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『ジゼル』あるいは永遠の夏休み





2016年に録画されたロイヤル・バレエの『ジゼル』を見た。これがもう4年も前の録画。早いなあ。


『ジゼル』は、いつの間にか「悲恋」「はかない命の美しい乙女」「身分を隠した王子様」「真実の愛」などというロマンティック・ラヴの要素だけが強調されているが、実は通過儀礼の物語である(と、わたしは思う)。

『ジゼル』だけではなく、例えば『白鳥の湖』も同工異曲だ。


成人を目の前にした王子様は、まだ真実の(つまりロマンティックな)恋愛を経験したことすらないにもかかわらず、社会から大人になるようプレッシャーを受ける。


子供時代との突然の決別を求められた王子様は、この世のものならぬ美しい女性と知り合って恋に落ちる。
それは子供時代の最後のはかなく美しい煌めきである。

彼は現実の世界(大人の世界)に参入する前に、ついにロマンティックな真実の愛を知り、そして涙ながらに、もう2度とは戻らない、はかなくも美しい子供時代と決別し、大人になるのである。


人間は、ある年齢に達したら子供時代と決別しなければならない。

現代の社会は比較的大きく豊かで安全になり、子供時代と一生決別しない人が何万という単位でいたとしてもあまり問題にはならないが、食料の生産量が限られ、疫病が蔓延しがちで、寿命が短く、戦争が起こりっぱなしだった時代には、社会で責任を果たす大人が一定数いないことには共同体が存続していけなかった。

ましてや将来国のリーダーになる王子様だったらなおさらだ。


人間には、永遠の子供時代、パーマネント・バケーションみたいな時間と空間に郷愁がある。
それは長く、自由で、美しい夏休みのようなものだ。
無邪気で、無鉄砲で、冒険心と、いたずら心と、発見と好奇心に満ち、はかなく美しい夕焼けのような夏休み。

早朝は虫取りに行き、海で遊んでは昼寝をし、山に冒険に出かけ、密かに恋する相手を見かけて切なくなり、夕暮れに鳴く鳥の声とともに帰ってきたら、若く美しい母親と父親が優しく迎えてくれ、夜は妖精や魔物の物語を読み、清潔な寝床で夢を見る。
明日もまた、永遠に続く...


しかし、ある日、その長く美しい夏休みは終わる。
子供時代とは決別して、責任を持った大人にならなければならない日が来る。

彼はもう、姿をやつして美しい村娘と甘い恋に落ちたり、終わりのない冒険や、無責任な気晴らしに参加したりできないのである。
即位して国土と民を守り、また婚姻によって国を安定・繁栄させ、次の世代を育てなければなければならない。


王様になった(<成熟した)かつての王子様は少年時代の夢を見る。
自分が子供時代に捨ててきたもの、自分が決別してきたものの夢を。

どちらかというと登場人物のキャラクターは固定化され、話の筋も新しくはなく、それなのに世界中で年に何回も形を変えて公演されるのはなぜか。
そういうお話が大人には必要だからである。


バレエだけではなく、こういうお話はどこにでもある。『スタンドバイミー』とか、『ヴェニスに死す』とか。


......


例年ならば、英国ではバレエやオペラのシーズンが大円団を迎えているはずの時期である。

年にあのドガよりもバレエ公演を多く見るわたしも(それを競ってどうする、才能のありなしには全く関係がない...のだが、目安になるので)、3月12日の『白鳥の湖』を最後に生の公演を見ていない。

この回の『白鳥の湖』は録画がないのがフラストレーションに感じられるほど、とにかくすばらしい公演だった。

特に主役のMarianela NunezとVadim Muntagirovのコンビ、いつも神懸かっているが、ロックダウン前の最後の公演に神霊が仕掛けたかと思うほど、この世では普通見れない類のものだった!


英国での隔離生活も12週目が終わろうとしている。
生で見るのとは全然違うが、バレエはDVDで繰り返して見ている。
DVDのいいところは衣装などの意匠が細部まで見られ、またわたしと同じようにバレエ狂いの娘とコメントしながら見られることか。

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