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Brugge Style
ショパン ノクターン13番
小学校低学年のころ、英雄ポロネーズを聞いて、これほど美しい曲が存在するのかと度肝をぬかれた。その衝撃をまるで昨日のことのように覚えている。
ピアノ学習者誰もが通る道なのであろうか、今、娘が自称ショパンファンだ。彼女がショパンを演奏するようになったので、近頃はほとんど聞いていなかったショパンCDが家の中で常に流れている。
高校生の頃、音楽の時間前になると休み時間に早々と音楽室へ行った。
たっちゃんという、お勉強がよくでき、ピアノもものすごく上手いクラスメイトが、わたしのためだけにショパンを弾いてくれたからだ。
わたしはグランドピアノにもたれかかり、彼女が奏でる音をうっとりと聞いていた。たっちゃんは始め恥ずかしそうに笑いながら弾くのだが、だんだん真剣な顔つきになってくる。
その時に弾いてくれとせがんだのがノクターンの13番や、バラード1番、スケルツオ2番などの難度の高い曲や、ワルツ7番。
今、その光景を眺めると(人は何かを思い出す時はこのように必ず「ワンシーン」として眺めるという動きによって思い出すのである)なんと美しいのだろうかと思う。
わたしにも失われた美しい時(それはもちろん記憶の中だけにある)があったのである。
またショパンを細々と練習しようかと思っている。千里の道も一歩から。
ノクターンの13番や、バラードなんかが完璧に弾けるようになったら、他に快楽は何もいらなくなるような気がする。
...
「「誠に残念ですが、日本は貧しい国になるでしょう」。米国家経済会議(NEC)前委員長のローレンス・サマーズ米ハーバード大学教授が23日、ニューヨーク市内の講演で断言すると、会場が静まり返った。」(産経ニュース 3/30の記事「米国で「東電には経営責任がある」株主代表訴訟も」より抜粋)
という記事を読んで、奇妙なデジャブを感じたのはわたしだけではないだろう。
1945年、マッカーサーは米人記者団に「日本は、この戦争の結果、四等国に転落した、日本が再び世界的強国として登場することは不可能である」と発言した、と記録されている。
マッカーサーの予言は成就しなかった。
日本はこのたびの惨事をものりこえ、必ずよみがえるだろう。
でも「大量に生産して大量に消費する」世界的強国になる必要もないかと思う。
昨日も書いたが、人々が共存共栄し、安全で安心で、矜持を持って生きられる国の方がいい。
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小さな世界
3月初めに発表されたフォーブスの長者番付 (フォーブスのニュース。World's Billionaires 2011: Record Year For The Richest)。
縁のない世界だ。
こういう人たちって幸せなのかなあ。幸せだとしたらどういう風に?幸せでないとしたらどういう風に?
想像もできない。
一日立場を入れ替わってやると言われたら、喜々として変わってもらいますけれどね(笑)。
さて、順位を見ると、わたしにとっては4位のコングロマリットが展開する小売りビジネスの内容が、普段日常生活を送る上でもっとも身近に感じられる。
ブルガリの時計をして
セリーヌの服を着
ヴィトンのバッグを持ち
ゲランの基礎化粧品とディオールの色ものを使用
普段はカルフールで食料品を買い
飛行場では免税店で買い物をし
パリではボン・マルシェに行くのが楽しみ
そしてモエやクリュッグのシャンパンが大好き
(うっ、こうやって列挙するだけで胸焼けがする感じ...)
そういう人物は日本にもたくさんいるだろう。
うむ、自分がいいと思って買ったものは、アルノー氏とその一族を肥えさせていた式神であったのか...と思うと、何かがっくりきませんか?
わたしは今はヴィトンのバッグなどひとつも所有していないにもかかわらず、ちょっとがっくりきた(笑)。
もちろん資本主義の原理に乗っ取ってゲームをした結果、利益が利益を生み続ける合法的な会社ではある。それでもわたしがこのコングロマリットに対して感じるこの一抹の生理的嫌悪感は何?
「まるで末端消費者たるわたしが息をしているだけで儲けていそう...」
そういうところがたぶん嫌なのだ。ええ、感情論です。
ルンペンプロレタリアートの一人一人の懐から100ユーロ200ユーロと小金を搾り取りながら生き延びているこの会社が。
単なる理想論だと言われるかもしれないが、われわれ人間に「成熟」というものがあるとしたら、それはあらゆる種類の人間が共存共生することだと思う。その点、どこの国の誰が何を買おうが、常に一人勝ちを独占する会社、というのはどうなの...
(このコングロマリットを出したのは、単なる例であり、電気などの公益事業を独占していたり、石油をコントロールしたり、数字を右から左へ動かしたり、「わたしが息をするだけで儲けている会社」はもちろん他にもある)
わたしはブルガリのジュエリーのデザインも、ボン・マルシェのセンスも、クリュッグのシャンパンも大好きだ。
一流ブランドには、なるほど洗練されたデザインや品質が伴っていることも事実である。
一方、ジュエリーは個人から買い、シャンパンは極小RMが作る地味なものを直で買い、最近はアメリカの小さい会社が作る化粧品を買うようになった。
今後は有名女優やモデルが華々しい広告を飾るような商品はできるだけ避け(すでに広告は、大掛かりであればあるほど以前のような幻想効果を期待できなくなっている)、小規模な会社が作る正直でいいもの、作り手や売り手とコミュニケーションがとれるものを特に応援する所存である(ま、そんなに単純な構図でもないわけですが)。
「小規模な会社が作る正直でいいもの」が発信され発見されるのに、ネットいうツールをわれわれが得たのは完璧ではないにしても福音ではあるし。
また、今この時期を機会に「公益事業」をより安全で公平な組織に体質改善して行き、首都一極集中型(富も人も情報も)を緩和するにはどうしたらいいのか、議論を始めていいと思う(<この一文だけが言いたかったのにこんなに長文になってしまった)。
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ゆうびんやさん、ゆうびんやさん
娘の学校では大縄跳びが流行っている。
上級生は飛びながらグラウンドを何回タッチできるか競うそうだ。
娘が、「ママ、あなた飛びながらグラウンドにタッチできる?」と鼻をふくらませながら聞いてくるので
そりゃあわたしは「ゆうびんやさん」で鍛えたからできますよ!と答えた(ええ、ママは大言壮語するのですよ...)。
「ゆうびんやさん
ゆうびんやさん
はがきが一枚落ちてます
拾って下さい、頼みます
一枚!
あーりがとうーございます」
(地方によって歌詞は違うだろうが、わたしの属した40年近く前の神戸コミュニティではこの歌詞だった)
で、枚数がどんどん増えて行くんですな...
この遊び歌を教えたら、娘は大喜びだ。
早速七五調を崩さぬようにオランダ語に訳し、みんなで遊び、大受けしたらしい。
百年後に縄跳び歌としてオランダ語で歌い続けられていたら、このブログが最古の記録として取り上げられるわけだ(笑)。
もし、この歌が残るならば、歌詞とメロディーはだんだん洗練されて行くだろう。
百年後の子どもが大縄跳びをしているところを想像すると、次の世代につないで行くこの生がありがたく感じられた。
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場末の喫茶店
わたしはこのブログを場末の喫茶店のようなものだと思っている。
サロン・ド・テとか、ティールームではなく、喫茶店。入り口脇に正方形で中に電気が入っている看板があるような。
きわめて昭和的なハコの中に、神戸の派手な中年のおばちゃ...いや、ママがいて、
気は小さいのに大言壮語のクセがあり、愚かで、おしゃべり好きだ。
機械の具合が悪いのか、ビル・エバンスやら、バッハやらがとぎれとぎれにかかる店内には、
中身はあやしいが綺麗なパッケージの紅茶や、
色あせた写真や、
本物か偽物か判別がつきがたいアンティークの家具などが配置してある...
ような感じ。
たまたまその場末を通りかかり、たまたまお店に入ったことですごく気に入って常連になってくれる人もいれば、
「あほくさ」とすっと席を立ち、2度と訪れない方もいるし、「意味不明」とは思いながらも時々来てくれる人もいる。
うん、ここまで書いて思い出した。村上春樹が著書をバアをたとえにしていらっしゃった。
ママは水商売柄、人の悪口を言ったり、罵倒に近い突っ込みはしないように気をつけているし(関西人なのですぐに突っ込みたくなる)、
誰かや何かを呪うよりは、祝福の言葉を口にしたいとは思っている。
そこで飲んだ紅茶が元で、病気になったりされたらそれはやはりまずいが、ママや居合わせた人の話やそこで見たものを、自分の中に取り込むか、すぐに忘れてしまうか、また来店されるか2度と来ないかはその方の判断である。
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for whom the bell tolls
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