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Brugge Style
the cellist
ロイヤル・バレエの2本立てを観た。
写真(ROHから拝借)、楽器を奏でる女性。彼女は誰で、楽器は何でしょう?
Dances at a Gathering : Jerome Robbins
The Cellist : Cathy Marston
早熟天才チェリストJacqueline du Pré’sの人生を描いた新作The Cellistは、前評判が高く、楽しみにしていた。
Dances at a Gatheringの音楽はショパン作品の組み合わせで、この2本立てが「音楽」をセンターに構成されたのだと理解。
The Cellist
ジャクリーヌ・デュ・プレの人生に沿った筋書きを簡単に...
4歳の時にラジオで聞いたチェロ音楽がきっかけで、教育熱心で多少支配的な母親からチェロを習い始める。
5歳からロンドン・チェロ・スクールで学ぶ。
10歳で国際的なコンクールに入賞、12歳でBBC主催のコンサートで演奏を行う。
のちに進学したギルドホール音楽学校でウィリアム・プリースに師事し、「チェロの父」と慕った。
1961年、16歳でデビューを飾り、同年にエルガーのチェロ協奏曲を録音。
エルガーのチェロ協奏曲はこのバレエ作品全編通して効果的に使われている。
ちなみに英国人はこの感情的な曲を度を越して好む。コンクールなどでも少女がこの曲を演奏しようものなら大変喜ばれるのを考えると、ジャクリーヌ・デュ・プレの影響は小さくないのかも。
閑話休題。
チェロ演奏家としてごく若いうちに成功し、21歳でピアニストにして指揮者であるダニエル・バレンボイムと結婚したのは有名なロマンスだ。
26歳で多発性硬化症と診断され、チェロ演奏家としては引退、後進の育成を行う。
多発性硬化症の進行により、42歳でこの世を去る。
ジャクリーヌ・デュ・プレの音楽人生が1時間ほどの舞台で表現されたこの作品、彼女の愛した名器が人間(上写真でジャクリーヌ・デュ・プレ役のLauren Cuthbertsonが抱いているのがチェロ役のMarcelino Sambé)なら、家の中にあるラジオやレコードプレイヤー、テーブルや照明などの家具も人間が演じ、音楽もダンスで可視化される。
例えば彼女が少女の頃、チェロの音に魅入られるシーンは、その音と曲に身体ごと連れていかれるという体験(そういう体験は誰もがしたことがあると思う)がダンスで表現されている。
楽器を人間が演じる趣向は、かなり面白い作品を作り続けているNorthern BalletのCasanovaでも見たことがある。
これはわたしの考えだが、音楽を踊りで可視化した結果、時間までもが舞台上で表現されていたと思う。
というのは音楽は時間そのものだからだ。昔から、音楽を楽しめるのは、ひとつ前の音を記憶し、次の音を予想することによってだと言うではないか。
かてて加えて、われわれ人間は「記憶と予想」で構成されているのだということを強く意識させられた。
また、彼女の演奏スタイルが情熱的だったのもあるのか、音楽というものが悪い意味ではなく、かなりセクシャルに表現されているとも感じた。
ダニエル・バレンボイム役のMathew Ball(少し前はとてもバランスの悪い男だったのだが、すべてがあるべきところにはまり、すっかり美しい男になったという印象)との踊りもそうだが、チェロとの絡み合いも。
そこはやはりチェロでなければならない。ピアノだったら人間で表現できただろうか?!
多少やりすぎ、くどすぎ、あざとさ、すらも感じる構成だったが、主役Lauren Cuthbertsonのさりげなさ、自然な演技力がまとめていたと思う。
Dances at a Gathering
こちらは当然ショパンの曲が主役だと思うのだが、ピアノソロがちょっと...特にスケルツォの1番は弾けているとは言えず、多くのごまかしがあり、それが気になって集中できなかった。
素敵なショウではあるが、ショパンの曲への敬意が足りないと言えばいいのか、ショパンでなければならないという説得力に欠け、正直大部分が退屈であった。
The Cellistとの組み合わせはだいぶ分が悪い。
もう一回観たらどう感じるだろうか。
(写真はROHから拝借)
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蝶々夫人
この、広告にも使われた写真、インパクトありますね...
イングリッシュ・ナショナル・オペラMadam Batterfuly 『蝶々夫人』のリハーサルを鑑賞した。
この作品に限っては本番を見る予定はない。
プッチーニの音楽は素晴らしいと思うが、『蝶々夫人』はどうしても好きになれない話だからだ。
過去の芸術作品と、現代のポリティカル・コレクトネスは切り離さなければならない。
そうしなければ、われわれはギリシャ神話もシェイクスピアもアラジンも白雪姫も楽しめなくなってしまう。
でもでも...
『蝶々夫人』は舞台が日本の長崎で、アメリカ人の士官が15歳の日本の少女を現地妻にしたのち捨てる、しかも子供まで取り上げる、という話の筋は、「アメリカは日本を好きにできる」という第二次世界大戦後の両国の関係のようである。
また、この作品に顕著なオリエンタリズムは、他文化に対する無知と同義語で見るに耐えない。
なぜこの作品のオリエンタリズムは特にわたしの気に障るのだろうか。わたしが日本人だからだろうか。
それとも西洋人の蒙を楽しむべきなのか。
例えばこの前見たオペラは『カルメン』だった。
ジプシーがあれほどにもステレオタイプ(性的にルーズで、定住せず、犯罪で生計を立て、非科学的でタロット占いなどを好み、独特の音楽性を持つ人たち)に描かれているのにもかかわらず、それがあまり気にならなかったことに改めて驚く。
こういう意見は常にあがるため、プログラム中には『オペラと政治』という考察まであり、しかし最後はこう締めくくってあった。
作品が難しい主題を扱っているからといって、作者(この場合はプッチーニ)がその考えを肯定しているわけではない。われわれ観客はみな蝶々さんに感情移入し、蝶々さんが感情的な成熟を遂げたかたわらで、ピンカートンは卑怯で弱虫な男と描かれているではないか、と。
たしかに最後の場面では、少なくともわたしの両隣とその向こうの観客は男性も女性も蝶々さんに感情移入し、鼻をすすりながら泣いていた。
わたしは「ここ、泣くとこなの?! 怒って拳を振りあげるところじゃないの?!」と感覚の違いに驚いたのだった。
蝶々さんがいかに誇り高く、相手の卑小さの前でさえ尊厳を失わない、いかに器の大きい人物として描かれていようとも、いやそう描かれれば描かれるほど、おそらくわたしは国と国との力関係に、ジェンダーに、人種の違いに、現実にせよ社会的な思い込みであるにせよ、非対称性があることに腹を立てる。
プッチーニの優れた音楽ゆえに、時代に即さないからもう上演するなとか、美術館に過去の蒙として飾っておくだけにしろ、などとは言いたくないが。
一番よかった演出は、蝶々さんの子供が文楽の人形をモデルにしていることで、当然この人形は黒子が操っており、この人形に生き生きとした表情をもたらす動きがすばらしくて感心したのだった。
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alina cojocaru - alina at sadler's wells
現在イングリッシュ・ナショナル・バレエとハンブルグ・バレエのプリンシパル、Alina Cojocaruのリサイタルへ。技術的にも音楽性も唯一無二のダンサーだ。
共同プロデューサーは彼女のパートナーで元ダンサーのJohan Kobborg 。
ご自分の名前だけで観客席をいっぱいにできるスターダンサーは、ロンドンでしばしばリサイタルを開催する。
彼らは傑出したアーティストとして「最も新しい」「まだ誰も試みていない」「カンパニー内ではできない」、「自分には何ができるか知りたい」にフォーカスした公演をすることが多い(と思う)。
Alina at Sadler's Wellsは、彼女の透明感の源になっているようにすら見える、
あのどこか悲しげな表情...
人間性に対する深い慈愛を表したような...
を、前半3つの短編と後半の『マルグリットとアルマン』にまとめたような公演だった。
限界への挑戦というよりは、彼女を熟知した誰かが(きっと彼女自身とパートナーのJohan Kobborgの存在もあり)構成したのだろう、という感じ。
特にそれを感じたのは、このショーがバレエのリサイタルとしては例外的にチェロとヴァイオリンの奏でるヘンデルのパッサカリアで始まることと、前半の幕間に上映された2つの短くも美しい映像短編によってだ。
映像短編のひとつKievは、アリーナがバレエの教えを受けた師ら(とても年老いた)が写しだされ、彼らとの無声のやりとりがまさに「師を見るな、師が見ているものを見よ」で、たぶん一番よかった。
良かったといえば、『マルグリットとアルマン』のもうひとりの主役と言って差し支えないリストのピアノソナタ。この曲なしでは『椿姫』を題材にしたこの美しい一幕ものは、単なるメロドラマでしかない。
一言で表現すると、いい意味で「女主人による優雅なお茶会」のようなショーだった。
もちろんその優雅さやさりげなさの裏側には何十年分もの絶え間ない努力や精神力や才能があるわけだが。
次にアリーナが踊るのを見られるのは、来年度イングリッシュ・ナショナル・バレエが予定している『ライモンダ』だろうか。
彼女が踊るライモンダ、すごいだろうな...ものすごく楽しみにしている。
Programme:
Reminiscence (Chor. Tim Rushton)
Film - FACES (excerpt, Dir. Kim Brandstrup)
Journey (Chor. Juliano Nunes)
Kiev (Dir. Kim Brandstrup)
Les Lutins (Chor. Johan Kobborg)
Marguerite and Armand (Chor. Frederick Ashton)
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cakes or bubbles
ケーキ(甘いもの)か、バブル(シャンパン、お酒)、どちらがお好き? 両方?
ロンドンのレストランのちょっとした話題から、お茶とケーキに関して聞いてくださった方がおられたのでこちらにも書きます。
実はロンドンには意外にケーキなどのお菓子を中心にしてお茶を出すようなお店が少ない。
日本にはいくらでもお店がある、いわゆる「ケーキ屋さん」のようなお店が。
あるとしたら主にアフタヌーン・ティーで糖質カーニバルを開催するか、チェーンのコーヒーショップで英国伝統菓子の大量生産品をオーダーするか...
コヴェント・ガーデンのラデュレも換気が悪くていまひとつだし、最近は日本のケーキを出すWAなどのパティスリーや、辻利さんのアイスクリームショップなどもあるものの、味はよくても居心地がいいと言うのはためらう。
わたしはホテルのバアでお茶をすることが多い。
比較的好きなのはこの2つ。
Langham Artisan
https://www.artesian-bar.co.uk
Connaught Bar
https://www.the-connaught.co.uk/restaurants-bars/connaught-bar/
Barners Tavernはバアエリアはいいと思う。食事は今ひとつか。
Cafe Royalのバアも以前はよく利用していたのでだが、最近は人が多くて...
こちらのCakes and Bubblesは予約が必要だが、変わったケーキ(甘くない)がある(写真上。チーズの形のチーズケーキ。他にもコルクの形とか、薔薇の花一輪型とか、とてもすてき)。ちょっと場所は繁華街すぎるかな。
https://www.cakesandbubbles.co.uk
Beaumontのバアはさっぱりした感じが好みだったのに、内装が変わり、バアメニューも減った。
Claridge’sのバアは暗い(笑)。
BvlgariはNolitaがいいのだが、18時すぎからしか営業していない!
面白い話を一つ。
高校生だった娘に初めてボーイフレンドができ、ロンドンでデート中、コーヒーを飲もうということになった。
たまたまセルフリッジのある側のオックスフォード通りにいたので、娘は彼をBeaumontのバアに連れて行ってそこでコーヒーを飲んだそうだ。
普通ティーンはそんなところ行かないよ...と帰宅後の娘に忠言したら、彼女は「合理的で総合的にお得」だと!
どちらかおじさん紳士の多いバアという雰囲気がいいところ、ないかしら。本物の紳士は紳士クラブへ行かれるのだろうが。
どなたかおすすめがあればわたしにもぜひ教えてください。特にシティの方は全然知らないので!
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claridge'sで
訳あってロンドン滞在中。
ロンドンのクラリッジスには以前Feraというレストランがあり、ロンドンで可能な食事としてはかなり気に入っていた。このブログにも何回か登場している。
シェフがお辞めになって代替わりしてからもしばらく同じ路線で継続していたのだが、去年ついに営業が終了してしまった。
FeraのあとにできたのがDavis&Brookだ。
今回、2回目に行ったのだが、Feraのファンにとっては多少格落ち感が否めない。Feraはひとつの独特の個性あるレストランだったのに、こちらは総合で見て一般的な、と表現すればいいか。おいしくないというわけではない。ないのだが、これといってアッピールポイントも特にないような気がする。
アミューズの日本のきのこづくしはよかった...きのこ大好き。
女性のスタッフでものすごく気がきく方がおられ(まさにこちらが感じたことを素早く察してすぐに処理してくれる、他人の心読めるタイプの方)、彼女がおられるならまた行ってもいいかな...とは思う。
ちなみにFeraの元のシェフはマリルボーンに新しいお店Roganicを開店し、こちらはFeraに比べるとだいぶカジュアルな雰囲気になった一方で、料理は以前と同じように楽しく、繊細で、おいしい。目下、ロンドンで一番よく利用している。こちらはおすすめです。
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