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夫のスーツをあつらえに行く。


彼は腕が長いのでスーツは合うものが全くなく、オーダーである。


前回とは少々体型が変わっているため(腹ですな、腹)、様々なモデルのサンプルを試着して一番合うものを探す。
どのモデルも50ではぴったりしすぎ、52ではぶかぶか、という具合。

そのあたりをミリ単位で調整するために、店のジェフリーが何十カ所も採寸をする。
彼は2メートル近くある大男で、なよなよしていて、大変かわいらしい話し方をするがきっぱりしていて、自分の仕事内容が非常に良く分かっているタイプの人物である。


男性のスーツは凄まじい制約の中で微妙な美を競うモノであるから、まさにそういう類いのものが好きなわたし(と、ジェフリー)が夫より熱心になるのである。


夫は最後は「2人で決めて」と、されるがまま(もっとも着ている本人には見えないが、型のある服--スーツや和服やウエディングドレスやなどは後ろ姿が最重要なので、周りの意見を聞き入れるのは大切なのだ)。
ターンしろと言われればするし、熱いうちにコーヒーを飲めと言われれば飲むし、これがお似合いと言われればなんでも購入してしまいそうな雰囲気だった(笑)。

これに比較したら女性の服飾なんかなんでもありである。


ものごとにこだわりがあり、それを公開することが一種のステイタスであるような昨今の風潮だが、歴史の中では「こだわる」ことや、それをあからさまに能書きするのはみっともないこととされてきたと思う。

男性誌を見ていると明らか、特に男性には個人差は激しくあるものの、偏執狂的なところがある...(蒐集に凝るのも、車などにハマるのも男性である)


古来、偏執狂的性質は涼しげでも社会的でもないから包み隠しておくのが暗黙のルールで、またそういうルール(つまり自分の欲々たる素は隠しておきましょうというルール)を守れる人がかっこいい(=大人)とされてきたのではないかと思った。
そうか、スーツとは男性の野蛮さを制御コントロールする拘束衣だったのか(笑)。そりゃセクシーだわな。



そんなアホなことを思いつつ、Borgo Santa Chiaraで仕立てられるスーツにいちいちため息をついてみせていたワタシなのであった。(なぜにイタリアと英国のスーツはあれほど美しいか?それを考えてみるのもおもしろいのである)。



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たいくつな人々




夫の幼なじみの中には、ここだけの話、何人か苦手な人たちがいる。


もう、死にたくなるほどたいくつな奴らなのである。

断っておくが彼らは「わたしにとって」たいくつなだけであり、もしかしたら世間では最高におもしろい奴らと見なされてるのかもしれない。また彼らがわたしのことを「たいくつ」と思っている可能性もあるのである。

「わたしにとって」死にたくなるほどたいくつとはどんな奴らか。


自分の半径500メートルくらいの世界観しかない人だ。
彼らが知っているのは自分の家の間取りと、壁のテレビとインターネットからの情報と、仕事場のと親戚の人間関係だけである。
彼らは世界が狭い故に自分の「優位」と「価値感」を唯一正しいと信じており、他人もそれに賛同していると思っているか、賛同していない場合は今この瞬間から賛同すべき、と考えている。
(そりゃあわたしも世間も視野も狭いし、モノも知らない。でも自分が絶望的にモノを知らないということは知っている。)


反対にわたしがおもしろい人と思うのは、自分の視野と限界を批判的に把握している人たちである。そういう視点を獲得するためには自分が組み込まれているシステムから外に出なければならないのであり、それが知性というものだ(おおヘーゲル)。
もちろんこういった人たちの世界観は4ベッドルームなどというセコさではなく、第一学習社の世界歴史地図級である。



先日パリの装飾物美術館で50、60年代の家具展示を見学していると、アメリカ人の30前後くらいの女性2人が「イケアそっくり!」「ほんと、あの椅子、イケアで見たわ!29ドルくらいだった」と叫び、許可されていないフラッシュ付き撮影を始めたのである。

...あのね、イケアのデザインのアイデアはある日突然無から生まれたのではないのだよ。
まあ、イケアも何世紀後かには21世紀の大衆消費文化研究に必須のサブジェクトになるのかもしれないが。

こういう人のことを自分家級の視野しかない人、と言う。
繰り返すが、世間ではこういう人のことを「おもしろい人」と言うのかもしれない。


たいくつかおもしろいか...たくさん旅行しているとか、時事への精通度とか、学歴の高低、キャリアなどは関係ない、と思う。







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代わりのパリ




楽しみにしていた展覧会のオープニング出席を、夫の都合で見送ることになった。


こういうときは、最大の補填を引き出すために「非常に遺憾である」という演技を惜しまない。全く品のないことであるが。

相方も慣れているため、本当に申し訳ないという態度で対応してくれる。

特にわたしが聞き分けのない女というわけでも、夫が妻にやたら甘い男というわけでもない。
われわれはただ役柄を演じて楽しんでいるだけである(と思う)。



というわけで、パリへ。
行けなかった展覧会(オープニングにすぎないけど)の代わりはやっぱり美術鑑賞しかないだろうと、オランジェリーが2006年に再オープンしてからまだ訪問していないから「じゃあそれ目的で」と適当に理由をつける。

しかし、下調べを怠ったら、休館日(火曜日)にあたってしまい、玉砕(笑)。


仕方なく、代わりのそのまた代わりに時間つぶしによく訪れる装飾物美術館へ行った。
なんと幸運なことにわたしが好きなDieter Rothの展覧会をしていた。

パリ万歳。


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my favorite things




子どもの頃、おやつはいつもドンクのフランスパンだった。


それから果物。
夏の夏みかん、すいか。秋の幸水。冬のおみかん。そして春はいちご。

今季節のいちごミルク。
いちごに少量の牛乳を加え、注意深くつぶし、濃い薔薇色の牛乳を堪能。少しずつ牛乳を足しながら淡いピンクに変わっていく牛乳と、はかなくも消えてゆく果肉を楽しむ。
実家にあるようないちごミルク用のスプーンをずっと探しているのだが、どこにも売っていない。


今夜はいちごミルクを食べる。子どもの気持ちだ。

たまたまColtraneのMy Favorite Things

おいおい、そんなに奏でないでよ。泣けてくるやん。


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あこがれの仕事




書留を出すために郵便局の窓口へ。


最近は郵便局でも番号札制が取り入れられたおかげで、少々の待ち時間も苦しくはない。心なしか局員の愛想も改善されたようだし。もしかしたらわたしが慣れただけなのかもしれないが。


子どもの頃、郵便局で使う道具類に憧れた。

切手のシート、シール、複写式の紙、様々なサイズ封筒、いろいろなハンコ...

おお、今でもわたしの好きなものばかりではないか。

一日局員さん、体験してみたい。めっちゃ愛想よくするわよ(笑)。


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