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Brugge Style
たいくつ
娘のお友だちが遊びに来た。
友だちを招いた場合、部屋に上がって行ったが最後、呼ぶまで降りてこないのだが、今日は事情が違ったようだ。
お友だちが退屈しているのでDVDを見てもいいか、と言ってきたから驚いた。
今まで子どもが「退屈」と口にするのを聞いたことがなかったと思うのは、わたしの観察不足だろうか。都合のいい記憶喪失だろうか。
ウチの娘は一人子という要素もあり、ブツブツ言いながら何時間も庭のトランポリンの上に座っていたり、一日中お絵描きをしたり、朝から晩までレゴで街を建設したり、一人遊びが得意である。
わたしが子どもと遊ぶのが苦手で、今までろくに遊んでやらなかったから...(泣)。
その後もお友だちは何度もわたしのところへやってきて、歌うように「たいくつたいくつ」(オランダ語ではサーイ)と言うので、
退屈な場合、それは心の置き所にある。
あなたが退屈なのはあなたの外にあるものが原因ではなく、あなた自身がそういう気持ちを作り出しているからで、退屈ならばそれを改善する方法を見つけるべきだ。あまり「たいくつ」と繰り返していると、あなた自身が退屈な人になってしまって、楽しみを遠ざけることになるよ、とそういうようなことを言った。
判でついたようなことを得々と言いながら、
わたしたち大人は、子どもが退屈することを恐れているのだ、と思った。
わたしの場合はそうやって空疎な言葉でピリピリ説教することによって、
ある人は即、コンピューターのゲームを差し出すことによって。
なんとなれば子どもが「何もしていない状況」を作り出してはいけない、と近代子育ては教えるからだ。
わたしが読んだ米国の育児書にもそう書いてあった。
例えば車に子どもを長時間乗せるということは、子どもがぼんやりする時間が長くなるということだからできるだけ避けるよう書いてあった。この偉い先生に言わせたら、子どもの成長は無駄のないフォードシステムのようであるべきなのかもしれない...10年前そのページを読んで吐きそうになった。
できれば「退屈」などという道具概念はできるだけ長い間知らないまま、ブラブラしながら「子ども時代」は送って頂きたいものである。
こっちは「退屈?結構。」と言えるような大人なりたい。
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雑誌
近頃はファッション雑誌にこれというものがなく、定期的に見ているのはthe world of interiorsだけ...
たいへんスカした雑誌である。わたしが雑誌に求めるのは、実用性よりも「夢」なので、需要には合っているのだが。
ところでおすすめの日本のファッション誌があったら、ぜひ教えて下さい。それだけは絶対見ておいた方がいいと思っているので。
理由は、外国人目線の日本人女性像(小夜子系や超ナチュラル系や)に身をやつしたくないからだ。装い方だけではなく、考え方なども含め、自分はヤバいかもしれない、という危機感は常に持っていたい。
「他人の目ばかり意識している」と言われそうだが、
その通りです(笑)。
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夏ニ至ル
...数日遅れ。
各種試験結果が出揃って、やっと夏が来た。
娘は虫眼鏡で何度も紙を発火したり、ブツブツ言いながら花を集めている。彼女がどれだけ油を売っていても誰も(わたしだけだが)咎めない、いい季節だ。
蝉の声と共に目覚めた子どもの頃の夏、思い出す。
案外わたしも娘と同じようなことをして毎日を過ごしていたのかもしれない。
夏の間、日本人家庭教師を雇いたいわあ。
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ムーミン ゲシュタルト
フィンランドのお土産、ムーミンのマグカップ。
さすがのアラビア社製である。
友人に「え?Moetさん、キャラクター嫌いやん」と言われた。
ああ、キミはまだワタクシのことがよく分かってないね。
わたしは人畜無害に殺菌されて子どもに媚びを売る、○ンリオやディ○ニーなどのキャラクター商品は大嫌いだが、原初のおどろおどろしさ(<これがポイント)を残したキャラクターは大好きなのだ。そういうキャラクターは不合理で、遠慮なく邪悪さを発揮する。
このマグカップの絵柄を見てみよ、これはカルピス劇場のムーミンとは別物だよ。
本来はムーミンパパもママも、カルピス劇場のパパママのように、真と善と義の体現ではなかったはずだ。
ネットで調べたら、このカップのコレクションにはかなりの数があるらしく、えっと...娘のためなどと言い訳しながら集めてしまいそうだ。
...
娘は...「これはカバですか?」と言った。
はあ、わたし世代の日本の子どももみんな、カバだと思ってました。30年前と今でも、認識可能なゲシュタルトはあまり変化していないということですね。
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続・専門家の意見
先日の記事に関して少々書き足したい。
専門家の意見は、門外漢は考えもしないようなところに視点があっておもしろいくらいに実用的だったり、経験に裏付けられていて含蓄があったり、軽々とやってのける陰に努力のあとがうかがえて感動させられたり、よく理解できないけど何かすごい!という驚きがあったり、わたしは何かを極めようとしている人の仕事には常に最大限の尊敬を持って接したいと思っている。
序でながら歴史に残るどんな偉大な専門家の仕事でも、それは常に「過程」である。もし、何かをすでに「極めた」と言う専門家がいたら、要注意だ。
こんなことを言うのは口幅ったいが、専門家から頂戴した回答に対して僭越にも微笑を禁じ得なかったのは、
「分かりません」
とは、口が裂けても言えなくなってしまっていることに対してだ。
おそらく専門家が最も陥りやすい「穴」だと思う。
「これこれこういう極端な解決方法もあると言えますが、実用的ではないので、今のところ回答を差し上げるのは難しい」
と、なぜ言えないのだろうか。分からないと言ったら、自分の専門性に傷がつくとでも?
自分の仮説が間違っているかもしれない、と検証し続ける科学者だけが真に科学的であるように、「分からない」と言える専門家こそが真に知的であると思うのである。
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