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ベルガモの甘い思い出




 

ベルガモで最後のユーロコインを使うために買ったハードキャンディ
1ユーロ20セント分でと言ったら、お店のお姉さんはウィンクして何個かおまけしてくれた

パッケージのデザインの妙にひかれたのだったが

薔薇やすみれ、数種類のレモン、ミント、生姜と味もさっぱりしていてどれもモエ好み
なくなってしまうのが嫌で最後の一種類づつがどうしても食べられない!

......

昔からイタリアは機嫌のよさそうな人が多いと思う
(そりゃあんな場所で暮らしていたら機嫌もよくなるでしょうよ
気候よし、風光明媚、歴史あり、芸術豊か、食も最高、時間もゆったりしていてね)

ベルガモもまた、
ランチを食べたテラス席のおそらく学生バイトの一所懸命でかわいい女の子や
コーヒーを飲んだ店のおしゃれな店主

手作りヘアバンド店の美しいマダム(この店内の床下にはローマ時代のモザイクがある)や
コッレオーニ礼拝堂の一見不機嫌な寺男も

ヴェネツィア共和国が建てた城壁で犬を散歩させていた快活な女性、
人懐こいアメリカ人観光客さえも

もう2度と会わないかもしれない人たち
みなとても感じが良く、とてもすてきな街の思い出になった
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今年のベートヴェンの芍薬







この株は例年よりも色が薄く美しく月光を浴びているかのよう
月下美人ならぬ「月光」美人

来年はベートヴェン生誕250年で
欧州ではさまざまなイヴェントがある

来月はDaniil Trifonovを楽しみにしている

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マグリットの光の帝国





なんとなーく

ベルギー出身の画家、ルネ・マグリットの『光の帝国』の
青空の部分がないような写真が撮れた(ブルージュのDijverにて)

あの作品はもちろん昼間の青空の部分があってこその作品であり

どこをとっても夜のこの写真は

シュルレアリズムのコンセプトである

「あるモチーフを本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置くことで、
画面に違和感を生じさせるシュルレアリスムの表現手法」

を、かすってもいないが、

闇の中で煌々と輝く街灯も、そうとう場違いな感じがしたのだ

場違いなのに何か愛着のあるような懐かしいような感じ
つまり、夢の中ではよく知っていておなじみのような感じ...

マグリットという人は、自分自身の存在を世の中でそういうふうに持て余していたのかも
と余計なお節介を感じてしまった

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ポピュリズム化する欧州の隅で





この週末、欧州は選挙のお祭り騒ぎだった。

英国在住のベルギー人である夫と娘も、ロンドンの領事館まで投票に出かけた。
ちなみにベルギーでは棄権には罰金。外国在住者はこの限りではないが、一般的に有権者の政治的関心は高い。


この選挙の結果、「ベルギーで26日実施された欧州連合(EU)欧州議会選と総選挙で、反移民を訴える極右「フラームス・ベラング(フランデレンの利益、VB)」が議席を大きく伸ばした」

「経済的地位が高いオランダ語圏フランデレンが右傾化し、フランス語圏ワロンが左傾化する結果」(ロイター5月27日の記事)だという。


選挙前からとても気になっていたことがあった。
ブルージュのあるオランダ語圏に限っては、地方は左、国としては右、という人が(選挙結果の通り)多かったことだ。

彼らは別に分裂しているのではなく、自分と距離の近い人たちには富や機会の平等な分配を希望し、国としてのレベルではその枠の外から人が入って来たりすることや、その枠の外にまで富や機会を分け合うのはごめんだと言っている点で普通のナショナリストであり、そこに矛盾はない。

経済的地位の高いオランダ語圏が右傾化したのも、フランス語圏が左傾なのも、両方ともポピュリズムつまり「自分さえよければいい」を象徴しているのだ。

豊かな地域が彼ら自身の富や機会を保守するために右傾化し、より貧しい地域が他からの分配をあてにするという意味で左傾した構図なのである。

自分さえよければいい、というのは、今の自分だけのことであり、未来の自分(豊かな今の自分が没落したり、障害を負ったり、老人になる可能性があるという視野が欠けている)や次の世代のことをあまり考えていないという点で自縛だと思うのだがどうだろう。
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薔薇は薔薇





昨日、ロイヤル・バレエのRomeo and Juliet『ロメオとジュリエット』を鑑賞する前に、インサイト(ロイヤル・オペラが主催するレクチャーなどの会)でRomeo and Juliet and Me『ロメオとジュリエットと私』というレクチャーを聞いた。

出演者はバレエ批評家David Jaysがインタビューする形式で、ファースト・ソリストJames Hayと、プリンシパル・キャラクター・アーティストのChristopher Saunders。

内容自体は特別「インサイト」(洞察、見抜く)を受けるようなものではなかったが、ひとつ、シロウトなりに思うところがあった。


男性の現役バレエダンサーは美しい。
筋肉のつき方やバランスの美しさはもちろん、姿勢や体の自然な置き方の美しいことよ。素でそこに立っているだけで華がある。
優雅で強く均衡のとれ、しかもそれが全く自然な、まるでギリシャ的な美しさである。

この美しさというのも普遍的なものではない。
西洋文化では男性の身体の美しさはギリシャ的な筋肉の美しさであり、うっかりこの話を日本の友達にしたら「日本ではそういうのは受け入れられない」と言われ、そうか、普遍性はないのだとハッとしたのだ。

まあそれはともかく、西洋で生まれたバレエの男性ダンサーの美しさのひとつは、筋肉の美しさにある。

プラス、舞台の上での、身体能力や運動神経、空間認識能力や音楽性、演技力、理解力...このリストは半永久的に続く...言語を介在させない芸術の表現者として際立っている。

しかし。

彼らが普通の服を着て、インタビューされる立場になり、「バレエ」という総合芸術を言語化する場面になると、もちろん例外はあると強く断っておくが、「あれ? あまり頭良くないのかも...読書習慣なさそう...」と感じることがあまりにも多い。やっぱり彼らは私服でも美しいけど。

一方、女性ダンサーはこの限りではない。
舞台の上でスターとして際立ち、インタビューに答えて頭の回転が良く、言葉を選び、理路整然と、おおそうか! と膝をたたきたくなるような受け答えをするダンサーをわたしは幾人も見てきた。
繰り返し断るが、これにはもちろん例外があるし、わたしのしょうもない印象、バイヤスに過ぎない。


バレエは言語を介在させないアートである。そのアーティストには言語化能力というのは必要性のプライオリティが高くないのかもしれない。

奇しくもジュリエットは「薔薇は薔薇という名前じゃなくてもいい香りがする。名前なんて何の意味もない」的なことを言っていて、身体表現者にとってはそういうものなのかもしれない。


われわれ人間は、頭の中では何かを感じたり、考えたり、知識や経験や、アイデアのパーツがあれこれ散らばっていると思っている。
しかし、逆である。これらは言語化しないことには空っぽである。

われわれは頭の中にすでにあることを言語化(話す)のではない。考えながら言語化(話す)のですらなく、言語化する(話す)から考えるのである。

ということは、わたしが見た何人かの少なくとも「言語化」が下手くそで読書習慣のないように見えるダンサーというのは、「踊るから考える」タイプの方なのかも...
頭の中にすでにあることを踊りで表現するのではなく、踊りながら考えるのでもなく、踊るから考えるタイプの人...これを世の中では筋肉バカというのかもしれない。そういう意味でぜんぜんバカじゃないですね!


さて、話が長い(いつものこと)が先がある。

ダンサーの中には、身体を表現手段に使う年齢的なピークが終わってからも、いやそのキャリアの途中からでも、ディレクターやコーチ、ステージングやプロデューサーや、そして特に振付師として活躍する一握りの人たちがいる。

こういった類の仕事ができるひとというのは身体表現だけでなく、言語運用能力にもすぐれた、両方いける人なのではないか...たとえば昨日のChristopher Saunders。
彼はキャラクター・アーティストで、ジュリエットの父親キャピュレット卿役を演じながら、リハーサル・ダイレクターやステージングもやっておられる。


どうなのだろう。現場の方の話を伺ったことがない(昨日は質問コーナーがあったが、失礼で聞けない。男性ダンサーが白痴美だなんて)から分からない。



そういえば、音楽家には話の上手い人が多いが、その辺はどうなのだろう...
特に、Boris Giltburgは音楽の言語化がうまく(前も書いたかしら)、ガーディアンなどにもコラムを持っていて、とても勉強になる。


...


本番バレエの方は、ジュリエットMarianela Nunez、ロメオJacopo Tissi。この組み合わせで見るのは今シーズン2回目だ。

マリアネラは頭が良さそうだ...
ヤコポは若いというのもあるがそこは美しさでカバー。大根役者という雰囲気がぬぐえないが、それは今後に期待している。
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