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すべてはスベトラーナのために




昨夜はロンドンのロイヤル・オペラでスベトラーナ・ザハロワ (Svetlana Zakharova) の白鳥の湖。
ボリショイ・バレエのオープニング・ナイト。

スベトラーナ、舞台の上の他のバレリーナとは全く違う雰囲気をひとりまとって神々しく輝いていた。

他のバレリーナも普通の人間よりは数段美しい体つき雰囲気の人ばかりだが、スベトラーナはもう「美しい」という言葉が恥じ入って隠れてしまうのではないかという次元。特に悲劇のヒロインを演じると、彼女に元々備わっている「暗さ」が際立ち、この世のものとは思えない美しさだ。女神。

さらにオデットは少々枯れた女が演じるべきであるというのがわたしの持論なので、「ダンサーとしての盛りは過ぎた」とされる(個人的には簡単に同意しないにしても)スベトラーナこそ、なのだ。まあ、アーティスト的には実際若くても枯れた感じを出せなければ一流ではないのだろうけれど。


これでこの夏はロンドンに思い残すことなし。
(あ、来月15日の Olga Smirnova の白鳥が見られない心残りがあった)



空港にて。



ドラマツルギーに関するメモとしては:ロットバルトがジークフリードの影のように同じ振り付けで踊ったことと、舞台上の紗のカーテンはこの世とあの世を分けているのだろう、ロマンティック・チュチュの白鳥たちが最初からもうこの世の者ではないと表現しているのが印象的だった。
この夜の舞台で気になったのは、オーケストラが少しスムーズでなかったこと(娘にはそんなことない! と否定されたが)と、王子はいくつかの意味であれでいいのか...等々。


何件かご質問頂いたことに関して。わたし、ダンサーやバレエ団の政治的あれこれには非常に疎いです。ロシア風ドロドロ、怖い。その代わり(?)バレエのドラマツルギー(特に民俗学的な面)に興味があります。今までに見た「白鳥の湖」をすべておさらいして、分析したい! と思うほどなのです...
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dog days of summer








あまりにも素晴らしい今年の欧州の夏。

テラス席、ノースリーブ、サンダル、サングラス...
日焼け止めの香り、ホテルのプール、モヒート、フローズン・ヨーグルト...
そして日本の「夏」の歌謡曲が頭の中で何回もかかるほど!

ロンドンでテラス席を探しておられる方は、
ぜひ上写真のメリルボーン・ハイストリート( Marylebone HIgh Street ) へ!


どうぞお健やかで楽しい夏をお過ごし下さい。


暑中 お見舞いを申し上げます。
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saatchi gallery, "paper", "new order" and "20:50"







(上段左からYuken Teruya, Sara Baker, Daniel Kelly, 下段左からKlaus Mosetti, Han Feng, Odries Mlaszho。Sara Baker のみ"New Order" 展、他はすべて "Paper" 展より)


写真がヘボすぎて泣けてきますがご容赦下さい。


やっとサーチ・ギャラリーで開催中の "Paper"、 "New Order"、Richard Wilson の "20:50" について書くところまでたどり着いた...
今日、こうして書き出すまで、3回も見に行っているので気合いを入れて書く...と言いたい。言いたいなあ! でも所詮わたしには好きかそうでもないかくらいしか言えないのである。だからそのことについて書く。笑。


上の写真は本物の良さを1パーセントも表していない、ということをお断りした上で、どれもわたしの好きな作品だ(他にも何点か好きな作品、例えば Peles Empire, Eric Manigaud 等もあるのだが、写真が悪すぎるので載せないことにした)。このようにどうせいい写真は撮れないので、美術館でも写真はほとんど撮らないことにしているのだが、自分のためのメモとして記録しておくことはある。
もちろん記録しておこうと思うのは自分が好きな作品であり、そういう作品は目を凝らして観察する。いろいろな角度や距離を取ってみる。メモを取る。後でまた戻ってくる。等々。

一方、「こういうの全然好きじゃない」、「狙いすぎちゃうか」、「これスルー」という作品もある。

今回の展覧会で強く感じたのは、特にモダン・アートの展示会に於いては、「こういうの全然好きじゃない」と前を通りすぎてしまう作品、そういうものこそをしっかり見るべきで、なぜ自分はそれが好きではないのか、なぜ拒絶するのか、なぜ気にさわるのか、それをこそ考えるべきなのではないか、その時の自分の中を観察すべきなのではないか、ということだった。心理学的に言うと、わたしが無意識に避けるもの、それこそがわたしにとって本当に意味のあるもの、ということになるのだし。

サーチの展示物はいつも秀逸で、そういう気持ちを忘れがちになるけれど。

これはわたし自身にとっては重要な気付きだったのでアンダーラインを入れておきたい。



右は、おまけというのは失礼すぎる、好きすぎるリチャード・ウイルソンの "20:50"。
臭気がひどいが、この部屋はなかなか立ち去れない。
この作品はフッサールの「現象学的還元」とか「間主観性」を完全に裏切るから...

世界とはどのように成立しているのか(成立しているように見えるのか)、美とは何か、われわれは物事をどのように見るのか、終わりのない問いかけをする「術」が芸術ならば(逆に工芸品や実用品はその問いかけへの一種の「答え」である)、やはりこの作品は現代英国最前線を表しているのである...(なーんて)。
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borough market








「農薬などを使っていない安心な食べ物だけを集めたマーケットがほしい、というおいしいもの大好き女性が、活気のない市場を蘇らせた。今やオーガニックに限らず、とにかくヨーロッパ中から逸品が集まるマーケットに」(「地球の歩き方 aruco ロンドン」より)と、いう記事を見たときから、ずっと行きたいと思っていたマーケットにもついに行くことができた。

今日(もう昨日か)もお天気は変わらず快晴。30度! 幸せ!

地下鉄ロンドン・ブリッジ駅からすぐのバラ・マーケット (borough market) 。
ちなみに英国には○○borough (例えば "Scarborough Fair" のborough)という地名が多いが、市に次ぐ格式を持つ街の意味だそうだ。ということは、バラ・マーケットとは一般名詞で街のマーケット、みたいな感じか。「スカボロ(=スカバラ)」は、すなわち、スカの郊外の街のお祭りということ?


このバラ・マーケット、観光客向けな雰囲気もありつつ、昼時には周囲のオフィス街から多くの人がサンドウィッチやサラダ等を求めに来ていて、観光客半分、オフィスの人半分、という雰囲気。
パン屋、花屋、八百屋、魚屋、肉屋、トリュフ屋、チーズ屋、オリーブオイル屋、スペイン総菜屋、ヤギの乳アイスクリーム屋、スパイス屋、紅茶屋、パテ屋、卵屋、ドイツソーセージ屋台、塩ビーフサンドイッチの屋台...わたしはごく素直に楽しい! と思えた。

わたしは1人で訪れたのだが、それよりも料理好き、食いしん坊の友達やパートナーと訪れた方がずっと楽しいと思った。おまけに前夜シーフードの Scott's で食べ過ぎており、もたれる胃を抱えて訪れたので何一つ買い食いできず...空腹で訪れるべし。

それでも夫の好物のコンテチーズの3年ものと、日本の友達にエプロン等を求めてごきげんでマーケットを後にした。

1時間ほどでも十分楽しめると思うので、観光のついでにもぜひぜひ。
マーケットは木金土のみなのでご注意
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michael landy, saints alive




今朝も太陽輝くロンドン。
ホテルのテラスを吹き抜ける朝風は涼しくとも、葡萄棚からもれる光の明るさが気温30度まで上がるという予想を裏付ける。

先ほどわたしがまだ朝食のパンケーキを食べている最中に夫は仕事へ。


昨日はサーチ・ギャラリーで一番時間を使った。
それで今日は先月末からの課題となっていたサーチの "Paper" 展について書こう...と思っていたのだが(例えば沖縄出身の Yuken Teruya さんの作品「LVMH」!好き!)、一昨日ナショナル・ギャラリーで予備知識なしになんとなく立寄った展示会への印象がわたしの中で大きくなってきたのでそちらのことを先に。


マイケル・ランディの "Saints Alive" は、ナショナル・ギャラリー内に展示されている初期ルネサンスの聖人(当時最も好まれたモチーフ)をコラージュし、それらを巨大な立体に起こし、しかも中古の機械部品によって不器用に執拗に残酷に、爆音とともに動くように仕上げてある。

例えば可憐(同時に巨大)な聖アポロニアは、彼女の象徴の「すべての歯を抜かれた」という宿命を背負って入り口すぐの所に立ちつくしている。
彼女の足下には観客が踏みつけて作動させられるスイッチがあり、そのスイッチが踏みつけられるたびに彼女は手にした”やっとこ”で自分の歯を引き抜く仕草をする。それはまるで「賽の河原」や「シュシュポスの受けた罰」のようであり、彼女は死んでなお、聖人でありながら(聖人ゆえ?)この宿命、罰(=痛み)を永遠に負うのである。
しかも罪多き「われわれ」によって。
聖人はわれわれの犠牲なのだ。

同じように聖ヒエロニムスは裸体の胸に岩を打ち付け続け、イエス・キリストは「疑り深いトマス」によって脇腹の傷に継続的に指をつっこまれる(<これは一時故障中だった。よかったね!イエス様!)。

ランディは制作フィルムの中で、「彼ら聖人は自分たちの身体を破壊することを引き換えにする」と発言しており、別のシーンで彼自身、作品制作途中に頭を壁に打ち付けたりの自傷行為があることを告白していたので、聖人と芸術家を結びつけずにはいられなかった。


故障中の機械が2体ほどあったため(指を突っ込まれるキリストを含む)、後日また見に行ってみたい。
ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」の中に迷い込んでしまった?! という感じがするのもこの作品群がとても好きになった理由。
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