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Brugge Style
ワルシャワの冬
左上から時計回りに、アーモンドのクラストで覆われたシュー生地の中に爽やかなレモンのクリーム、上にはイタリアンメレンゲとレモン風味のマカロンののったケーキ。もう一回食べたい。「負の遺産」スターリンの文化科学宮殿30階の展望台からの眺め。ショパンの心臓が安置されている聖十字架教会の新ファサード。宿、ブリストル・ホテル、オットー・ワーグナー。
ポーランド、ワルシャワは気温2度前後、暗くなるのもとても早い。
それでも例年よりはずいぶん暖かく雪もないと地元の人は喜んでおられた。
ロンドンも相当寒いのだろうと思われている方がおられるかもしれないが、
ロンドンは今日は11度、週末は14度なので気味が悪いくらい寒くないのですよ...
例年だと今の時期は7度くらいだと思うのだが。
今年は夏もポーランドを訪れたのだった。
この時期に再訪したのは、友人の出向中、非日常な雰囲気のなかで彼女に会いたかったのと
たいへん信心深いというポーランド(毎日複数回行われる教会のミサは人でいっぱいになる)のクリスマス前の雰囲気に接したかったのと...
理由はいくつでも見つけられる。
しかし、一方で常に勉強不足を痛感する。
左上から時計回りに、文化科学宮殿、少年ショパンがオルガンを弾いたVisitants教会、名物タルタルステーキ(タルタルステーキは結局4回くらい食べた)、ショパンのピアノ。
準備不足でもポーランドの冬は観光客に屋内の楽しみをいくつも与えてくれた。
繊細で新鮮なケーキや味わい深いパン
牛乳がおいしいためにコーヒーや紅茶もさらにおいしく
名物の鴨のロースト
暖房の効いた部屋で冷たいタルタル・ステーキやアイスクリーム
音楽、もちろん。
絵画のコレクションも。
今年の夏はファサード工事中だったショパンの心臓が安置されている教会もその姿を拝むことができ
夏は行列が建物の外にまで続いていた文化科学宮殿の30階の展望台も待ち時間なしで登れ
某ピアノ・コンサートは残念ながらよくなかったが、こんなことがあった。
ラッフルズ・ホテルのバアでアペリティフの時間を過ごしていたら、ムード音楽が突然ショパンのバラードに変わった。見ると、外から帰ってきたばかりらしいコートとニットの帽子をかぶったままの青年観光客だった。恋に落ちる瞬間というのはこんな感じだろうか、と思った。
ケーキ屋さんの窓際でケーキを食べていたら、厚着した小学2年生くらいの大集団が通り過ぎ、どの子も連鎖的に手を振ってくれ、1年分の幸せを受けてしまった。あれは天使の群れでしたよ、天使の!
もう1日あったら、バルト海沿の街、グダンスクまで行ったのだが、なんせ今回も時間が足りなかった!
次までにザメンホフ(エスペラント語の創案者)のことを調べるのも課題。
(民族のアイデンティティに興味があるので)
ゴンブローヴィッチの「フェルディドゥルケ」くらいは読み直そう...手元にはもうないけど、日本語で手に入るのかな。
今度はまた公園や森を楽しみに春か夏に来たい。
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ヴィラヌフ離宮、夏の宮殿を冬に訪れたら
ポーランドの歴史は、世界史でもほとんど従属的な立場でしか出てこなかったからか(わたしは高校で世界史を選択した)、そもそもショパン以外には興味がなかったからか、不勉強で全くよく知らない。
これから少し勉強するつもりだ。
ワルシャワからウーバーで20分ほどの郊外にあるヴィラヌフ宮殿に行ってきた。
この宮殿は17世紀、ポーランド・リトアニア共和国のヤン3世ソビェスキによって建設された夏の離宮だ。
彼は対オスマントルコとの戦争:第二次ウィーン包囲で名を馳せた軍人で、政治家である一方、優れた文人でもあったらしく、またヨーロッパ絵画の巨匠による「コピー」を数多く収集したという。
そしてヤン3世には関係ないが、ここには時代は下ってダヴィッドのEquestrian portrait of Stanisław Kostka Potocki (1781)が一枚あるというので、ミーハーとしてはがぜん興味をかき立てられたのだ(写真右。下手な写真...)。
ヤン3世ソビェスキの17世紀といえば、ポーランドが影響力を持った時代だ。
地中海世界の食糧不足に供給する「穀倉地帯」として。
16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ全土で人口が爆発的に増え、特に地中海全域で食糧不足が生じた。
この地域では輸入穀物が急増、この穀物はバルト海方面、特にポーランドから輸入されたものだった。
(イタリア都市没落の理由の一つとして、地中海内部では自給自足できなくなり、食料を輸入に頼らざるをえなくなったこと、かつそれをイタリア船ではなく、外国船が行なっていたこと(海運業を他国に掌握されてしまった)にある。さらに興味深いのは、イタリア船の凋落はイタリアが後背地で木材を調達できなくなったから。当時の文明は森林に依存していたのである)
ポーランドの土壌生産性自体は低かったものの、貴族層シュラフタの勢力が強く、彼らは穀物輸出によって巨額の利益を得ていたため、余剰穀物を外国に販売できたのだった。
しかしポーランドは穀物の輸送をオランダに完全依存していた。
穀物不足が解消されると、ポーランドの穀物は16世紀後半ほどの価値を持たなくなり、貿易収支は悪化、ポーランドはどんどん貧しくなる。
17世紀に入り、ポーランドの穀物貿易による利益額が低下した後も、穀物以外に他に売るものがないポーランドは、アムステルダム商人に多額の穀物輸送費を支払わねばならなかったのである。
世界システム論的に言うと、ポーランドはこうして西欧すなわち「中央」に原料を供給する「周縁」としての地位に釘付けされ、以来、低開発されることになるのである。
このようにみると、ヤン3世が文物を見る目はあったにもかかわらず(彼の判断ではルーベンスとラファエロが最高、一方カラヴァッジオとレンブラントは最低なのだそうだけど)、本物ではなく、「コピー」を集めたというのもなにかぐっとくるものがある。
離宮の庭は冬枯れて見るものもなかったが、クリスマスのイルミネーションがこうして綺麗に飾られていた。
こちらはヴェルサイユ宮殿の庭の「コピー」だそうだ。
次回はこの庭が蘇る夏に訪れてみたい。
......
他にも彼は中国をはじめとした東洋の芸術収集にも熱心で、現在は日本の某財閥系が出資して螺鈿の修復作業をなさっている日本人の方がおられた。ガラス越しに見てもとても素敵な方でその作業の様子に見入ってしまった。お話しがうかがいたかったなあ(おばちゃんはこれだから...って、若い頃からそんな気質だったけど)
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ワルシャワのボッティチェリ
春(プリマヴェーラ)のような
ボッティチェリ「聖母子」(1488年ごろ)
The Virgin and Child, St. John and an Angel
これもシモネッタ・ヴェスプッチがモデルだろう
花の顔(かんばせ)なんと美しいひとだろう。
「美に対するプラトン的な愛によって人間は神の領域に近づくことができると考えられた」
半ばこの絵を目当てでワルシャワ国立美術館を訪れたのだったが
全体的にとても趣味がよく、整った美術館で
特に中世の祭壇画のコレクションと
Faras Galleryのヌビアのキリスト教芸術コレクションがすばらしかった。
宗教画は芸術が何を母体にしているのか、をいつも思い出させてくれる。
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赤い家
今朝は早起き、ロンドンのヒースロー空港のラウンジで書いている。
......
ロイヤル・アカデミーのあるバーリントン・ハウスの中庭の「変化する対象・サイコの家」
Cornelia Parker Transitional Object (PsychoBarn)
ヒッチコックの映画「サイコ」と、ホッパーの絵「線路脇の家」をモデルにしたこの「対象」は
故意のパラドックス、善悪の両極性を表しているそうだ。
立体的に見えるがファサードのみで、裏側はメタルの足場であり、
「家の中」に入ることはできない。
特にこの時期、赤色の家はクリスマス・ヴィレッジの家のようでかわいらしく
クリスマスの雰囲気を象徴しているかに見えるが
(この向かい側の百貨店フォートナム・メイソンの華やかなクリスマスツリーや
おどけた表情の雪だるま、カラフルなプレゼントの山を積んだら映えるだろう)
同時にかすかな違和感や禍々しさもあり
われわれが見る物には表面上とは全く異なったメッセージがあるかもしれない、
と(わたしの解釈です)。
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klimt / schiele: drawings
ロイヤル・アカデミーで開催中の Klimt / Schiele: Drawings「クリムトとシーレの線描画展」へ。
先月ウィーンを訪れてウィーン世紀末芸術の雰囲気に浸ってきたつもりなのでとてもよいタイミング。復習になる。
セセッション館のクリムト作「ベートベン・フリース」の下絵や、スキャンダラスが過ぎると実現しなかったクリムトの「医学」の下絵なども見ることができた。
来月もクリスマス・マーケットを目的にウィーンへ行く予定なので予習にもなった。
クリムトとシーレには28歳差があり、お互いの興味を分かち合い、作風に影響を与え合い、(美術モデルを用いる、人間身体構造への尽きぬ興味など)はからずも両者とも今からちょうど100年前の1918年に亡くなっている。
シーレが、最初の作風は、すでに傑出していたクリムトに激似だったのが、次第に自信をつけるかのように唯一無二の作風へ変化していく。その様子が素人目にも明らかで、とても興味深かった。
事実、シーレはクリムトの後継者を公認され自認もしていたようだ。
また、西洋絵画が追求してきた平面上の三次元表現の手法としての「影」を、彼らはほとんど描き入れることなく立体(身体)を現している。これがすばらしい。
当然、東洋絵画の影響を受けていると思うのだが、シーレが「落款」風のサインを書き入れているのがとても魅力的に思えた。
面白いと思ったのは、クリムトは当時の社交界で肖像画画家として引く手数多であった。
彼の描く、写実的でありながら透明感に輝く女性像、優美な色合いはブルガリのネックレスのようで、どこまでも美しく、まあ誰でもこう描いて欲しいわな、という感じがする。
一方でシーレには肖像画家としての人気はなかった。それは彼の作品を見ればなるほど、と思う。
芸術的には天才的でも、肖像画となれば...誰も自己愛からは逃れられないのである。
事実、クリムトはその人間の顔立ちよりも身体を包み込む服飾のライン、シーレは表情そのものを描き込んだという。
ますます世紀末ウイーンへの思慕が募った。
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