今週はエンカウンター、月例会と真カ研の行事が立て続け。
来週はと予定表に目をやると、エンカウンター(火)、ミニカン継続学習会(木)、ワークショップ(土・日)とさらに目白押し。
合間に面談や電話相談やメールでの相談など、なにかとカウンセリングについて味わうというか、身をゆだねると言うか、そういう流れに乗ってますね。
で、いろいろ書きたいことはあるのですが、まずは先日のエンカウンターグループのことを。
早いものでもう第4回となりました。
ゆったりとした流れの中で、それぞれが語る話に興味を惹かれたり、刺激を受けたり。
そうこうしているうちに、私の中でここ数週間くすぶっているある思いが膨らんできて、言葉にしたくなっていました。
私の祖母が3ヶ月前に入院したのですが、もう90を越える年齢なので見るたびに弱ってきているのがわかります。
3ヶ月前までは、耳こそ遠くなり、足腰が弱って歩くことが困難になってはいましたが、食べることは大好きで、ボーっとしながらもテレビを見たりしていました。
それが、食べることに意欲を示さなくなり、栄養・体力が不足していると言うので入院と言うことになりました。
おかげでと言うか、病院ですから点滴や流動などで栄養を取ることは出来、そういう意味での危険は回避されたのですが、ずっとベッドに寝たきりの生活は歩く意欲を奪い、食事をする意欲を奪い、徐々に周りへの反応も薄れてきました。
何度か見舞いにも行きますが、時々息を荒げたり、逆に静かにしていることが多く、耳元での呼びかけに反応はするものの、理解しているかどうかはどんどん怪しくなってきます。
そんな状況に対して、「認めたくない」と言う自分が居ることを味わうことがあり、先日の学習会などでもそのことは言葉にしていました。
今回のエンカウンターグループでの話題の流れで、「関係性を持つことが”生”ということだ」(うろ覚えなので正確な言葉ではありませんが)という言葉が話題になりました。
その言葉を聴いたときに、どんどん社会との、家族との、生活との関係が薄れて、ただ寝ているだけの状態になっている祖母にとって、今の状態を”生”と言えるのかどうか…という思いが、影のように現れ、やがて膨れ上がってきました。
私は漫画もけっこう好きなんですが、そういえば最近は「仁」や「ブラックジャックによろしく」とか、昔読んで本棚の片隅に追いやられていた「一生」など、医療にかかわる問題を扱ったものを無意識に選んで読んでいた気がします。
そういうものを読んだときに感じていたものも、影のひとつだったんでしょう。
エンカウンターグループではうまく言葉に出来なかったとは思いますが、特に結果も求めず、心の動くままに言葉にしてみました。
それだけでも一段落ではあるんですが、参加者のお一人が反応してくださった言葉に心が動かされました。
「そうやって、何かを考えさせるのも、おばあさんとあなたの”関係性”ではないんですか?」(これも正確な言葉はうろ覚えです)
一般的な生活と言う意味では、周囲との関係を持つことが出来なくなってきている祖母ですが、私や家族に「思わせる」というところで、関係が働いています。
よく「思い出の中に生きている」という言葉で、親しい人への損失感を慰める言葉がありますが、そういうものとはちょっと違います。
もちろん、私のためだけに祖母が存在して関係を持ってくれているなんて言うのは、とても驕った考え方なんですが、事実として私にとってのすべての関係性は(好む好まざるにかかわらず)縁として、私のために在り続けます。
一方ではそういった意味で。
他方では、やっぱり肌のぬくもりも感じ、時は荒く時には穏やかなその息遣いでもって、”生”を見せつける、生身の、私にとって大事な大事なおばあちゃんとして、そこに居てくれる。
そこにしっかりと関係がつながって居ることを、改めて気付かせてもらえました。
最近、祖母をなくされた方は、「うらやましい」と言ってくださいました。
生活との関係が薄れてきている祖母でも、まだそこに居てくれること。
今日は、夜の予定が何もないので、病院に会いに行こうと思ってます。
私にとってありのままで居られるエンカウンターグループで、自由にさせてもらったことで大きな気付きがありました。
皆様に感謝です。
来週はと予定表に目をやると、エンカウンター(火)、ミニカン継続学習会(木)、ワークショップ(土・日)とさらに目白押し。
合間に面談や電話相談やメールでの相談など、なにかとカウンセリングについて味わうというか、身をゆだねると言うか、そういう流れに乗ってますね。
で、いろいろ書きたいことはあるのですが、まずは先日のエンカウンターグループのことを。
早いものでもう第4回となりました。
ゆったりとした流れの中で、それぞれが語る話に興味を惹かれたり、刺激を受けたり。
そうこうしているうちに、私の中でここ数週間くすぶっているある思いが膨らんできて、言葉にしたくなっていました。
私の祖母が3ヶ月前に入院したのですが、もう90を越える年齢なので見るたびに弱ってきているのがわかります。
3ヶ月前までは、耳こそ遠くなり、足腰が弱って歩くことが困難になってはいましたが、食べることは大好きで、ボーっとしながらもテレビを見たりしていました。
それが、食べることに意欲を示さなくなり、栄養・体力が不足していると言うので入院と言うことになりました。
おかげでと言うか、病院ですから点滴や流動などで栄養を取ることは出来、そういう意味での危険は回避されたのですが、ずっとベッドに寝たきりの生活は歩く意欲を奪い、食事をする意欲を奪い、徐々に周りへの反応も薄れてきました。
何度か見舞いにも行きますが、時々息を荒げたり、逆に静かにしていることが多く、耳元での呼びかけに反応はするものの、理解しているかどうかはどんどん怪しくなってきます。
そんな状況に対して、「認めたくない」と言う自分が居ることを味わうことがあり、先日の学習会などでもそのことは言葉にしていました。
今回のエンカウンターグループでの話題の流れで、「関係性を持つことが”生”ということだ」(うろ覚えなので正確な言葉ではありませんが)という言葉が話題になりました。
その言葉を聴いたときに、どんどん社会との、家族との、生活との関係が薄れて、ただ寝ているだけの状態になっている祖母にとって、今の状態を”生”と言えるのかどうか…という思いが、影のように現れ、やがて膨れ上がってきました。
私は漫画もけっこう好きなんですが、そういえば最近は「仁」や「ブラックジャックによろしく」とか、昔読んで本棚の片隅に追いやられていた「一生」など、医療にかかわる問題を扱ったものを無意識に選んで読んでいた気がします。
そういうものを読んだときに感じていたものも、影のひとつだったんでしょう。
エンカウンターグループではうまく言葉に出来なかったとは思いますが、特に結果も求めず、心の動くままに言葉にしてみました。
それだけでも一段落ではあるんですが、参加者のお一人が反応してくださった言葉に心が動かされました。
「そうやって、何かを考えさせるのも、おばあさんとあなたの”関係性”ではないんですか?」(これも正確な言葉はうろ覚えです)
一般的な生活と言う意味では、周囲との関係を持つことが出来なくなってきている祖母ですが、私や家族に「思わせる」というところで、関係が働いています。
よく「思い出の中に生きている」という言葉で、親しい人への損失感を慰める言葉がありますが、そういうものとはちょっと違います。
もちろん、私のためだけに祖母が存在して関係を持ってくれているなんて言うのは、とても驕った考え方なんですが、事実として私にとってのすべての関係性は(好む好まざるにかかわらず)縁として、私のために在り続けます。
一方ではそういった意味で。
他方では、やっぱり肌のぬくもりも感じ、時は荒く時には穏やかなその息遣いでもって、”生”を見せつける、生身の、私にとって大事な大事なおばあちゃんとして、そこに居てくれる。
そこにしっかりと関係がつながって居ることを、改めて気付かせてもらえました。
最近、祖母をなくされた方は、「うらやましい」と言ってくださいました。
生活との関係が薄れてきている祖母でも、まだそこに居てくれること。
今日は、夜の予定が何もないので、病院に会いに行こうと思ってます。
私にとってありのままで居られるエンカウンターグループで、自由にさせてもらったことで大きな気付きがありました。
皆様に感謝です。
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