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Brugge Style
今年の終点、NY

クリスマス前のNY、一日だけ雪が積もりました!
2016年も残り少なくなりました。
ご覧くださっているみなさま、ありがとうございます。
今年はなぜか「カラボスとは何者か」という検索が突出して多く、
「眠れる森の美女」、カラボスとは何者か
理由は何であれ、このブログをご覧になって
「なんとなく感じていたことが書いてある」
「ぜんぜん賛成できない。これはこうだと思う!」
「忘れていたことを思い出した...」
などと一瞬でも思ってくださった方がおられたら光栄です。
「眠れる森の美女」のカラボスは、
わたしの解釈では、ひとりの「神」が持つ複数の顔のうちのひとつの顔。
「神」のうちに善悪はなく、
物事に「良い」「悪い」と区別をつけるのはわれわれ人間
と、賢人らがくりかえし言っています。
世界の良きこと、美しきことにフォーカスし、
次の世代にできるだけ多くをパスしたい...
これがわたしの分不相応な目標。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ豊かなクリスマスと清々しい新年をお迎えください。
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クララの別の夢

クララの、ライト版とはまた違った夢の話。
イングリッシュ・ナショナル・バレエの「くるみ割り人形」は比較的新しいWayne Eagling版だ。
プロットだけを取り上げれば、わたしはこちらが好きだ。
幸せな幼い少女がクリスマスの夜に夢を見る。
自分が美しい女性に成長し、憧れの男性が王子様として現れ、夢の国で踊る。
全てが彼女の素敵な夢の話として語られているので、助長な説明もない(夢の国では誰かが魔法によって人形に変えられているなど普通のハナシなのである)。
ドロッセルマイヤーさんは魔法使い(この時代の時計技師は科学者扱いでからくり人形なども製作しており、不思議な能力を持った「魔法使い」とみなされていた)というよりも、ただの手品師・人形使いのおじさんとして登場する。クララの夢の世界もパペット・ショウの形をとっている。
ライト版とは大きく違う。
ライト版では、魔法使いたるドロッセルマイヤーは全てのなりゆきを計算しつくし、計画する。
少女は魔法使いによって選ばれた者であり、魔法使いの息子がかけられた呪い(人形の形にされている)を解く使命を負って夢の世界へ誘われる。
少女の活躍で呪いは解け、夢の国でその女王と出会った少女は功績をたたえられて華やかな踊りの宴に誘われる。
ドロッセルマイヤーこそが狂言回しであり、不思議な能力を備えた彼なしではこのハナシが語られることはないのである。
ただ、振り付けやストーリーの「語り方」になるとイーグリング版は助長で全然ぱっとしない。
2幕目のパ・ド・ドゥでは、プチパの振り付けが丸ごと残っているのがありがたいほどだ。
うちの娘はライト版の、若くナイーブな少女が夢の国の女王に会うというのが妥当だというが、わたしは少女が若くナイーブだからこそ、彼女自身が夢の国で女王になって妥当、という意見。
......
アリーナ・コジョカルがクララだと思い込んで取った、今シーズンロンドンでの初演だった。
わたしがひそかに贔屓にしている金原里奈さんが雪の精を踊っていて、ほんとうに目立っていた。
彼女はアーティスト(バレエ団では最下のランク)でありながら、今シーズン、クララを踊るので、タマラ・ロホの期待を担っていると考えて差し支えないだろう。来年もご活躍を心から祈っている。
子供のクララを踊っていた小学生Sophia Muchaが驚くほど上手だったし、やっぱりオーケストラがものすごく素晴らしかった。
今夜の夜間飛行で行くニューヨークで、ニューヨーク・シティー・バレエのバランシン版「くるみ割り人形」も見てきます!
(写真はballet.org.ukから、シュガー・プラム妖精の女王に扮したアリーナ・コジョカル)
ここに書くのもなんだが、アメリカといえば、
森本あんり著「反知性主義 アメリカが生んだ『熱病』の正体」(新潮社)を
おもしろすぎて一気読み。
なぜアメリカが「トランプ」のような大統領を選ぶのかを歴史を検証しながら
(この本は2015年8月出版の本)詳しく書かれている。
お正月休みに超オススメです!!
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京都・冬

親友が何枚か写真を送ってくれた。
滞在中は明るく静かに晴れ渡った日の連続で気温も高く、
時々目が潤んだのは、澄みきった青い空と光がまぶしく
乾いた空気のせいですよ、うん。
写真のように
実相院の床紅葉を見学に出かけたこの日に限っては薄曇りで
少しがっかりしたのだった。
関西の冬は冬晴れが多い。
比較的、からっとした晴れは夏に多く、
冬は重たく曇っていることが多い西欧州住みからしたら
このことだけを切り取ってもジパング黄金の島ですわな。
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クララの夢

ロイヤル・バレエのピーター・ライト版「くるみ割り人形」を。
今年はピーター・ライト卿が90歳を迎えたので、その記念碑的な公演。
年末にはこのライプニツ的な出し物が絶対に必要だ!
わたしは大絶賛時差ぼけ中、きっと寝てしまうだろうとは思っていたが
やっぱりクララが夢を見始めるシーンで徐々に目が寄り始め、一緒になって夢の世界へ。
そりゃチャイコフスキーの音楽が夢の導入にふさわしいからでしょう!
死ぬときがきたら、こうやって死にたいなあ。
クララが夢を見ている世界の夢を見ているわたし...
の夢を見ている人がどこかにいるのかも。
(写真はroh.org.ukより。シュガー・プラムの妖精にして
クララの夢世界の女王、Lauren Cuthbertson)
ロイヤル・バレエの「くるみ割り人形」ピーター・ライト版は、舞台装置や衣装、振り付けの華やかさと、ダンサーの力量、オーケストラの完璧さですばらしい仕上がりなのだが、ストーリー的にはわたしの一番の好みとはいえない。
なぜ青年がくるみ割り人形にされたのか、なぜその魔法を解くのに愛が必要なのかの説明が回りくどすぎるし(常々このブログにも書いているように、ロイヤル・バレエの特徴の一つは「説明しすぎ」なことだと思う)、少女クララがなぜこんな夢を見たのかの伏線を張りすぎだと感じるからである。
夢の世界とは、目覚めて振り返ってみればヘンテコだが、そこで起きていることと起きていることへの解釈の間に全く距離がないものなのであり(だから夢は素敵なのだ)、いちいち解釈・説明したり伏線を張ったりしては「夢」でなくなると思うからである。
また少女の夢としては、夢の国を訪れて妖精の女王に会うよりも、自分自身が妖精の女王になる、というバージョンの方が、わたしにとっては説得力がある。
しかし、いろいろなバージョンがあること自体がすばらしい。これからも「くるみ割り人形」はいろいろな解釈を許し、いろいろなバージョンを産むだろう。鹿島茂曰く、「永遠に更新される価値を秘めた小説、これこそが古典の本質」。
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