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ornemanisteの宇宙へ




建築の装飾に使われる、例えばロゼッタ(天井のシャンデリアなどの基礎を装飾)やモールディング(廻縁(まわりぶち)は天井と壁の境目の装飾)を製作する職人・アーティストを、日本語では繰形師(<たぶん。どなたか教えてください!)、フランス語でornemaniste、フラマン語でornemanist、英語ではなんというのかな...「オーナメンティスト」だろう、きっと。

伝統技術を用い、木、石、石膏などを彫刻・成形、壁や天井を華やかに装飾するのだ。




ブルージュにはこういった伝統的な仕事をする職人さんのアトリエが残っており、建築の装飾好きをうっとりさせる宇宙である。

今回は夫の両親も旧知のアトリエを訪れた。
近頃、イングランドの家の玄関の壁を装飾するものを探しているのだ。




わたしはこういうデザインに見入ってしまう。惚れ惚れして飽きない。

わたしだけでなく、人間がこういった「唐草模様」を好むのは、自然界の花・葉・貝殻・雪の結晶などにも見られる「フラクタル構造」が基礎になっているからだろう。

対称性・反復・秩序、リズムを持ち、脳が心地よいと感じるパターンなのだ(読書中の本、アンチャン・チャタジー著『なぜ人はアートを楽しむように進化したのか』にもそう書いてある)。

心地よいものに囲まれて暮らしたいですな。




偶像崇拝を避けたイスラム美術では、こういった装飾は「神の無限性や宇宙の秩序」であり、古代ギリシャでは、自然の形の理想化、数学的・宇宙的秩序であったといえよう。

日本の寺院でも、仏像は「仏の神聖な光」「極楽浄土の美しさ」「宇宙の秩序(曼荼羅)」を象徴する要素(宝相華など)に囲まれている。

常に目に入る壁に、こういう装飾を置いたら、悟れるかしら...




娘を幼稚園児の頃から知っているマダム(一番上の写真)に、この手をプレゼントしてもらった。

ピアノの上に飾るように...
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1月は銀色の死都ブルージュ



1月最終週、ホテルの部屋にはまだクリスマスツリーが残っている...
1月いっぱいは残す主義らしい


銀色のロンドンから銀色のブルージュへ。

運河を行く小舟のような湯船につかって『死都ブルージュ』を考えた...

『死都ブルージュ』(原題:Bruges-la-Morte)は、1892年に出版されたベルギーの象徴派作家ジョルジュ・ローデンバックによる小説である。




物語の舞台は、暗く沈んだ19世紀のブルージュ。

ブルージュは13世紀から15世紀にかけて、北海とヨーロッパ内陸を結ぶ貿易拠点であり、羊毛産業と織物交易で栄え、さらに金融センターの機能を持ち、当時ヨーロッパ一豊かな都市としての黄金時代を迎えた。
その後、運河が砂で埋まったことから、ハブはアントワープに移っていく。

つまり、19世紀のブルージュは、15世紀までの栄華と、現在の観光都市としての賑わいのはざまにあり、死んだように停滞した都市だったのである。




『死都ブルージュ』の主人公Hugues Viane(ヒューズ・ヴィヴァンと記すのが慣習)は、最愛の妻の死を受け入れられず、妻の形見や肖像画の面影に囲まれて暮らしている。
街の静謐で澱んだどんづまりの雰囲気が、彼の内面の絶望を反映している。

ある日、ヒューズは亡き妻に似た女性、踊り子のジャンヌ(Jane)と出会い、彼女に妻への思慕を投影しようとするが、ジャンヌは妻とは正反対で、自由奔放、悪く言えばアバズレだった。

彼女に勝手に翻弄され、ヒューズの執着と妄想が彼を蝕み、最終的に悲劇的な結末を迎える。

失われた妻、失われた愛、失われた時、失われた内面、失われた街...死にとりつかれた男は自分自身で死を招いてしまう。




このドロドロした愛憎の物語を、20年くらい前の日本人学校ではテキストブックに使っていたというのだから、天晴れである。




1月はクリスマスと正月で浮かれに浮かれたブルージュが深閑とする季節だ。

銀色の空と、たちのぼる霧、氷のように冷たい石畳...
小説の主人公でなくとも失われてしまったなにかを求めて外に向かうのではなく、内面に深く沈んでしまう。

再生の春はもうすぐそこまで来ているんですがね...そうは思えないのね...

今夜はホテルの部屋の暖炉で暖まろう...
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onegin 2025 オープニング・ナイト


ROHから拝借


2024年も終わるというころ、ロイヤル・バレエのプリンシパルで、わたしが崇拝するMarianela Nunezが、ダンス界での長年の功績を讃えられ、Officer of the Order of the British Empire (OBE) 大英帝国勲章、将校を叙勲した。

勲章のFor God and the Empire「神と帝国のために」というモットーはいまどきどうかと思うし、傑出したダンサーに王様が賞を「やる」というのも?である。
しかも、彼女にはもっと高位が相応しいのではないか(騎士、せめて司令官)とか...


そういえば、こちらもわたしが天才だと思うエッセイスト小田嶋隆が、「イチロー、国民栄誉賞再度の辞退『まだ未熟者ですから』」というニュースに日経ビジネス上で触れた記事を思い出す。
ぜひ全文お読みいただきたいのだが、以下、部分を引用する。

「たとえばの話、モーツァルトにレコード大賞をあげようとしたら、あいつはどう言うだろう。
いや、むしろ夏目漱石に芥川賞とかだろうか。
ネタのセコさで言うなら、ジェームスディーンにベストジーニスト賞。
あるいは、大きく出てイエス・キリストにノーベル平和賞。
いずれにしても、アメ玉を貰って喜ぶのは腹を減らした人間だけだ、と。
 
そもそも、非凡な個人を、「国民」の名において顕彰すること自体が筋違いなのだな。
もうすこし詳しく言うなら、国家的な思惑や助力とはまったく無縁な地点で、一個の人間が、個人の才覚と努力を通じて勝ち得た業績に対して、お国が点数をつけるようなマネは、失礼だ、と、そういうことだ。」

小田嶋さんは数年前に亡くなってしまったが、今でも輝いている。
最近の兵庫県の知事選挙や、TV局と元アイドルのスキャンダルや、トランプ再選にはなんと書くだろうなあと常に思っている...


先日、フランスから慌ただしく帰宅したのはOnegin『オネーギン』のオープニング・ナイトに参上するためだった。

プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』原作のドラマで、19世紀ロシアが舞台だ。

貴族の青年オネーギンの「社会も自分もこのままではいけないが、行動しようという覇気も気力もない」感、鬱屈、退屈、社会からの疎外感や八方塞がり感、シニカルさは、当時のロシア貴族社会全体の病理を映し出す。
一方、彼の苦悩には普遍的な人間性が反映されており、現代でも共感を呼ぶ人物像といえる。

オネーギンは、純粋で誠実なタチヤーナの愛を受け入れることができず、怒りと共に残酷に彼女を拒絶する。
しかし、タチヤーナが他の男性と幸せな結婚をし、自身の手の届かない存在になったときに彼女の真価を認識し、後悔する。
この矛盾した感情は、彼と社会の葛藤や迷いや未熟さを示しているといえよう。

そのタチヤーナの複雑さを演ずるのがわれらがマリアネラである。

はい、『オネーギン』というタイトルではなく、『タチヤーナ』というタイトルの演目なんじゃない? 
と思ってしまうほどマリアネラの絶対的な存在感、舞台の主催力、なにからなにまですごいのです...

オネーギンを演じたReece Clarkは身長が190センチある美男であり、特に彼が女性ダンサーをリフトすると当然高さが出、ものすごくドラマティック...が、内面の複雑さの表現があと一歩と感じた。
いや、オネーギンには内面などないのかな...

その点、前回マリアネラのオネーギンを演じた平野亮一さんの方が演技力は数段優っているというのが正直な感想だ。
なんせ、最後の永遠の決別の場面のあと、マリアネラはほんとうに泣いていましたからね!!


こちら、彼女がゲスト出演したTeatro Scala di Milanoでの動画である。
ぜひぜひご覧になってみて下さい! 
オネーギンが自分の方を見てもくれず、戸惑いながらも彼の気を引こうとするシーンである。

この角のなさ、無駄な動きのなさのが出す透明さ、音のない音との同化、バターのように柔らかい関節、バレエの技術と演技力の格といったら! 
https://www.instagram.com/carolina_cox_ballet/reel/CwSR_G2AT7w/
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ルーヴル別館 @炭鉱の街ランス



ドラローシュの『若き殉教者』
19世紀半ばの作品で、ルーヴル=ランスの展示物のなかでは一番新しいもの
人間はなぜこういうテーマ(この場合「犠牲」とか)のを繰り返し描いてきたのか...


シャンパーニュ地方から今度は西へ。英国の方向へ。

フランス北部のランス(ドーバー海峡のカレーまでは車で1時間、パリからは高速列車で1時間半だとか)は、炭鉱の街として産業革命以降の発展を支えたものの、今は廃れ、高失業率や低所得にあえぐ街のひとつである。






その街が街おこしの費用を工面し、パリのルーヴル美術館の別館を招聘したのは、慧眼と言えるだろう。

2021年の開館以来、このルーヴル別館は、単なる「別館」の域を超え、地域の過去と現在、ヒューマニティ、芸術を結ぶ特別な場所として注目を集めているという。

鉱山地帯としてかつて栄えたこの地域の再生という大きな使命を背負い、文化を通じて未来へ投資したというわけだ。




わが故郷、神戸が、京都や大阪にインバウンドがあふれるなかで取り残されていることに危機感を覚え、思いついたアイデアがポートタワーと水族館の改装だというのだから、「そら神戸は取り残されるわな...」というのが、神戸っ子の率直な感想である。

ポートタワーの保存や水族館の改築は地元にはもちろんありがたい話ではあるが、それで海外からの観光客が呼べるかと考えたら答えは明白であろう。




この美術館の魅力は、まずその建築にある。

このミニマリスト建築は、世界的にも有名な日本の建築家ユニットSANAA(妹島和世と西沢立衛)の設計なのである!

アルミニウムの銀色がモダンで透明感あふれるデザインながら、過去のこの街の「工業」の面を思いださせる。
建物全体が公園(炭鉱の入り口がうまく残されている)と、この地帯特有のシルバーグレーの空に溶け込むよう設計されており、館内の悠々と広がる空間が気持ちいい。



われらが縄文式土器も!! 洗練されているなあ...


ルーヴル=ランスの展示の目玉は、広さ3000平方メートルもの「時間のギャラリー(Galerie du Temps)」だ。

従来の美術館のように小部屋がいくつもあるのではなく、ぶちぬきの一部屋である。
紀元前2万年前の壁画から、19世紀半ばまでの「作品」が、時系列に沿って一望にできるように。

ルーヴル美術館の膨大なコレクションから厳選された200点以上の作品が、時間の織物のように広がる...たとえば、人類のもっとも初期の作品のひとつが縄文式土器である。

時間的弁証法を用いた美術館があるとしたらこんな感じになるのかしら...と思った。単なる過去の遺産を展示する場ではなく、歴史、現在、未来を結びつけ、変化のプロセスを思索する場、だ。



11世紀ごろ、イスラム支配下のスペインの「ライオン」型、噴水口
写実性のあるライオンよりも、こちらの方が見ていて飽きない


紀元前4000年から19世紀半ばまでの作品が、時間と空間を超えて「われわれは何者か」「われわれは何をもって人間なのか」を問いかけてくる。

わたしが最初に感じたのは、「人間は太古からシンボル(象徴)とその交換が好きなのだなあ...」。



15世紀のドイツで使用されたグリフィンの水差し、手洗い用
上の伝聞を頼りに作成したのであろうライオンや、架空のグリフィン、こういうのが好きだ、わたしは


そういえば、この展示方法は、アブダビのルーヴル別館も同じだった。
そしてあちらもモダン建築が非常に印象的だった。



カノーヴァ『アモールとプシケー』


時代を超えて一望できる展示は、壮大な物語を体感させる。
つきなみだが「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。



紀元前3000年〜2000年ごろ、アナトリア半島で見つかった『双頭の像』


特別展もおもしろそうなのがしばしば開催されているそうで、帰省先のベルギーのブルージュからも車で1時間15分ほどとさほど遠くないことだし、応援しにいきたい。



フランス中部Roc-de-Sersで発見された2万年前の動物のレリーフ
こちらが展示のなかで一番古いもの
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シャンパーニュ地方にあるという




パリから東へ車で1時間半ほど、シャンパーニュ地方に入る。

豊潤な丘陵と、今の時期は葉が落ちた葡萄の低木に濃厚な霧がかかる。
その間を走るまっすぐな道をドライヴするのも楽しい美しい地方だ。

上の写真、道の突き当たりにシャトーが見えますね...




20数年前、結婚パーティーはシャンパーニュで開いた。
できるだけ小さな村にある、シックなホテルを探して。

美酒と美食、シャンパーニュの小さな村々のレコルタン・マニュピラン(自畑の葡萄のみを用いてシャンパーニュを一貫生産する比較的小規模な醸造家)を巡り、散歩し、ランスの大聖堂を参拝...
などで人々をもてなし、あれが20年以上も前で、まだ娘はこの世に存在すらしていなかったなど信じがたい。




今回はそのとき訪れて、ドサージュされていないシャンパーニュが印象に残ったレコルタン・マニュピランにも立ち寄ることにした。

過去26年間にシャンパーニュ地方は何度も訪れているが、この小さな村に立ちよったことはついぞなかったので(パーティーに出席してくれた友達は、しばらく毎年行っていたそうだが)気分は高揚する。




と、その錆びた看板も、鉄門も、建物の背後のタペストリーのような葡萄畑も当時と変わらないものの、入り口は昼前から閉まっており、電話をかけてみたりしたものの、人の気配がない。

この時期は長い正月休みを取る醸造家が多いため、こちらもそうだろうか、と思いながら昼食へ行った。
昼食をとったシャンパーニュ・バアで提供していたグラス・シャンパーニュが、手頃な価格ながら複雑で優雅で、そちらでも何本か購入することに決める。

領収書を発行してもらっている間、夫が若いマダムに「20年以上前に訪れた作り手」の話をした。

彼女は「何年か前にルイ・ロデールに身売りしたのよ」と話してくれた。

ルイ・ロデールと言えば超有名メゾン、わたしはもちろんクリスタルが大好きだ...しかし、もの悲しい。
一方で、今もあの葡萄はルイ・ロデールの中で生き続けているのか...


奇しくも数日前、CNNのニュースで2024年のシャンパーニュ出荷率は前年比で10パーセント落ちたと読んだ。




ところで、好奇心からシャンパーニュ地方のごく庶民的な大型スーパーの売り場も見に行った。

なんと、マニア垂涎のあれやこれが!! 
Krug Collection数本、Salon 96その他、Jacques Selosse 92やMillesime、Henri Giraud、Bollanger Viellies Vignes...

大衆スーパーですよ? さすがである。ここを見ているだけで楽しい。
こういう掘り出し物を求めて来店する本物のマニアがいるのだろう。




わたしはクリュッグに目がなく、家のセラーにもコレクションがあるが、本物のマニアとは全く次元が(予算も)違う。シャンパーニュ地方最大の街ランスで立ち寄った酒屋ではとっておきの一本を薦めてもらった。
どういうものが好きか、予算はいくらか聞かれ、恥ずかしがりながら述べる。プロの前で話す自信はない(笑)。

フランスの専門店では店主や店員さんの話がめちゃくちゃおもしろい。これはファッション専門店も、ワイン専門店も同じだ。




シャンパーニュ好きの友達が家に来てくれるのが楽しみ。
夫は全く飲まなくなったし、娘も一杯がせいぜいなので...


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