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バレエの情景




観覧したバレエの感想を書き留めるのが間に合わなくなってきた!

今月はわたしが何を見たというよりも、14歳の娘が初めて親友と2人だけでロンドンへ行き、ロイヤル・バレエを観覧したことの方が強い印象になった。
日本の方には、なんと過保護なと思われるかもしれないが、ベルギーも英国も子供はティーンエイジャーになるまでは一人にしてはならないという法律があるのですよ...

9月から日本でいう高校1年生になり、勉強の総量は当然、楽器のレッスンも週5に増え、バレエのレッスンを減らすかと思いきや、まさかの週4で受けている(プラス、小学生のクラスでボランティアまでしている!)。それほどのバレエ好き、バレエ仲間である親友との経験は充実感も相当であったようだ。わたし自身もこの日を忘れないだろうと思う。


ついでに先夜の感想をメモしておこう。

フレデリック・アシュトン(Frederick Ashton)振り付けによる4つのパフォーマンスをロイヤル・バレエで。

”Senes de ballet” (最初のeにアクサン)
ストラビンスキーの音楽が素晴らしく、1948年当時の人々が想像したであろう数学的な美を実現した理性あふるる「未来」のクラシック・バレエ(だとわたしは感じる)。
昔の人が描いた未来...懐かしくも純粋で美しい。そして大変バランスの取れた作品だ。
しかし今回はなぜか登場人物が団子状になっているようで見苦しく、また何よりも万能サラ・ラム(Sarah Lamb)の良さを全然活かせないこんなパフォーマンスもあるのだなあ、と妙なところを感心してしまった。

"Five Brahms Waltzes in the Manner of Isadora Duncan"
わたしが大のブラームス好きなのでバイヤスがかかっているとしても、これは音楽負け。
イサドラ・ダンカンの舞踏は即興的でセオリーを持たず、彼女の死と共に去ってしまうような類いのアートであったゆえに、本人か、かなりカリスマのあるダンサーでなければ踊りこなせないのではないか、と思った。

"Symphonic Variations"
シンフォニック・ヴァリエーションは好きな作品だ。
これはもしかしたら誰が踊っても良い作品なのかもしれない...というのは、登場人物の性格や時や場所などをすべて排除した作品だから。

”A Month in the Country"
ツルゲーネフの戯曲をベースにした短いお話。
登場人物には意味のあるできごとでも、結局は始まりも終わりもない、死ぬまで続く淡い日々をそのまま描く。嗚呼リアリズムよ。
その舞台でいやおうにも輝くナタリア・オシポヴァ(Natalia Osipova)!
フェデリコ・ボネッリ(Federico Bonelli)はロシア風のシャツが全く似合わず、モテモテの家庭教師にはどうしても見えないところが非常に気になった...が、退屈な冬の一ヶ月間は、そんなぱっとしない男でもモテモテにしてしまうのかもしれない。憎いなあ。



(写真はroh.org.ukより)
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ジャック




大きめで形のいいペポかぼちゃが手に入ったので、ランタンを作成した。
今年はもっと複雑なお顔にしようとデザインを考案したのに、娘は「シンプルなのが一番可愛い」と、このスタンダードフェイスを彫った。

夫のiPhoneの待ち受け画面の、ロンドンのおしゃれパーティーで着飾ったわたしの写真は、早速ジャックに取って代わられた。


残念なのはハロウィンの夜は旅行中で留守なこと。
これを庭先においておくと、いたずらするぞ! の子供たち歓迎しますのサインになり、子供が何人もお菓子をもらいに来てくれるのだ。
10月31日の夜はあの世の門が開く。精霊がこの世に躍り出る。子供は精霊の部類であり、玄関先に来てくれる彼らを歓迎するのは実に縁起がいいのだ。


留守中キツネや猫やリスやマグパイ(カラス科の頭の大きな鳥。賢い)に食い荒らされないか心配。


後日:やっぱり食い荒らされていた!
何に?


ナメクジに...

ホラーだった。
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「お顔が小さいですね!」




美しい人についてと言うとものすごく大げさだが、一昨日の記事から発展して少々。


夫が昔世話になった人や会社等から、ごくたまに通訳を頼まれる。
プロの訓練を受けていないことをお含みおき頂き、たいていは「クラブのママはこういう気持ちなのではないか」というノリで参加させてもらう。
そして時々困る。

コミュニケーションを円滑にし、機嫌良く過ごしてもらうのが、わたしも含めたお互いの利益になるので、誤解を招いたり、説明不足になったりするのを最も避けたい。かと言って、普通、通訳は自分の解釈や考え方まで通訳しない。
補足はどこまでしてもいいのか、いけないのか。

一番困るのがこういう時だ(ちなみに仕事の話になると両者プロなので、ほとんど困らない)。

日本の方が、

「お顔が小さい!」

「お鼻が高いですね!」

「色が白いですね!」

「俳優の〇〇に似てますね!」

とおっしゃる時。

日本人は単文のみでこれらが誉め言葉である、とすぐに了解するだろう。
「お顔が小さいですね」とおっしゃる方も、当然欧米人が同じ美意識を共有していると思っているからこそ、単文で発言なさるのだ。

しかし、わたしが学生時代以来住んだ経験のある国々(北米、中東、欧州)では、必ずしもそういうわけではない。
「お顔が小さいですね」と訳した後に、「日本では顔の小さいことが美男美女の重要な条件なのです」と付け加えたくなる。
これは付け加えるべきなのか、否か。
ブログを読んで下さっている方は良くご存知だと思うが、わたしはやたら説明したがりなタイプだ。「お顔が小さいですね」をストレートに訳して次に移るなどできないの。公の会議で通訳をしているわけではないので、かえって日本の文化背景を知ってもらえ、会話の裾が広がり、良い方に作用する...と思い、「美の条件です」と絶対に言う。

誉められてイヤな気がする人はいないのだ。

一方で、「頬骨の(位置が)高い」のは欧米人にとっては最高級の誉め言葉であり、美男美女を表現するのに小説内でもよく使われる。しかし日本ではそうでもない。いや、使われているケースを寡聞にして知らない。
今後、欧米人の誰かが日本人に向かって「頬骨が高いですね!」と言うことがあったら、わたしは絶対に「欧米の美の重要な基準なのです」と付け加え、さらに「ほら、俳優の〇〇とか、××は...」と言うだろう。

......


日本の美人の条件はほんとうに厳しい。
現代の美人には、顔が小さく、目が大きくくっきり二重で、鼻筋が通り、肌が白く、細身で...という理想型があり、それにどれだけ近いか、どれだけ遠いかで美醜が図られる。
美人画の様式美も「理想型」に限りなく近い女たちの最たるものではないか。

「理想型とそこからの距離」は日本人の普段一般の考え方にも深く影響していて、日本の良さも悪さもそこに基づいていることが多いにあると思う。
良さは、例えば、ものの規格やサービスが一環して安定していて公平なこと。礼を重んじること。
悪さは融通がきかない、同調圧力が強いことか。「40を過ぎてロングヘアやミニスカートはみっともない」「母親のくせに子供を預けて遊びに行くなんて」「〇〇は若者の持つブランド」「××はもう流行遅れ」とか、そういうのも含め、「こうでなければ」という感覚。
ああ、話が脱線しそう。

が、欧米では、顔立ちの美しさよりも、個性、自分の長所短所、全体のバランス、雰囲気、そういうものを活かせているかどうかで判断されていると思う。だってそうでないとわたしなんかがが「美しい」と誉めてもらえるわけがないではないか。
ちなみに「俳優の〇〇に似てますね」が、誉め言葉としては使われず、普段もほとんど言われないのは、理想的な誰にどこまで似ているかというよりも、自分の良さをアッピールすることの方が大切だからと考えられているからかもしれない。

もちろん以上は「比較的」というハナシで、こちらでも理想を追う人が整形地獄に陥ったり、みなこぞってブロンドに染めたがるなど、そういう現象はある。


「美」とは、人間が生まれた時から装備している「快」にかかわる本能であり、同時に「美」のノルムは文化によって、現象の仕方や経験のされ方が違うと、そういうことになるのか、やっぱり。


これだけは確実。
美しい人の概念は文化によって異なるが、誉められてイヤな気がする人はいない。
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お土産2種 @ st. martin in the fields




トラファルガー広場に隣接する英国聖公会St. Martin in the Fields、秋晴れに映える。

この教会では様々な室内楽等のコンサートが、また教会地下のカフェ・イン・ザ・クリプト(その名の通り地下聖堂がカフェになっている)ではジャズ等コンサートが開催され、まさに音を楽しむ"Church of the Ever Open Door"。
聖マルティヌスは音楽の守護聖人も始めたかという感じだ。

地下聖堂を改装して活用されているカフェは、天井のアーコーブが美しい。
カフェテリア方式なので、食べ物に特色はなく、色気のない椅子と机がダーッと並んでいるだけなのが玉に傷...まあこの気安さがかえっていいのかも。

ロンドンでは連日連夜多くのコンサートが行われているが、この教会のパフォーマンスは旅行中の方もその時の気分で行けるような気軽さがおすすめ、すてきな思い出(これもお土産)になること間違いなし。


もう一つのおすすめはこちらのミュージアム・ショップにある。

これはわたしのとっておき、Brass Rubbing(真鍮板のフロッタージュ:木(の板)、石、硬貨など、表面がでこぼこした物の上に紙を置き、例えば、鉛筆でこすると、その表面のてこぼこが模様となって、紙に写し取られる。このような技法およびこれにより制作された作品をフロッタージュと呼ぶ。(ウィキペディアより))。

これら真鍮板の彫刻は、元々教会内部の墓石装飾として使用されたもので、死者を偲ぶための記念版だ。13世紀頃から大理石の代用品として流行りだし、15世紀には金持ちが独占する贅沢品ではなくなり、多くの教会施設で使われたらしい。

この真鍮板をフロッタージュで摺ったものをアートとして購入できるのだ。
しかも摺り上がった版画を買うだけでなく、自分自身で何百とある真鍮のイメージの中から選び、紙をその上に広げ、ワックスですりすりして版画を仕上げることができる! 
この版画は実際にヴィクトリア朝で流行したとか。ちなみに板にはオリジナルとレプリカがあると店員さん談。

イメージはシェイクスピアやエリザベス一世等の超有名どころから、エドワード黒太子、円卓の騎士、中世のお姫様や、ドラゴン、あるいは抽象的なケルトっぽいシンボルまで。大きさも等身大のものから、A4サイズのものまで。

わたしは、骸骨の全身像(メメント・モリですな)を黒い用紙に白のワックスで、日本から友達が来た時に作成したのだが、未だ額装しておらず。うちにはブルージュの馴染みの額装屋で額装してもらうのを待つアートが山のようにある...


自分のためのちょっと変わったお土産が欲しい方にはぜひぜひ。
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妖怪・現実見せ




義理の両親がベルギーから遊びに来ている。

義理父は写真が趣味で、娘を中心にわたしの写真も撮ってくれる。
ポーズは取らせず、自然体をこっそり撮影したものが多く、「いつの間に」という写真が今回もたくさんあった。


自然体の写真...

中年女にとって、これほど恐ろしいものが他にあるだろうか。


お茶を飲みながら対面の人を見ているときにできる無防備な額の皺
秋の光のもと、陰影が強調されたシーンの中で浮き上がる頬のたるみ
ラフにまとめたはずの髪が、あら、おやつれ? 飛び出たイモ毛(アホ毛)...


若作りをしたい、実年齢より若く見られたいとは思わない。しかしピカピカの娘のとなりでも、せめて清潔で生き生きとしてはいたい。

「この惨状に気がついてるならフェイスリフトくらいすすめてくれたらいいのに...」
と夫と娘に当たり散らしながらとても悲しい。彼らは腹の中ではどう思っていても「この写真はたまたまですよ」と、うるさい中年女を慰めるしかないのだから。


ローマで、フランス人の女性が、
「あなた方、ご家族でしょう? なんて美しい家族なんでしょう! こんなに美しい家族は見たことがないわ。よい旅行をなさってね」と祭壇から降りてきたマリア様のようにやさしく声をかけてくれたのに。

学校の式典で、娘のバレエの先生が
「あなたのママってモデル?」と気のきいたお世辞を言ってくれたのに(式典だったので気合いを入れて一種のコスプレをしていた)。


日本人が共有している美のコンセンサスとは全く別の基準を、外国人は持っていることを知っておかねばならない。
さらに異邦人の美醜に対する判定は曖昧なのだ。
あるいは単なる社交辞令。
わたし風情でここまでほめ殺しにしてもらえるのだから、賞賛の紙吹雪はいつどこででも吹いているのだろう。
しかしお世辞であると分かっていても、わたしのような単純馬鹿は浮かれて勘違いさせられてしまうわけだ。そして、紛れもない真実を映す写真を見てふっ飛ぶくらい驚き、ふっ飛んだ分、深く落ちるのだ。

現実は厳しい。
モエよ、己を良く知れ!! 

義理の父の芸術的な写真は、中年女が明日も生き延びる力を一瞬にして吸い取る「妖怪・現実見せ」だ。
姿は一眼レフ一つ目小僧。


いやいや。妖怪はわたし自身か。

それでもいいのおしゃれして楽しく生きるの。
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