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Brugge Style
9月のクリスマス
年々早くなるクリスマス商戦、9月の三週目にはリバティ百貨店からクリスマス・ショップがオープンしたとメールが来ていたなあ...呆れましたよ。
とはいえ、クリスマスまであと2ヶ月! そう考えると早すぎもしないような気がする。
写真は週末のセルフリッジス百貨店。
まあお客さんはおられないようだったが。
観光客向けじゃない? と友達は言った。
道路一つ隔てたところの教会も、気のせいかクリスマス村の教会のように見えた...
ハレルヤ。
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l'opera
L'Opéra de Minuit、真夜中のオペラ。
オペラといっても総合舞台芸術のオペラではなく、フランス菓子のオペラ、真夜中のお茶タイム。
秋をイメージし、オペラを作成したのにお客さんに出し損ねた。
オペラ(<舞台の方ね)のシーズンも始まり、数週間前まで作っていた軽やかなフルーツのムース系のケーキよりも、濃いチョコレートとエスプレッソの苦味の効いたケーキが秋の夜長にふさわしいかなと。
ビスキュイ・ジョコンド(アーモンド・プードル入りのスポンジ)、アンビバージュ(エスプレッソのシロップ)、ガナッシュ(チョコレートのクリーム)、クレーム・オ・ブール・キャフェ(エスプレッソのバタークリーム)、グラサージュ・ショコラ(表面の艶々のチョコレート)を薄い層で重ねて作る、見た目も味もとても都会的でシックなお菓子。
かっこいいケーキといえばこれを思い出すかな、わたしは。
レシピにはさまざまあり、重ねる層がくっきりと分かれているレシピもあれば、溶け合うように馴染むように仕上げるレシピもある。わたしは断然後者が好みだ。
工程にはとても時間がかかるが、作るのは難しくはない。
ただ、最後、2センチx10・5センチに綺麗に切り分けるときに最も緊張する...ここで失敗したら元も子もない。
知り合いの家にある、ベーゼンドルファーのインペリアルの黒鍵のよう(と、自画自賛)。
ウィーン菓子じゃないけど!!
ベルギーのおやつの時間は4時。
パリのオペラ・ガルニエの客席をイメージしてとか、オペラ・ガルニエ近くのカフェで考案されたとか、起源には諸説あり。
「オペラ」とは、イタリア語で「作品」、もとはラテン語のopus オプスであり、「仕事」「労働」「創作物」という意味を持つ。
やがて、芸術的要素(音楽、歌唱、演技、舞台装置など)を融合させた、総合舞台芸術「オペラ」を指すようになった。
「オペラ」という名前のケーキも、こうした「作品」や「芸術的な創作物」という意味合いが含まれていると解釈できるかもしれない。
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アリアドネーの糸
ロンドンのナショナル・ギャラリーは、セインズベリー・ウィングが改築中で、現在とても手狭な感じだ。
普段はセインズベリー・ウィングに展示されている作品、主にイタリアの中世からルネサンスにかけての最も華やかな作品群の大部分が母屋の方にかけられている。
この日は、ホックニーの作品2点が、ルネサンス初期の画家ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca)の一点とともにキュレートされているのを見学に行ったのだが、ヴェネツィア派の部屋で足が止まった。
おお、これはわたしがこの夏に見たギリシャの自然そのものの姿ではないか、と。
この絵は何度も見たことがあるのに、なぜ今日に限ってこんなに強く迫ってくるのだろう?
大ティツィアーノが、生まれ育ったヴェネツィアの外に旅したという記録は少ない。
ましてやギリシャのナクソス島に行ったことはないだろう。
しかしこの偉大な芸術家が16世紀に描いたこの風景は、現代の、ギリシャを周遊したばかりのわたしと、ギリシャ神話の時代を何よりもしっかり繋ぐのである。アリアドネーの糸のように。
芸術とは何かというと、そういうものであろうと思う。
「もうどこにも存在しないもの」や「あったかもしれないもの」と、「いまだかつて存在しないもの」を先取りして提示するのである。
...
クレタ島のミノア文明の時代、クノッソス宮殿のラビリントス(迷宮)に閉じ込められた半人半牛の怪物ミノタウロスを成敗するため、テーセウスはラビリントスに入り込む。
これを助けたのがアリアドネーだったが、薄情なテーセウスはナクソス島でアリアドネーを捨てる。
テーセウスの乗った船が左端に消えていくのが見える。
2頭のチーターが引く戦車に乗って行列を率いるバッカスは、アリアドネーを海岸で見つけ、戦車から飛び降りる。
アリアドネーの上の青い空には、彼女の王冠を変えた星座コロナが描かれている。
アリアドネーはクレタ島の支配者ミノア王の娘、ということになっているが、もともとはミノア文明の古代クレタ島で崇拝されていた豊穣や植物に関連する女神であった可能性が示唆されている。
...
芸術は、「もうどこにも存在しないもの」や「あったかもしれないもの」と、「いまだかつて存在しないもの」を先取りして提示する。
そしてさらに対話を促すのか、と感じたのは、上にも書いたホックニーとピエロ・デラ・フランチェスカのキュレートを見たからだった。
アリアドネーの糸のように、途切れない対話。
ホックニーはナショナル・ギャラリーがお気に入りだったそう。
この2枚のホックニーの絵には、中央のピエロ・デラ・フランチェスカによる『キリストの洗礼』(1450年頃、ナショナル・ギャラリー蔵)のポスターが描かれている。
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ベルギー解放80周年
モエはロンドン?
という写真で始まる今日のオハナシ。
ブルージュで友達とランチで盛り上がっていたら、鼓笛隊の音色が聞こえてきた。
(ランチはL'Aperovino Wine & Tasty Tapas で。オーナーマダムが友達の友達でソムリエ。おすすめです)
わたしは大きな窓に向かって着席しており、窓の外を英国陸軍のグレナディア・ガーズがおもちゃの兵隊さんのように行進するのを見て、ブルージュの景色が一瞬で「ロンドン」に変わったと、目を丸くした。
それだけ、彼らのコスチュームにはインパクトがあるということだ。
グレナディア・ガーズ以外のどの軍の制服を見ても、どこの国の何隊かというのは、わたしにはわからないと思う。
どなたもご存知と思うが、特徴的な黒い帽子は「ベアスキン」Bearskin。
その名の通り、カナダ産の黒熊の毛皮で作られており、高さ約45センチもある。
もともとはナポレオン戦争時にグレナディア兵が着用していた帽子で、兵士をより大きく、より威圧的に見せるためのデザインだ。
威圧的というよりもコミカルだと思うのは、わたしがこれを平時にしか見たことがないからか。
前菜はサーモンの刺身。
グレナディア・ガーズ(Grenadier Guards)は、イングランドの最も古い近衛歩兵連隊のひとつだ。
その起源は1656年、ピューリタン革命により大陸に亡命せざるをえなかったチャールズ王太子(後のチャールズ2世)が、亡命先のブルージュで自分の護衛部隊を設立したことによる。
チャールズ2世がブルージュに拠点を置いたのは、現代でも英国島から大陸へ海峡を渡ってすぐという地の利や、当時スペイン領ネーデルランドの一部であったブルージュが、自分を追放したイングランドの議会派政権とは距離を置いていたからだろう。
ピューリタン革命は、専制的な王権に対する議会の力を強化し、近代民主主義の基盤を築いた、一方で、宗教的・政治的な対立を激化させ、クロムウェルによる独裁的な統治をもたらした。
英国でフランス革命のような急激な革命が起こらなかったのは、すでにピューリタン革命があったからだと考える研究者もいる。
数トンのチョコレートで制作したカナダのシンボル、バッファローが登場して街の話題になっていた。
カナダ軍の兵士は、ベルギー解放で多くが犠牲になった。
最後になったが、この日9月12日にブルージュで行われたグレナディア・ガーズ音楽隊のパレードは、1944年のベルギー解放の80周年を記念している。
ベルギーは第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツに占領された。
1944年のノルマンディー上陸作戦が成功し、連合国軍が西ヨーロッパを解放していく過程で、同年9月にベルギーも解放された。
この解放作戦には、英国、アメリカ、カナダなどの連合軍が参加した。
まあ...戦争の悲惨さや犠牲を記憶するのは非常に大切とはいえ、外国軍がわが物顔で街を平和パレードするのはどうなのか。
平和の象徴が軍であるというのが、今の時代合わない、いや合わないと考えねばならない。
軍事による解決、軍事による平和よりも、別の次元のより平和的な解決、つまりは対話や協力を求めるべきと思うからだ。
とにかく、軍が「平和の名のもと」にパレードを行う趣旨には、わたしは両手をあげて賛成できない。
しかし軍事主義的な威圧感をも、グレナディア・ガーズの特徴的な制服と、コミカルなベアスキンが多少中和していると強く思う。
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店は世につれ、世は店につれ
スイカのマリネと牛肉のタルタルの組み合わせ。
季節を料理でも先取りする日本人からすると「まだ夏仕様?」だが
お互いが引き立て合い、非常に美味なり。
ちょうど1年ほど前のことだ。
ブルージュに13年間住んでいたときの馴染みのレストランのひとつ Rock Fortが、惜しまれつつ事業売却するというので、英国からかけつけ、二夜連続で最後の食事をさせてもらった。
地元の人に大変な人気店だったので、最後はお祭りのような賑わいだった。
魚専門店だけあって、新RockFort は魚の骨がシンボル。
そのときに元のオーナーから、新装開店する買収者はブルージュの外港Zeebrugge でシーフードのレストランをしている若いカップルとは聞いていた。
先月、その隣のレストラン(Zet'joe) に行ったものの、そういえばRock Fort がどうなっているかチェックするのをすっかり忘れていた。
ちょうど一年が経過、新しいレストランも波に乗り始めたのではないかと、夕食へ。
店内はオープン・キッチンを含め、ほとんど内装は変わっていない。
若いマダムの気持ちのいいサーヴィスと、非常に繊細な料理...
この料理は誰かの料理を思い出させる。
そうだ、以前、ロンドンのCralidge's に入っていた、Fera の料理。大ファンだったのになあ!
彼女から、「ブルージュにお住まいですか?」と聞かれ、夫が前のRock Fort の創業からの馴染みの客だったということを話すと、とても喜んでくれた。これからは私たちをよろしくお願いします、と。
食事中、夫と話をした。
1998年にわたしはブルージュへ来、馴染みになった店の中で、今まで残っている店がどのくらいあるかという話。
オーナーは同じで場所だけ移転した店、オーナーだけが変わった店、完全になくなってしまった店、そして今も同じ場所で頑張っている店...
ブルージュの街自体はそれこそ15世紀ごろの街並みをよく残している。
特に通りの名前はその時から全く変わっていない。
しかし、当然、店はどんどん移り変わる。
近所の肉屋、有機野菜の店、幼かった娘を特別に可愛がってくれた本屋やパン屋や魚屋、記念日には必ず行ったレストラン、娘が好きだったおもちゃ屋、趣味の良い子供靴屋、セレクトショップ、ほとんど毎日通ったバア...
ブルージュに住んでいると旧市街の中で日常はすべては事足りる。
しかも、外食文化が盛んで、観光客がものすごく多いブルージュだが、人気店はローカルのほうが圧倒的に多い。
わたしはブルージュのこの外食文化を愛した。
そしてわたしたちも英国へ引っ越し、この街から消えた。
何年後か、何十年後かには、わたしたちもこの世から消える。
それでもブルージュは15世紀の街並みを残したまま、「ここには昔なにがあったか」誰も覚えていない新しい店を抱き続けるのだろう、と。
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