばれていました。
테이프가 즐거운 선물이 되리라 믿고, 그래서 보내드리는 저도 기분이 좋습니다.
건강하십시요.
そのあと、諸々のことで、韓国の友人に手伝ってもらい、何度かメールのやり取りをしました。
本来は「ぜんぜんダメ」とか「ぜんぜん成ってない」など否定的な言葉につかう「ぜんぜん何々」という言葉も今は「ぜんぜんオッケー」とか平気で使っています。
巣窟も昔は悪い意味でしか使わなかったのが、今では悪いニュアンスはなく単なる「溜まり場」くらいの意味になっているのかも知れませんね。