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白鳥が飛ぶ夜




何週間か前、久しぶりにマシュー・ボーン版の「白鳥の湖」をサドラーズ・ウェルズ (Sadler's Wells) で見た。


マシュー・ボーン版の「白鳥の湖」は、王子ジークフリートのモデルをバイエルン王ルードヴィッヒ2世(ノイシュバンシュタイン城を建てた人ね)に取り、マザコンで孤独な男が正気を失うまでを描く。

特色は、この版では、白鳥が女性ではなく男性であることだろう。
だが、王子が同性愛者に描かれているという解説には、わたしは直ちには同意しない。
王子の孤独が限界を超えていて、愛を得られるならば相手はどんな属性を持っていてもよかったのだ、という解釈をしたい。男でも女でも、人間でも白鳥でも、この世の者でも夢の中の登場人物でも。
それほど彼の孤独は絶望的だったのだ、と。

孤独という絶望、絶望という孤独。
絶望は死に至る病である。


注文があるとすれば、ルードヴィッヒ2世をモデルにするなら、彼の芸術への偏執的こだわりを舞台に反映させる方法はないものだろうかと思うのだが、あれこれ取り入れすぎると話にしまりがなくなりバラバラな印象を与えるのかもしれない。
また、ロットバルトは非常に旨味のある役なのに、この版では影が薄すぎる(実際はすっぱな女性を雇って王子をたぶらかすくらいのことしかやっていない)のが残念だ。

しかしながら全体的には非常に魅力的な脚本だと思う。

ルードヴィッヒと言えば、ドイツ語版で字幕もないが、YouTubeにヴィスコンティの「ルードヴィヒ」が全編であがっている。お好きな方はぜひ。
ヴィスコンティ自身も、「白鳥のように美しかった」母親の面影を終生追いかけたそうだ。
白鳥をキーワードにつながる3つの話...


白鳥...


公演が終了し、劇場を出てロンドン地下鉄エンジェル (Angel) 駅に向かっていた。
天使駅...もしかしたら由来は他にあるのかもしれないが、詩情ある駅名だ。

と、丸坊主に頭を刈った若い男性が数人、真っ黒な服装でかばんを斜め掛けにし、後方から疾風のように現れた。
飛ぶように軽やかに走るその集団はあっと言う間に地下鉄の駅の深い深いエスカレーターに飛ぶように吸い込まれて行った。改札口辺りには笑い声のような軽口のようなそんな音がかすかに響き渡っていた。

まるで王子が公園で出会った白鳥が、天使駅に現れたようだった。



(写真は londonist.com より)
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英国と言えば...半裸の人々




ロンドン市内でも見かけるが、もっとその生態を観察したいと思うなら、郊外、あるいはマンチェスターやバーミンガム等の地方都市の繁華街を週末の夜狙うとよい。

クラブの入り口に列を作っている、やさぐれた半裸の若い英国人の生態。

男性がどれほど薄着なのかには気がつかなかったが、女性は風呂上がりに手ぬぐいを巻きつけたかのようなデザインの見るからに安いドレスをまとい、履き慣れないハイヒールをずるずるひきずっている。
肌の張り具合や、脂肪のつき方、髪の艶を見るに、ティーンエイジャーか20代前半なのだろう。ヘタクソな化粧が物悲しい。
「ちょっとアンタ、スカートが上がってるで!」と、サイズが合っていないためにずり上がっているスカートの裾を直してやりたくなるのは、わたしが神出鬼没の「着物の帯やおはしょりを駅ホームで直してくれるおばさん」タイプだからだろうか。

あのような姿で外出することを許す家庭の子供たちなのだろう...

それともわたしもあのころはこのような格好で出歩いていたのに(ボディコン全盛期だったから)、大人の都合で記憶から抹消してしまったのか。
補足しておきたいのは、ボディコンの全盛期は80年代であって、ジュリアナの時代は80年代の劣化版、あだ花なのである。誤解なきよう。

話を戻す。
もし自分の娘がそのような安い姿で外出しようとしたら...

わたしは引き留めはしない。しかし安いドレスと靴は脱いでもらう。そしてきっちりロラン・ムレのドレスとジミー・チュウの靴を貸与しよう。気候的に必要ならば80年代に着ていた真っ白の毛皮のコート(笑)を貸しても良い。
コート。寒いもん、必須ですよ。


が、クラブの入り口に列をつくるやさぐれ集団は季節を問わずコートを着ていない。まるで並んでいる間に突風が全員の上着を公平にさらって行ったかのように。
氷雨の夜も、マイナスになろうかという真冬の夜も。





わたしは初め、突風が...いやいや、自分の身体の価値をそれなりに理解した若い女がその魅力を道中から、入り口で待機中の時点から、100パーセント全開バリバリで放出し、「素敵な」相手を見つけるために生み出した手練かと思っていた。それともレッド・カーペット的発想なのかとか。
より「優れた」恋愛相手を見繕うための、動物の雄の求愛ディスプレイ。リビドー。若いって強烈な生エネルギーを放つんだなあ。


この話をわたしの英国生活の師匠にしたら、教えてくれた。
彼女ら(彼ら)は溢るるリビドーに突き動かされているのではない。

クロークにコートを預けたくないのである。

盗難の恐れがあるから?

否、預かってもらう際に発生する、50ペンスか1ポンドだかのチップがもったいないから、だそうである。それは英国人の生態として結構知られた話らしく、師匠は先日笑いながらこんなポストカードをくれた(写真上)。

強烈な生エネルギーと言うよりかは、生活の知恵、という感じだ。


でもどちらも生き延び、子孫を残すための欲動なのかも。


あ、白い毛皮を着た娘を送り出すなら、忘れずに50ペンス余分に渡さなくては!!
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くいしん坊と職人に、新しい風。




友達が送ってくれた関西ミシュランガイド。
「くいしん坊に、新しい風。」という副題がついており、くいしん坊にはページを繰るのもまどろこしい。

抱いて寝たい(笑)。


日本の食文化が世界最高峰なのは、気候風土や歴史や*「大和魂」の類いの精神論など、いろいろと理由があるだろう。

中でもわたしが日本を訪れるたびに恐れ入るのは、卓越した季節感や空間に対するセンスもだが、「まだまだです」という職人さんの腰の低い態度(優れた人間は常に謙虚)だ。
職人や芸術家に「完璧」はない。なぜなら「完璧だ」と判断を下すということは、「これ以外の形はありえない」という判断を下すことであり、それにこだわって動けなくなることこそ、創造性の敵だからだ。

誤解を招くのを恐れずに言うなら、日本の西洋料理部門やその他西洋起源のもの(ホテルなど)においては、「欧州に追いつきたい」(実のところ日本は欧州などとっくの昔に追い越し、彼らは日本の1周か2周遅れを走っている面も多い)という目標が鹿鳴館の時代から消えていないところがどうもあるような気がする。無意識のうちに。違うかな。もちろん欧州の価値からは全く自由ですという方もおられるだろうが。

欧州が実際「追いつきたい」と他に思わせるほどの魅力を21世紀の今も未だ放っているかどうかは関係なく、そういう遠いお星様のような目標がある限り、日本は流れ込んでくる文物をすべて受け入れ、取捨選択し改良し、いつの間にか周囲を引き離していた、ということを続けるに違いない。

すごさに気がついていないところ、そこも日本の良さなのか。


...


*「大和魂」に関して、夏目漱石が「我が輩は猫である」中、鮮やかに書いているのは有名だが:
「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」


わたしは本居宣長の和歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」と聞いた時に、理屈なく「あ、そうそう、その通り!」と間髪を入れず同意してしまう、「それ」だと思う...
まあそれこそ天狗の類いですな(笑)。
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ジゼルの心臓




ロンドン、ロイヤル・バレエで、ナタリア・オシポヴァ (Natalia Osipova) のジゼルを鑑賞。

一回チケットが完売になり、ほぞを噬む思いをしたのだが、後日そこそこの席が数席のみ復活したのを幸運にも入手できた。
昨夜も踊りながら(心の中で)コヴェント・ガーデンへ。


ジゼルの話に関しては、この考察(「ジゼルが大人にしたアルブレヒトという男」)をして以来考えは変わっていないので、今日はそこには触れないことにする。



わたしが一番最初にオシポヴァを見たのはボリショイの「ドン・キホーテ」で、彼女がキトリ役にあまりにもはまっていたため、オシポヴァには強くて明朗な役柄が合うのだ! と完全に思い込んでしまっていた。
2回目がコッペリア、3回目がまたドン・キホーテ、4回目はロレンチアと、たまたま続けて「強くて明朗」な役柄を踊るのを見たことも影響している。

わたしはオシポヴァの演技力にまんまと騙され(騙されたわけではないな)ていたのだ。
オシポヴァはバレエの才能だけでなく、演技の才能にも恵まれているのだ。

と言うのは、ジゼルはこれまで何十回と見て来たが、泣かされた(正確には泣かされそうになった)のは昨夜が初めてだった。
スベトラーナ(<暗い役柄が似合う)のジゼルにさえ泣かせられはしなかったのに...

何と言うのか、今までのジゼルは愛に死んだ乙女の健気さ、気高さ、儚さ、自己犠牲の尊さ、そういった美しさ綺麗さを強調して来たと思う。
一方、わたしが思うに昨夜のオシポヴァは美しさだけでなく、ジゼルが自分の心臓をむしり取り出して犠牲にした「惨めさ」を卑しくなく表現し切っていたと思う。素晴らしい表現力だ。
生前の愛らしい姿、裏切りが判明したときの惨めで卑屈な態度、精霊になってからの悲しいほどの透明感と空気感の演じ分け。
前々回のジュリエットの青さもよかったなあ。彼女は相当頭もいいに違いない。

結論。彼女のことが好き過ぎて、何をしても好きという状態を割り引いても良い公演だったと思う。



また、昨夜は高田茜さんを見ることもできて大満足だった。精霊の女王ミルタの侍女役で舞台の袖から出るなりすぐにあの人と分かるオーラ。今回も首から肩と腕のライン、そして真っ白の胸が素晴らしく美しかった...



来月はニュヌツ (Marianela Nunez) のジゼルを見る。こちらも素晴らしかろう。


(写真は http://www.standard.co.uk より)
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brahms piano concerto no. 1




先日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで、ユリアンナ・アヴデーヴァ (Yulianna Avdeeva) に魔法にかけられてからまだ目が覚めない。

彼女がわたしの心の中の「音楽」の部分にある大きな椅子にブラームスのピアノ協奏曲1番を置いて行ってしまい、それからわたしは朝から晩までブラームスの協奏曲を聴き較べているのだ。

アヴデーヴァ、素晴らしかった! 特に第三楽章! 言葉が全くついていかず申し訳ない! 
...音楽と言葉ではどちらが先なんだろう? ダーウインは「音楽が先」だとしたのに聞き覚えがあるが、もしもそうなら音楽を表すのに言語は不十分なのか? レヴィ=ストロースが音楽と言葉を構造上の両極に、その中間に神話を置いたのは、わたしの今の気分に対してものすごく説得力があるのだが、そういう話じゃなかったっけ(調べてません)。


ブラームスは子供の頃から好きで、そのうちピアノ協奏曲1番はわたしが加齢と共にだんだん好きになった曲のひとつだ。今では一番好きなピアノコンチェルトのひとつと言ってもいいかもしれない。あ、まだ魔法にかかってるかも(笑)。
今はこれを書きながら、YouTubeのBarenboim/Celibidache 版を聴いている。

何度聴いてもあまりにも心に染み渡るので今の心情として日記に記しておこうと思った。


次はポリーニが来て(わたしの心の椅子に)ベートヴェンのソナタを置いて行くのかな。まだ先の話(4月)だが。


(写真は http://www.southbankcentre.co.uk から)
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