犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

新型コロナで「生善説」、「死悪説」について考える

2020-05-01 23:16:08 | 文化人類学
(今回は長いです)

 5月1日現在、全世界で新型コロナウイルスの感染者数は321万人、死者数は23万人だそうです。最も多いのは米国で、105万人以上が感染、6万人以上が死んだそう。イタリア、イギリス、スペイン、フランスなどでも2万人以上の死者が出ています。

アメリカの62,850人という死者数は、
朝鮮戦争の36,574人(戦死者と他の理由の戦場での死者の計)
第一次世界大戦の53,402人(戦死者のみ)
ベトナム戦争の58,220人(戦死者と他の理由の戦場での死者の計)
を越えるというから、大変な数です。
リンク

 一方、日本の死者数は5月1日現在435人で、欧米諸国とは桁が違う。今、世界でも日本でも、「重症者の命をいかに守るかが最優先課題」といわれています。欧米で死者が多いのは、「医療崩壊」が起こり、人工呼吸器や人工心肺が足りず、高齢者や基礎疾患をもつ患者の命を救えなかったからだとされます。現場からは、前途ある若者の救命が優先されたり、医療費を払えない患者が後回しにされたりする「命の選別」が行われるという「悲劇」が伝えられました。

 現代において、死はもっともおぞましい悪であり、生こそが善であるという価値観が、全世界に共通のものになっています。生善説、死悪説ですね。

 このような価値観は、古くからあるようです。

 人類の人口は、誕生以来、一貫して増加を続けてきました。ヒト(ホモ・サピエンス)は約20万年前のアフリカで誕生したというのが通説ですが、ヒトは誕生以来、ずっと増加しつづけた、唯一の動物なんだそうです。

 ふつう、生物は生態系の中で、一定の個体数を維持します。しかし「知恵」をもったヒトは、道具を作ったり、火を使ったり、服を着たりして、アフリカからさまざまな気候帯に活動範囲を拡げ、人口増加を続けました。シベリアから氷結したベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に入り、あるいは船を漕ぎだしてオセアニア大陸に渡って、南極を除くすべての大陸に進出し、行く先々で野生動物の多くを絶滅に追い込みました。野生の動植物の獲得が困難になると、今度は動物の飼育や植物の栽培(農耕)を始め、自ら食料を作り出すことで、更なる人口増加を実現したのです。

 このような進化の歴史の中で、生善説、死悪説が身についたのではないでしょうか。

 しかし、ヒト以外の生物では、こういうことは起こりません。

 昔、日高敏隆という動物行動学者が書いた『動物にとって社会とは何か』(講談社学術文庫)という啓蒙書を読んだことがあります。今、手元にないので記憶で書きますが、こんな例が挙げられていました。

 ヒキガエルは1万個の卵を産む。この中で、2匹(1対の雌雄)が生殖機能を持つまで生き残れば、それで種は維持される。1匹しか生き残らない場合も、3匹生き残った場合も、種の存続は重大な危機にさらされる。1対の雌雄(2匹)から、毎回1匹しか生き残らなければ、世代ごとに個体数は半減し、やがて種は途絶える。逆に3匹生き残ってしまえば、世代ごとに個体数は1.5倍増になり、やがてやってくる食料不足から種は全滅する。実際には、食物連鎖による天敵の捕食や、食料とする虫の数などの制約により、ヒキガエルがむやみに増殖することはなく、結果的に、ほぼ正確に平均2匹だけが生き残り、種は保存される。言い換えると、種の保存のためには、1万個の卵の中で2個だけが生き残らなければならない。そして、残りの9998個の卵は「正しく」死ななければならない、と。

 種の保存は、大量の個体の犠牲の上に成り立っているのですね。ここには、「生が善」だとか、「死が悪」だという価値観は入り込む余地がありません。「生善説」「死悪説」は勝れて人間的な価値観であるといえるでしょう。

 一方、ヒトには天敵がいません。ヒトより身体能力が優れた猛獣はたくさんいますが、ヒトはたぐいまれな知恵によって、猛獣を撃退し、捕食から逃れることができます。

 ヒトがすべからく狩猟採集民だった時代、ヒトは移住によって人口増加を続けました。地球のあらゆるところに広がりつくし、新しいフロンティアが無くなると、今度は飼育と栽培(農耕)によって、人口増加を加速していきます。

 しかし、家畜や農作物にも限界があります。人口が過剰になった時、人口は調整されます。調整は、天変地異、飢饉(による餓死)、感染症、戦争などによって起こります。

 天変地異を除く3つは、狩猟採集生活を営んでいた間は、ほとんど起こらなかったようです。

 狩猟採集民は、多様な食料資源から食べ物を得ていて、農耕民のように特定の食料に依存することがなかったため、たとえばある種類の木の実が不作であっても他の食料で補うことができました。したがって、飢饉も起こりませんでした。

 また、感染症は人口の稠密なところに広がるもので、人口密度の低かった狩猟採集民には広がりにくかった。

 戦争もそうです。農耕社会は、穀倉に食料を貯め、富を蓄積しますから、その奪い合いが戦争につながります。しかし、狩猟採集民は移動生活をしていますから、余分は富は蓄積しないし、人口密度が低いので、そもそも敵対集団と遭遇する確率が低い。

 「戦争の人口調節機能」については、以前書いたことがありますので、以下に再掲します(リンク)。

 まず、宮崎市定さんという中国史の大家の論。中国史に定期的に起こる大乱を、人口の観点から分析したものです。

 当時の人口はどれだけあったか分からないがまだ開発の進んでいなかった時代においてはたとえ今日から見て問題にするに足りない少数の人口でもそれなりに飽和点に達してしまうと余剰人口をどう処置するかという社会問題は不断に存在したのである。特に人民が城郭の中に住居し耕地を城外に持つという社会形態では城内の宅地はすぐ狭くなり城外の耕地はあまり遠方まで開拓しては往復に時間がかかりすぎるから耕地もまた狭隘を告げやすい。それに灌漑設備が整わぬ土地では凶作が屡々起こる危険がある。

 ところで大乱の後にもし人口が半減したとなると城内の居住地にもゆとりが出る。耕地では最も水利に便で肥沃な土地をまず耕すから天候による減収の心配が少ない。過去の傷痍さえ忘れれば働き甲斐のある暮らしよい世の中になったのである。言いかえれば戦乱が戦乱を惹起した原因を消滅したことになる。

 これは甚だ残酷なことである。だが事実は中国においてその後もずっとこのような悲劇が繰り返されてきたのである。そしてこれは歴史の中から十分に学ぶべき教訓である。当時は統計的な見方がまだ起こらず人口と資源,生産との関係を数量的に考えることもなく周期的に起こる大乱を不可避とし機械的な一治一乱という運命論で片づけていた。


 もう一つは、先にも言及した日高敏隆著『動物にとって社会とはなにか』に紹介されていた学説です。

(要約)
 戦争が起こるのは若年層の過剰人口が著しいとき。このような人口構造は、社会心理に反映して、外向的・経済的問題を戦争という手段で解決することが可能な状態になる。若者の人口が増え、しかも、産業、住宅、食糧その他生活条件の改善のテンポがそれに追いつかないと、人々の間に何とかならないものかという気持ちが醸し出される。それは、かならずしも戦争による人口の削減を求める気持ちに発展するわけではない。しかし、政府はこの人口構造を利用できる。そして、ささいなことをきっかけに戦争が勃発する。戦争が生殖力の高い若い男を死に追いやると、人口増加は一時的に緩くなる。全国的な飢餓は回避され、幸いにも生き残った人々はしばらくすると元通りの生活が約束される。

(以下は引用)
「いまだかつて、自国の人口削減を理由に掲げて戦争を始めた国はない。それでは自国民の同意が得られないからである。どの場合にも、かならずもっともらしい理由がついた。いわく、国民の生命線を守れ、民族の栄光のために、異教徒を滅ぼせ、共産主義、帝国主義の侵略を阻止せよ、等々。それにはそれなりの理由はすべて成り立つ。しかし、そのいずれも、人口学的効果は同じであったといってよい」(日高敏隆『動物にとって社会とはなにか』)


 いずれも、人口学的・生態学的に見れば、「戦争が人口調節機能を果たしている」、という学説です。

 これを敷衍すれば、

ヒトラーによるユダヤ人のホロコースト(一説に600万人

スターリンによるウクライナ人強制移住と人為的飢饉(一説に
1450万人

毛沢東の大躍進政策による飢饉(一説に
4500万人

も「人口調節機能」と見ることができるかもしれません。

 日本は、江戸時代、鎖国政策をとり、国外への人口流出が不可能でした。飢饉が起きてそれまでの人口を養えなくなったとき、農村では「間引き」といわれる嬰児殺しが頻発し、「姥捨て伝説」が伝わっています。そして、口減らしのために江戸や大坂に送られた青年、遊郭に売られた乙女は、人口密度の高い都市で感染症にやられて命を落とす…。

 明治時代になると、衛生状態がよくなり、医療が進歩し、乳幼児の死亡率が低下し、農業技術の進歩で農産物が増産され、人口は急増します。鎖国を解いた日本は、海外移民を奨励し、過剰人口を海外に送り出します。これは実は「棄民政策」だったのではないかと言う人もいます。そして、日清戦争、日露戦争、満州進出、大東亜戦争に打って出る。これらの戦争も、「もっともらしい理由」をつけた「人口調節」だったかもしれない。

 さらに想像をたくましゅうすれば、朝鮮半島の人口は、日本の植民地支配の35年間に倍増しました。同族相食む朝鮮戦争は、増えすぎた人口を減らすための「人口調節機能」の発現だった…。

 「人口が過剰になると戦争の機運が高まる」というのは、増えすぎた人類に対し「神の見えざる手」が働いたといえましょうか。それに比べれば、感染症は、生態学的にはずっと理解がしやすい。科学的に説明がつきます。人為的に密植された農作物に病虫害が発生するように、人口密度が高くなりすぎた地域に感染症が蔓延するわけです。

 村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波新書1983年)によれば、14世紀ヨーロッパに流行ったペストによる死者は、ヨーロッパの全人口の4分の1にあたる2千500万人に達したという説があるそうです。

 また、南北アメリカ大陸やオセアニアでは、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘、チフス、ジフテリア、麻疹などの感染症により、原住民の人口が半分以下に激減したと言われます。

 今世紀に入ってからも1918年のインフルエンザ(スペイン風邪)では4000万人が死んだとされ、これは第一次世界大戦の3,700万人(このうち3分の1はスペイン風邪による)より多く、第二次世界大戦の5,000万人以上に迫る数です。

 感染症は、天変地異(地震、火山噴火、台風、津波など)を凌駕し、世界的な大戦争に匹敵する「人口調節機能」を果たしてきたと言えそうです。

 こうした考察は、「危険思想」かもしれません。生態学的観点から、「ヒトは死ぬのが正しい」と主張するように聞こえるからです。

 大塚柳太郎『ヒトはこうして増えてきた』(新潮選書、2015年)によれば、現在、人類は「人口転換」の過程にあるとのことです。人口転換とは、出生率も死亡率も高い「多産多死」から、死亡率だけが低下する「多産少死」を経て、最終的に「少産少死」に移行することです。

 ヨーロッパ諸国や日本では人口転換が完了し、現在、人口が緩やかに減りつつあります。人々は、地球環境や資源の持続性のためには、人口が過剰であるという認識を持つようになり、出生率の低下を目指す家族計画が推進されています。かつて、生殖につながらない性行為は悪とみなされていましたが、結婚をしないこと、子どもを作らないこと、同性愛などに対し、現代では寛容な見方が広がってきているのも、人口過剰の問題を、戦争や感染症という暴力的な方法で「死を増やす」のではなく、「生を抑制して」平和的に解決していこうというヒトの知恵なのかもしれません。

 新型コロナ感染症の現在の死者数は、23万人。まだまだ増えるという観測もあります。感染症によらず、人口を調節していく知恵が蓄積されていけばいいなあと思います。

 ステイホーム週間に、人口に関する本を読みながら、つらつらとこんなことを考えてみました。
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