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細雪




先日記事にした「日本では公共の場所で読めない恥ずかしい谷崎」に続いて「細雪」を手にしている。


初めてこの小説を読んだのは、吉永小百合が雪子役で映画化されたとき...ワタクシ、おませだったんだ。

その頃の感想は残念ながら忘れてしまったが、今のわたしには関西弁が音楽のように心地よい。会話文はもちろん、地の文まで関西弁で読んでしまう。ジムでエアロ・バイクを漕ぎつつ音読しそうになる。


美しかった祖母や大叔母のこと、それから派手な母(笑)とワタクシと妹2人(3人姉妹)で外出すると必ず「細雪みたいですな。ははは。」と言われて母がひとり大喜びしていたことなど思い出し、忍び笑いする。
それにわたしには馴染みのある固有名詞がばんばん出て来るので、外国に住む身にはごちそうな小説である。

この小説、第二次世界大戦前夜が舞台だが、わたしが育った環境はこの頃とあまり変わっていないかもしれない。


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だいじなものいれ




子どもの頃のわたし。

まわりの大人が「この子には芸術的な才能がある」と大騒ぎしては、絵を習いに行かせたり、宝塚に入れてはどうかとか、いや、将来はオペラ歌手を目指してはどうかとか....

今となっては笑うしかない。
彼らの中に慧眼はなかったばかりでなく、わたしも普通の人だった(笑)。




グリーン・トーンの花が好きだ




雨の午後。
つれづれに本を読んでいると「オタク」の典型的なタイプが、往々にして彼(彼女)の大切なコレクションを紙袋や大型のかばんに入れて常に持ち歩く、という一節に出会った。

なるほど、それが彼/彼女の全宇宙であり、「自分」構成要素そのものである、ということであろう。



わたしは物心ついた頃からダンスや歌や絵で「表現する」のが好きだった。
特にお絵描きはわたしを一番夢中にさせる手段だった。


この「オタク」の一節を読んで思い出したのが、わたしが描く自画像には、状況が許せば必ず「だいじなものいれ」が描き込まれていたことである。

それはベッドのそばのナイト・テーブルの開き戸であったり、勉強机の引き出しであったり、スーツ・ケースであったりした。

中味が何であるのかは具体的には決して描かれることはなく、常に「だいじなものいれ」とだけ表現される小さな箱。

ああ、それが少女のわたしの全世界であり、欲望であり、「自分」であったのだなあと...


でも、いつ、わたしは「だいじなものいれ」を必要としなくなったんだろう?

あの小さな箱の中には今のこのわたしが隠れていたのだ。

今のわたしは「だいじなものいれ」の中にある、と少女の頃のわたしが想像したような人間になっただろうか?



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聖血祭




キリスト昇天日。

ブルージュでは毎年「聖血祭」が行われる(聖血祭の歴史と由来についてはこちら「聖血祭の由来とお話」をご覧下さい)。


十字軍遠征時にエルサレムから持ち帰られたイエス・キリストの血(普段はブルグの聖血礼拝堂に安置されている)を先頭に、主に彼の生涯をたどったお芝居を繰り広げながら行列が街を練り歩くのだ。

人ごみ、行列が大嫌いなので(今日の話題には関係ないですけれど、テレビとカラオケと漫画も...)この日は街に出ないようにしているのだが、約束していた午後のお茶の時刻とちょうど重なり、大渋滞に巻き込まれてしまった。

まあ、ご覧下さい、この盛況ぶり。

それに引きかえパファーマー達はやる気があるのかないのか、かったるい雰囲気でたらたらと行列(笑)。観客の盛り上がり方とのコントラストがおもしろかったりして。


この祭、かなり有名にして盛大、集客力は強いようだが、ワタクシ個人の意見としては、流鏑馬などの伝統アトラクションがある絵巻物のような、あるいはケガ人が出るような緊張感のある威勢のいい、あの遠い国のお祭りとは全然モノが違います。

そろそろ内容を考え直して締め直す時期が来ていると思う...でもおそらくブルージュのこの街並と同じで、今後何十年経っても気の抜けたビールのようなこの祭り行列は続くのであろう。


ま、それがいいと言われれば「あ、やっぱり」と言うしかないが(笑)。

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こういう男になりたい




一ヶ月に10冊程の本を読むが、ひねくれ者でジャック・アマノなのでベストセラーには絶対に手を出さない。
ベストセラーにはベストセラーになる理由が必ずあると思うから...


普段、本をあまり手にしない層が購入する本でないとベスト・セラーにはならないし、ワタクシとしては本を読む習慣がない人が読むような本には全く興味がない。別に本を読まない人たちをバカにしているわけではなく、興味のあるところが違う、というだけのことだ。


全く話は変わって。

話題の「ダ・ビンチ・コード」。
堂々のベストセラー、もちろんワタクシは読んでないが(笑)、ナショナル・ジオグラフィックで内容を科学的に検証する旨の番組をやっていたので、内容は知っている。
なるほど、邪馬台国はどこにあったかとか、アトランティス文明の質とか、ストーン・ヘンジの意味とかと同じでそそられる。


英国のニュースを見ていたら、カンヌでも鳴り物入りで上映された「ダ・ビンチ・コード」、プレミアでの評判が散々であったと報道され、さらに悪いことに主演のトム・ハンクスはこの翌日突然帰国、ジャン・レノは仮病を使ってインタヴューをキャンセル、その他の関係者もことごとく公式の場で語ることを拒否したらしい...未熟やなあ。

映画が批評にさらされるのは当然で、それをハンドルできなくてどうするんだ。


そんな中、快くインタビューに応じたほとんど唯一の人物がイアン・マッケラン。サー(卿)である。
「指輪物語」のガンダルフ、と言えばすぐに分かってもらえるだろうか。

意識的な自然体でインタビューに応えた彼にはユーモアさえ交える余裕があり、人間の格の高さってこういうことかも、と思わされた。


格の高さと言っても、別に彼が他の俳優や関係者に比べて高潔であるとか誠実であるという意味ではない。
一筋縄ではいかない優雅な、まさに何が起きても動じない様子が、発作的にその場を立ち去ったり、顔を見せなくなるよりもず~っと「効果的」であると「知っている」という感じ。



ワタクシは女性だが「こういう男になりたいもんだ」。


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love, death and war




最近来日公演もすませたベジャールを観た。
出し物は”Zarathustra"。


わたし、何と記憶違いしているのか、6、7年前にも観たような気がして...でも新作なのである。

御大78歳。ますますメフィストフェレスのような風貌。
前評も良かったし、観客の湧き方も最高だったので、こんなことを書くのは気が引けるが、期待していたわりにはごくごく普通な出来だったのでは、というのがわたしの感想である。


彼は総合芸術を目指していて、この作品は音楽とダンスと言語(もちろんニーチェ)を舞台の上に載せた結果、だったようである。
プログラム、買えばよかった。


まずフランス語の無駄に多い台詞がワタクシには理解できず(笑)。外国公演の時は字幕でもつけるのだろうか。

ニーチェの思想を2時間の舞台芸術にしたため、シーンやダンスがやたらと細切れになり、前後の脈絡がない。

盛りだくさんが過ぎてフォーカスが弱い(宮崎作品にも言えることだが、ある種の芸術家は老いとともに、あれもこれもと欲張り始めるのか?それとも自分の言いたいことが分からなくなるのだろうか)。

だけならまだしも、底を流れるテーマが古くさい(それがlove, death and war)。人間のテーマは古今東西「生と死」、これに限るので、テーマが古くさいというより、その表現が古くさい、と言えばいいかしらん。

振り付けも、最後に世界中を旅するというコンセプトで、世界中のダンスが披露される場面なぞ、古典バレエのくるみや白鳥のフィナーレと同じやんか。


.....ベジャールに何を期待すればいいのか、と言う点が勉強不足だったのかもしれない。


今更、衰えた頭で「ツァラツストラかく語りき」を読み直す気力もないので、この新作のレヴューが出そろったらお勉強して、考え直すことにしよう。わたしが完全に間違えているというレビューがぜひとも読みたいものだ。



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