堤岩里事件は,ソウルにいた外国人宣教師の報告書がきっかけとなって,世界に知れ渡りました。
その資料について調べた韓国人研究者のレポートを見つけたので,「第一発見者」であり,韓国語に堪能だったとされるアンダーウッド宣教師の報告書を訳出してみます(→リンク)。
これは,そのとき同行していた駐ソウル米国総領事館カーチス領事が,1919年4月21日付で駐ソウル米国総領事エルロン・ボルグホルツ(ホルツバーグ?)宛に出した報告書に添付されたものです。
アンダーウッド宣教師の添付文書《The Korean Situation》より。
「虐殺と焼き打ち事件の一報」
4月16日、京畿道水原郡発安の市場近郊を旅行したアンダーウッド(H. H. Underwood)の陳述:
一行は朝9時30分頃、筆者の車に乗って、水原と五山を経て74キロ離れた発安に行った。発安に着く前、3、4キロメートル離れた所から、市場を過ぎ、低い山の向こうから太い煙があがっているのが見えた。一行は昼食を食べるためにお茶を飲んだが、筆者は近くのある集落に歩いて行き、一人の農夫に会って、一言二言あいさつした後、次のような会話をした。
アンダーウッド: 「あの煙は何か?」
農夫:「 燃えた村からあがる煙だ。」
アンダーウッド:「 いつ燃えたのか?」
農夫: 「昨日だ。」
アンダーウッド: 「誰が焼いたのか?」
農夫:(おびえてあたりを見回しながら)「軍人たち。」
アンダーウッド: 「理由は? 村人が乱暴を働いたのか? あるいは万歳を叫んだのか?」
農夫: 「何もしなかった。ただ、あそこはキリスト教徒の村だ。」
アンダーウッド: 「ここでは独立万歳を叫んだことはないか?」
農夫: 「少し前の市の日、市場であった」
アンダーウッド:「 あの村では、そういうことはなかったのか?」
農夫: 「なかったと思う。人が集まりもしないのに、どうやって万歳を叫ぶのか?」
アンダーウッド: 「軍人たちがここ、この集落にも来たのか? あなたはキリスト教徒か?」
農夫: 「ちがう。ここにはキリスト教徒はいない。」
アンダーウッド: 「あの村の名は?」
農夫: 「堤岩里だ。」
私は続いて、同じ村でもっと年配の村人に会って、同じ質問をしたが、上と同様の返事を得、また最近堤岩里で行った人はほとんど、あるいは全くいないので、何が起こっているのかよく分からないという話を聞いた。また村人たちは、少し前の市の日、市場に集まることを許されなかったということも聞いた。
私たちは昼食をとった後、その村のほうに車を走らせ、村の入口にある小川を渡れなかったので、車から降りた。私たちは、この村に通じる二つの大きい道が交わる所にある駐在所を通り過ぎた。駐在所の外には、第78連隊所属の軍人たちが立っていた。私たちが通ったとき、一人の日本人警察官が出てきて、どこに行くのかと問い、駐在所の中に入れと命令した。私たちが入ると、2人の日本軍人が立ち上がって出て行った。私たちはみな、彼らの肩章に星が3つついていて、赤く輝いているのを見た。これは第1軍曹のバッジだそうだ。私たちに駐在所の中に入れと言った警察官は、小銃を担いで外に出た軍人たちに付いて行った。しばらくして私たちは、さっき出て行った警察官が先頭に立って、彼らが南陽に向かう道を行くのを見た。
私は日本語ができないが、少しは分かるのでだいたいは聞きとった。カーチス氏はそこの道路、橋梁、そしてソウルにいる知り合いたちについての話をした後、それとなく火事について質問した。彼は小規模の火災があったが鎮火したので大したことはないと言った。彼は騒擾事件について聞かれると、そのが少し騒がしかったが、もうすべて終わったと答えた。
カーチス氏はもう少し世間話をしてから、火事場見物をかねて少し散歩をしたいと言って、村から人力車を呼んでくれと言った。主任は「何の火事か」と聞いた。カーチス氏はこの近くの火事と言い、でも私たちは人力車に乗って5、6キロほど田舎道を走ってみたいと言った。主任はちょっと驚いたようだったが「はい」と言ったあと、人力車乗り場の所まで、警察官を一人つけて送ってくれた。そこで私たちは、人力車3台を連ねて出発した。煙が上がっている村は、邑から1・6キロほど離れており、少し乗ってから人力車を降り、低い丘の下を歩くと山腹に少し前に見た村があった。
私たちの推算と、さっきの韓国人たちの陳述は、その村に約40軒の家があったが、そのうち4、5軒だけを残してすべて燃えてしまったということで一致した。残っている4、5軒の家を除き、残りはただ煙のくすぶる灰燼に変わっており、あちこちでまだ炎が見えていた。私たちは、女、子ども、そして年寄りたちが、村の上のほうの山の中腹に座って、何も言わず絶望の中で村を見下ろしているのを見た。
私たちは、村の端から端まで歩いたが、上のほうに歩いていく途中、ひどく焼け焦げた一人の若者の死体が、ある建物の外に横たわっているのを見た。後に、この建物が教会だったことを知った。私たちは、この死体をそのまま写真に撮った。村を見回ったあと、私たちは山すそを上がり、前に言及した人々の中の一人の男性を呼んだ。彼が来たので、私が質問すると、恐怖とショックのため精神がうつろであることがわかった。彼は片手で頭を押さえ、自分のすべての財産と何年間もの努力が水泡に帰したと言った。私は彼を慰め、火事がいつ起きたか尋ねた。彼は昨日の今頃(午後9時)と言った。
アンダーウッド:「 どのように始まったのか?」
韓国人:「 軍人たちの仕業だ。」
アンダーウッド: 「火傷をしたり怪我をした人は多いか?」
韓国人: 「軍人たちは、教会の中にいたすべてのキリスト教徒を殺した。」
アンダーウッド: 「火曜日の午後に、どうして教会に集まったのか?」
韓国人: 「それは、軍人たちが来て、キリスト教徒の男性はみな教会に集まれと言った。」
アンダーウッド: 「女たちも教会に集まったのか?」
韓国人:「 いなかった。女は来るなと言った。」
アンダーウッド: 「では、キリスト教徒たちが教会に集まった後、何が起こったのか?」
韓国人:「 軍人たちが彼らに銃を撃ち、また斬りつけたり(軍刀と銃剣で)したあと、教会に火をつけた。」
アンダーウッド: 「他の家は、どのように火がついたのか?」
韓国人: 「ある家は教会の火が燃え移り、風向きが逆で火が燃え移らなかった家には、軍人たちがあらためて火をつけた。」
アンダーウッド:「 あなたはどのようにして生き残ったのか?」
韓国人: 「私はキリスト教徒ではない。キリスト教徒だけ集まれという命令を受けた。」
アンダーウッド: 「あなたの家も燃えてしまったのか?」
韓国人: 「そうだ。」(手で示しながら)「廃墟になった。」
アンダーウッド: 「でも何軒かが残っているのは、どうしてか?」
韓国人: 「離れていた家だけ、数軒が残ったのだ。」
アンダーウッド: 「教会で死んだ人は何人ぐらいか?」
韓国人: 「約30人。」
(つづく)
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これは,そのとき同行していた駐ソウル米国総領事館カーチス領事が,1919年4月21日付で駐ソウル米国総領事エルロン・ボルグホルツ(ホルツバーグ?)宛に出した報告書に添付されたものです。
アンダーウッド宣教師の添付文書《The Korean Situation》より。
「虐殺と焼き打ち事件の一報」
4月16日、京畿道水原郡発安の市場近郊を旅行したアンダーウッド(H. H. Underwood)の陳述:
一行は朝9時30分頃、筆者の車に乗って、水原と五山を経て74キロ離れた発安に行った。発安に着く前、3、4キロメートル離れた所から、市場を過ぎ、低い山の向こうから太い煙があがっているのが見えた。一行は昼食を食べるためにお茶を飲んだが、筆者は近くのある集落に歩いて行き、一人の農夫に会って、一言二言あいさつした後、次のような会話をした。
アンダーウッド: 「あの煙は何か?」
農夫:「 燃えた村からあがる煙だ。」
アンダーウッド:「 いつ燃えたのか?」
農夫: 「昨日だ。」
アンダーウッド: 「誰が焼いたのか?」
農夫:(おびえてあたりを見回しながら)「軍人たち。」
アンダーウッド: 「理由は? 村人が乱暴を働いたのか? あるいは万歳を叫んだのか?」
農夫: 「何もしなかった。ただ、あそこはキリスト教徒の村だ。」
アンダーウッド: 「ここでは独立万歳を叫んだことはないか?」
農夫: 「少し前の市の日、市場であった」
アンダーウッド:「 あの村では、そういうことはなかったのか?」
農夫: 「なかったと思う。人が集まりもしないのに、どうやって万歳を叫ぶのか?」
アンダーウッド: 「軍人たちがここ、この集落にも来たのか? あなたはキリスト教徒か?」
農夫: 「ちがう。ここにはキリスト教徒はいない。」
アンダーウッド: 「あの村の名は?」
農夫: 「堤岩里だ。」
私は続いて、同じ村でもっと年配の村人に会って、同じ質問をしたが、上と同様の返事を得、また最近堤岩里で行った人はほとんど、あるいは全くいないので、何が起こっているのかよく分からないという話を聞いた。また村人たちは、少し前の市の日、市場に集まることを許されなかったということも聞いた。
私たちは昼食をとった後、その村のほうに車を走らせ、村の入口にある小川を渡れなかったので、車から降りた。私たちは、この村に通じる二つの大きい道が交わる所にある駐在所を通り過ぎた。駐在所の外には、第78連隊所属の軍人たちが立っていた。私たちが通ったとき、一人の日本人警察官が出てきて、どこに行くのかと問い、駐在所の中に入れと命令した。私たちが入ると、2人の日本軍人が立ち上がって出て行った。私たちはみな、彼らの肩章に星が3つついていて、赤く輝いているのを見た。これは第1軍曹のバッジだそうだ。私たちに駐在所の中に入れと言った警察官は、小銃を担いで外に出た軍人たちに付いて行った。しばらくして私たちは、さっき出て行った警察官が先頭に立って、彼らが南陽に向かう道を行くのを見た。
私は日本語ができないが、少しは分かるのでだいたいは聞きとった。カーチス氏はそこの道路、橋梁、そしてソウルにいる知り合いたちについての話をした後、それとなく火事について質問した。彼は小規模の火災があったが鎮火したので大したことはないと言った。彼は騒擾事件について聞かれると、そのが少し騒がしかったが、もうすべて終わったと答えた。
カーチス氏はもう少し世間話をしてから、火事場見物をかねて少し散歩をしたいと言って、村から人力車を呼んでくれと言った。主任は「何の火事か」と聞いた。カーチス氏はこの近くの火事と言い、でも私たちは人力車に乗って5、6キロほど田舎道を走ってみたいと言った。主任はちょっと驚いたようだったが「はい」と言ったあと、人力車乗り場の所まで、警察官を一人つけて送ってくれた。そこで私たちは、人力車3台を連ねて出発した。煙が上がっている村は、邑から1・6キロほど離れており、少し乗ってから人力車を降り、低い丘の下を歩くと山腹に少し前に見た村があった。
私たちの推算と、さっきの韓国人たちの陳述は、その村に約40軒の家があったが、そのうち4、5軒だけを残してすべて燃えてしまったということで一致した。残っている4、5軒の家を除き、残りはただ煙のくすぶる灰燼に変わっており、あちこちでまだ炎が見えていた。私たちは、女、子ども、そして年寄りたちが、村の上のほうの山の中腹に座って、何も言わず絶望の中で村を見下ろしているのを見た。
私たちは、村の端から端まで歩いたが、上のほうに歩いていく途中、ひどく焼け焦げた一人の若者の死体が、ある建物の外に横たわっているのを見た。後に、この建物が教会だったことを知った。私たちは、この死体をそのまま写真に撮った。村を見回ったあと、私たちは山すそを上がり、前に言及した人々の中の一人の男性を呼んだ。彼が来たので、私が質問すると、恐怖とショックのため精神がうつろであることがわかった。彼は片手で頭を押さえ、自分のすべての財産と何年間もの努力が水泡に帰したと言った。私は彼を慰め、火事がいつ起きたか尋ねた。彼は昨日の今頃(午後9時)と言った。
アンダーウッド:「 どのように始まったのか?」
韓国人:「 軍人たちの仕業だ。」
アンダーウッド: 「火傷をしたり怪我をした人は多いか?」
韓国人: 「軍人たちは、教会の中にいたすべてのキリスト教徒を殺した。」
アンダーウッド: 「火曜日の午後に、どうして教会に集まったのか?」
韓国人: 「それは、軍人たちが来て、キリスト教徒の男性はみな教会に集まれと言った。」
アンダーウッド: 「女たちも教会に集まったのか?」
韓国人:「 いなかった。女は来るなと言った。」
アンダーウッド: 「では、キリスト教徒たちが教会に集まった後、何が起こったのか?」
韓国人:「 軍人たちが彼らに銃を撃ち、また斬りつけたり(軍刀と銃剣で)したあと、教会に火をつけた。」
アンダーウッド: 「他の家は、どのように火がついたのか?」
韓国人: 「ある家は教会の火が燃え移り、風向きが逆で火が燃え移らなかった家には、軍人たちがあらためて火をつけた。」
アンダーウッド:「 あなたはどのようにして生き残ったのか?」
韓国人: 「私はキリスト教徒ではない。キリスト教徒だけ集まれという命令を受けた。」
アンダーウッド: 「あなたの家も燃えてしまったのか?」
韓国人: 「そうだ。」(手で示しながら)「廃墟になった。」
アンダーウッド: 「でも何軒かが残っているのは、どうしてか?」
韓国人: 「離れていた家だけ、数軒が残ったのだ。」
アンダーウッド: 「教会で死んだ人は何人ぐらいか?」
韓国人: 「約30人。」
(つづく)
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