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アルゲリッチの「時間」 オックスフォードとロンドン



彼女は青い薔薇!
Martha ArgerichがOxford Philharmonic Orchestraと共演したのはベートーヴェンのピアノ・コンチェルト2番。
日曜オックスフォード、月曜ロンドンの二夜連続で同プログラム。



オックスフォードのシェルドニアン・シアターでのプログラム終了後、オックスフォード大学トリニティ・カレッジからMartha Argerich(以下アルゲリッチ)に名誉フェローが授与された(1枚目の写真)。

彼女はすでにずっと女王であり、格付けも権威も必要のない女神のような自由さが個性であるのに...とチグハグな感じはした。

しかし、やはりその場にいられて光栄。
おめでとうございます。



オックスフォードのシェルドニアン・シアター。
観客は500人くらいは入るだろうか。アルゲリッチの背中に触れられそうな距離で...
彼女が家のサロンで演奏しているようで、飛び立つ鳥のような手元を堪能した。
しかしやはり手狭で、チャイコフスキーのシンフォニー4番は特に
二夜目の@ロンドン・バービカンのほうが音の調和が断然良かったです。素晴らしい演奏だった。



意図しなかったが、前回の続きのようなハナシ...

アルゲリッチのコンサートを2夜連続で鑑賞したから!
オックスフォードとロンドンにて。


アルゲリッチとMarianela Nunez(ロイヤル・バレエのプリンシパル)は、両者ともアルゼンチン出身のわたしが崇拝する女神トップ2である。
わたくしは万難を排して彼女らのパフォーマンスに馳せ参じるのだ。




前回も書いたことだが、わたしの美に対する思い巡らしは:

人は、完全に規則的なもの(退屈)でも、完全にランダムなもの(混乱)でもなく、「予測可能なパターン」と「微妙な逸脱」の絶妙なバランスに惹きつけられる。

花や、例えばショパンの楽曲にも、安定したリズムや和声進行の中に、意外性のある転調や装飾音が散りばめられており、この絶妙なバランスが、有機的な美しさを与える。

このバランスは硬直したものではなく(花はうつろい、音楽は流れる)、時間の中で生じるものに他ならず、この中でこそわれわれは「今この瞬間」を意識させられ、美をより深く体験するのでは、と。

時間の中で「何かが生まれ、何かが失われる」ことに、人間は感動するのではないか。




そこでベートーヴェンのピアノ・コンチェルト2番。

ベートーヴェンは楽譜に厳密な指示を残しつつ、その構造自体が「時間の揺らぎ」を生み出すようにあらかじめ「揺らぎ」を内包して設計している。

ショパンの「ゆらぎ」は演奏者が生むとしたら、ベートーヴェンの「ゆらぎ」は楽曲そのものに内包されている、と。


例えば、第2楽章では、ピアノは、すでにオーケストラが提示したテーマを微妙にずらしながら演奏するが、これによって、「すでに聴いたテーマなのに、何かが違う」という時間の感覚が生まれる。

アルゲリッチ独特の、神のような自由さ、急速なエネルギーの変化は、ベートーヴェンの構造的な「ゆらぎ」と完璧にマッチ、彼女はピアニッシモからフォルティッシモまでの振れ幅を大きく、しかも一瞬で変化させることができ、この劇的な音色のコントロールが、ベートーヴェンの構造的な「ゆらぎ」をさらに際立たせ、まるで時間が伸び縮みするかのように聞かせる。

そして 彼女のピアニッシモは、単なる音量の変化ではなく、「音が消えていく過程」まで完全コントロールされていて、これにより、静寂そのものが音楽の一部として機能し、より深い「ゆらぎ」が生まれる。

いやもう全く、すごい演奏だったよ、今回も(強いて言えば会場の影響もあり、ロンドン・バービカンの方がよかった)。




ベートーヴェンのピアノ・コンチェルト2番は、モーツァルト的な透明感と、ベートーヴェンらしい力強さが交錯する、名曲だなと思う。

こういう抒情的な感想はプロは言わないだろうから書いておくと、まるで、今の時期、春が遠慮がちにためらいながら近づいてくるものの、冬に遮断され、遠ざけられ、まとわりついて混在し、しかしついに光の確信と共に、春が世界を満たしていくかのようなストーリーだ。



天上画は、嫉妬、略奪、無知、に打ち勝つ真理と学習の寓意。
The Sheldonian Ceiling. Robert Streater. c. 1667-69.



実際の即興ではないのはもちろんにしても、彼女の演奏はいつも「たった今そこで生まれたかのような」新鮮な神々しさを持っている。

アンコールのラヴェルの連弾のすばらしさよ!



COLERIDGE-TAYLOR
Ballade in A minor, Op. 33 Side-by-side
BEETHOVEN
Piano Concerto No. 2 in B flat major, Op. 19
INTERVAL
TCHAIKOVSKY
Symphony No. 4 in F minor, Op. 36

Martha Argerich piano
Marios Papadopoulos conductor
Cayenna Ponchione-Bailey conductor
Oxford Philharmonic Orchestra
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ショパンと花と...美は時間の中に




聖ヴァレンタインの日に、夫が素敵な花屋を発見したそうだ。
こちらは彼が一から好みを伝え、あれはダメ、これもダメ、と作ってもらった花束。

花瓶に移したくないほど完璧なので、しばらくこのまま飾っている。


......


あなたが花を好きなように、わたしも花が好きだ。

花の対称性、規則性、生命力を現す色彩、滑らかな曲線などは、人間の脳が好む特定のパターンの一つである。

しかし、よく見ると花びらには微妙な歪み、色のグラデーションなど、完全な均衡をわずかに崩す要素が見られる。

つまり、人間が快感を覚えるのは、完全に規則的なもの(退屈)でも、完全にランダムなもの(混乱)でもなく、予測可能性と予測不能性のバランスが取れたものなのなのであろう。

黄金比である。


「予期できるパターンとそこからの逸脱のバランスの絶妙さ」が、少なくともわたし個人が、花、バレエ、クラシック音楽、視覚芸術などを好む理由の一部かと(今、書きながら思いついた・笑)。




例えば、上の写真には娘が散らかしたショパンの楽譜が舞っているが、ショパンの曲には、安定したリズムや和声進行の中に、意外性のある転調や装飾音が散りばめられている。
この天才的絶妙なバランスが、有機的な美しさを生んでいると言える...(言える?)

ルバート(自由なテンポの揺れ)にさえ、一定のリズムを持ちながら、微妙に「呼吸する」ような自然な動きがある。

花も、自然で呼吸するような乱れを含んでいる。
人間はこのような「生命のリズム」に魅了される傾向があるのだろう。

あるいは、同じ楽譜を演奏しても、演奏者ごとに非常に異なる表情を持つであろう。
これは、一輪一輪の花が微妙に異なる個性を持つのと似て、一回性や、儚さと深く結びついている。





ここまでくると、「時間」を体験することこそが、ショパンの音楽や花に、われわれ人間が魅了される本質的な理由なのかもしれない、と思うようになった(たった今・笑)。

花はその刹那的な美しさを通して「時の流れの儚さ」を強調する。

同じように、ショパンの音楽は、時間の経過を「音の流れ」として体験させる。

特にテンポの変化は、時間の伸縮を音楽的に再現しており、聴く者に「時間が流れる」という感覚を直接的に与えるだろう。
これは、単なる時計の時間とは異なり、主観的で生きた時間(ベルクソン的な「持続」)に近いものだ。

クラシックの和声進行の基本を守りつつ、突然の転調や装飾音で予測を裏切ることで、聴き手に「次に何が起こるかわからない」緊張感を与える。
このバランスによって、人間はは「今この瞬間」を意識させられ、時間をより深く体験する。
ジェットコースターが好きな人もこれを感じているのかしら。


黄金比は完全な規則性ではなく、動的なバランスを持つという。
それこそが、人間が「時間の流れの中で美を感じる」感覚なのかも...

黄金比は、時間の中で生まれる美しさを構造化したものなのだろうか。

つまり、黄金比が人間にとって美しく感じられるのは、それが単なる静的な規則ではなく、「時間とともに変化する美しさ」を体験させるものだからなのだろうか(知らんけど・笑)。


人間は、美しさというものが、「時間の流れの中で生まれ、消えていく」ことに感動するのではないか、と思う。

花もショパンの音楽も、「美は時間の中にしか存在しない」ことを教えてくれるものなのだ、きっと。



花束はまるで音楽が聞こえてきそうな春の色の花である。
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「無意識の世界を可視化する」




ロンドン、ナショナル・ギャラリーの小展覧会、今は16世紀に描かれたマニエリスムの重要人物パルミジャニーノの『聖ヒエロニムスの幻視』とその習作。


わたしはマニエリスムが好きである。

マニエリスムは「マンネリ」の語源で、もとは「洗練された様式」という意味に過ぎなかったのに、時代とともに「型にはまった、退屈なもの」として使われるようになった。

...


マニエリスムの前段階、16世紀初頭、ミケランジェロ、レオナルド、ラファエロの登場で、芸術は至高を極め、完成したとみなされた。

その後、それら完成型の芸術をコピーする流れができたのもむべなるかな。

やがて、単に真似るのではなく、「完璧な美」をさらに推し進める形で、技巧的で人工的、優雅でかつ不安定、幻想的な表現が誕生した。

ヴァザーリはマニエリスムを「自然を凌駕する行動の芸術的手法」と述べている。

マニエリスム作品には、少し触れたならすべてが崩壊してしまいそうな、明け方の夢のような危ういバランスがあり、わたしはそれをとても好む。ポントルモとか、ブロンツィーノとか、いいですなあ。

後世のシュールレアリスムのムーブメントは、「無意識の世界を可視化する」(日本語のシュールとは多少意味が違う)のに務めたが、「現実を歪め、超越することで新たな美や意味を生み出そうとする」という点でマニエリスムと共通しているのでは...
いずれにせよ、時代の世相を反映している。


はっ、そういえば日本文化にも「無意識の世界を可視化する」芸術に大変優れたものがある。
例えば能。

浮世絵の奇想派。歌川国芳のガイコツや、葛飾北斎の『百物語』とか...
でもこちらにはなぜか少し触れたなら崩れ落ちるような不安定さはないなあ...


と、シロウト意見でした。

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もうひとつの愛 onegin




ロンドンはロイヤル・バレエで公演中のOnegin

Marianela Nunez(以下マリアネラ)が主演する3回目が、全体的に特筆すべきな完成度だったと感じたので自分のためのメモとして書いておきたい。


バレエはいつも「人間は極限でどんな行動をとるのか」「人間とは何か」について物語る...


『オネーギン』はプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』を原作にしたJohn Cranko の作品だ。

主人公のオネーギンは、自分自身の葛藤、無力感、虚無感、閉塞感、イライラ(これは同時に当時の帝政ロシアの社会状況の反映でもある)のために、純情なタチアナの若く情熱的な愛を愚弄して拒絶する。

一方で、タチアナはオネーギンに出会うまでは本の虫だったため、自分が理想化した恋愛を一方的にオネーギンに投影したと言えるだろう。

数年して再開し、オネーギンは、自分がタチアナを深く愛していることに気がつくが、彼女はすでにガーミン公の公爵夫人になっていた。


自分が捨てたものの価値を後になって理解する(これも当時のロシア社会の反映であろう)...という典型的な悲劇の構造を持ちつつ、愛や恋はそのままの形で存在するのではなく、関係性の結び目によって初めて成り立つということや、人間の、時間とともに変化する部分や、あるいは変わらない部分(<悲劇的だなあ)をしみじみ考えさせる。

特に、タチアナが結婚したガーミン公との、深い信頼と慈しみにあふれる、成熟した関係を表現する舞踏会のシーンが丁寧で繊細ですばらしかった。
お互いへの思いやりに根ざした穏やかで優しい関係の象徴である。しかもどこか物悲しい。

1幕目の有名な「鏡のパ・ド・ドゥ」は、タチアナの独りよがりな夢想から生まれる幻想であるのに見事に呼応している。


多くの人がこういった2種類(以上の)恋愛を経験しているはずだ。


ほんとうにすばらしい。
わたくしのマリアネラはいつもいつも最高である。
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六甲サイレンスヒルズのサイレンス





2ヶ月前(2024年12月)の日本一時帰国時のハナシの、書きさしがいくつかあるので、完成させて載せることにした。
今後数回は日本に舞い戻ります。今日は六甲山、神戸。


......




六甲山ホテルは、かつて「関西の避暑地」として愛された、神戸・六甲山にあったホテルのひとつだ。

明治以降、政府が推進した近代化政策を背景に、神戸では外国人居留地を定めて西洋の窓口となり、物や人、文化が流入、伝統文化と混ざり合って独特のライフスタイルを産んだ。

阪神感モダニズム。
わたしが育った神戸は、まだそのハイカラな心意気に支えられていた。

そして、迎えた80年代。
日本が好景気の果実を手にしたそのころは、六甲山や須磨の海岸などをドライブし、カフェやレストランや社交、近場のホテル滞在を楽しむ(もちろんおしゃれとセット)というのはごく普通のことだったが、2025年の現在では、あれはもうかつての外国人居留地の賑わいのように過去の思い出となってしまった。

交通機関の発達で、遠方への旅行が手軽になり、レジャーの選択肢が増え、率直に言って景気は落ち込んだまま...というのも理由のいくつかだろう。




あのころと変わらないのは眼下に広がる神戸の市街地と海。
泡のように消えてしまったあの時代。

六甲山や、隣の摩耶山(これらの「山」を神戸っ子は愛情を込めて山田さん、鈴木さん、のように発音する)には、個人の別荘、会社の保養所、六甲山ホテルも、六甲山オリエンタルホテルも、そういえばコム・シノワが出店したオーベルジュもあったな...
今は廃墟の女王として君臨する摩耶観光ホテルも...
わたしも幼い頃からよく行った。




コロナ禍前の2019年、約2年間の改修を経て、かつての六甲山ホテルが「六甲山サイレンスリゾート」として生まれ変わったと聞いた。

当然、また宿泊できるの! 
と、思ったのだったが、イタリアの建築家ミケーレ・デ・ルッキ設計の「サイレンス・リング」と呼ばれる円盤状ホテル部分の営業は見合わせとなり、レストランとカフェ営業のみの見切り発車となった。
2024年に延期、という話ではあったものの、現在のところ27年から29年の開業を目指しているという。

わたしでも簡単に想像できる延期の理由としては、円安や世界状況による資材価格の高騰や人材不足であろう。



左のリングが宿泊施設になる予定のサイレンス・リング。静けさの輪。
建築家ミケーレ・デ・ルッキのデザインは好きで、うちにもアレッシ系のキッチン用品がいくつかある。偶然。


神戸にはもう、80年代のような夢も希望も勢いもない。
寂れるばかりだ。
寂れの美はあるにはある(ベンヤミンのパサージュ論)。

「パサージュの中には、そうした過去の人々が見た、未来へと向かうユートピア的な集団の夢が、いわば、そのまま、手付かずに残っているのである。
その十九世紀の集団的な夢は、二重の意味でわたしたち二十一世紀人の心をうつ。
ひとつは、それが希望に満ちた繁栄と栄華の夢であるということ。もうひとつは、その夢がさして時を経ぬうちに無惨にも破れたものであること。」

「たんに過去の人々が生きた日常に出会うのではない。日常を生きながら、同時に集団的な未来の夢を見ていた人々の意識と出会うため、よけいに切ない気持ちになる」(以上、鹿島茂著『パリのパサージュ』より)

パサージュ論は、神戸の旧外国人居留地や、株式会社神戸と謳われた80年代の神戸を知る者が持て余すなんともいえない懐かしさ、寂しさ、切なさに、立体感を与え慰めになる。


サイレンス・リング、完成したら素敵だろうなあ。マネージャーになりたいなあ。
しかし、完成したところで集客はできるのだろうか、「サイレンス」は賑わうことがあるのだろうか、と神戸贔屓のわたしですら心配になる。

いっそ、神戸の市街から一気に到着できる、六甲サイレンスヒルズ専用ロープウェイやケーブルカーを敷くとかですね...
街おこしに成功したスペインのビルバオ(「ブルバオ効果」という名前さえ生んだ)や、フランスのナント、オランダのロッテルダムなどを思い浮かべてみる。

わたしがこのホテルの持ち主ならならどうするだろうか、と真面目に考えてしまった。
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