DPA研究会のワークショップ「非構成エンカウンターグループ」に参加してきました。
DPAとは「Dharma-based Person-centered Approach =仏法を根底にした人間尊重のアプローチ」ということで、カウンセリングの要となる「PCA Person-centered Approach」の関わりに、そこに居る一人一人が仏法によりつながっていることを大事にする場だと認識しています。
これは真宗カウンセリング研究会でも共通のことですね。
今回、DPA研究会さんでエンカウンターグループを立案された際に、ファシリテーターとして声をかけていただきました。
私自身はDPA研究会に所属していないのですが「外部の方の方が良い」ということで声をかけたいただいたようです。
そして、真宗カウンセリング研究会の方でDPAの理念は私なりに実践していますので、そう遠い人間でもないようでした。
普段世話人しているワークショップやグループは、その役割上参加者を把握していますが、今回は一部FB上で参加表明されている方以外は当日まで誰が来るか知らないままでした。
このPCA・「人間尊重のアプローチ」ということを考えたとき、その人の経歴・立場・思想・興味などは事前に知る必要はなく、今目の前に居るその人の「ありのままの姿」と触れ合うことが大事だと考えています。
もちろん、触れ合っていく中でその方の「持ちもの」は言動の中に現れてきますし、表に出てきた「今の姿」であるならば、その方がのぞむ「こう見て欲しい」という立場や状況なども受けとめさえてもらいます。
逆に、よく知っている方が参加されているとき、ある程度「知っている」ことがありますし、それを無いものとして関わるのは無理があります。
「その方を知っている私」というのは、その時点での「ありのままの私」ですから。
ただそのことを、当人が言葉にしないのに「この方はこういう経歴で」と私が代弁することは必要ありません。
他の参加者が、今目の前で触れる「その方の姿」であればいいのです。
そこに「Dharma-based =仏法を根底にした」が加わるとどうなるのか。
残念ながら提唱された西光先生にこのことを聞かせてもらう機会がありませんでした。
なので、法座や真宗カウンセリングで西光先生と触れ合ったところから感じている、高橋我流の考えだという前提で。
真宗カウンセリングだからとか、Dharma-basedだからということで、「仏法」「真宗」の話をしないといけないということはありません。
ただ、一緒に語り合っている中で、そのお一人お一人が根底に持っている「法との関わり」は放っておいてもにじみ出てきます。
それは真宗に限らず、いろいろな形で現れます。
「法座」となると、そこに「導き」というものも入ってくるかもしれませんが、一人一人のパーソンを大事にする場とすると、そこに「否定・批判」はなく、「あなたはそう受け取っているのですね」と受けとめあいます。
また、その方がまったく仏法にかかわりが無くとも、そこに居られること、ご縁があって同じ時間と場を共有していることだけで、私には「根底に流れる仏法でつながっている」と感じられます。
私にとっての仏縁ですね。
(それがキリスト教などであっても、私の仏法に刺激を与えてくだされば、私にとっての仏縁ですから)
次に「非構成エンカウンターグループ」という要素があります。
学術的に学んでいないので申し訳ないのですが、実践してきた中で私なりの「非構成エンカウンターグループ」感というものがあります。
聞くところによると、始まりも終わりもまったく「構成されない」ものもあるようです。
私はグループで場を共有するので、ちょっとした導入の区切りや、希望があれば自己紹介などガあっても良いと思ってます。
そして始まってしまえば、話題や進み方、姿勢や態度には縛りが無く「今あなたが話したいことを話ししたいように」と尊重することだけ大事にします。
複数の方がご一緒するので、話題についていけなかったり、気持ちが乗らなかったりすることもあるでしょう。
ただ、「今発言している」方を一番に大事にしたいことだけを芯にすえ、あとは流れに乗っていない思いでも出していける場を作ることを意識しています。
よく、参加する方が「自由にと言われると難しい」とおっしゃいます。
そのとおりだと思います。
ただ、その瞬間の「ありのままの私」が許されていることだけ感じていただければいいのかなと思っています。
そんな「非構成エンカウンターグループ」のファシリテーターはとても難しいものだと思っています。
「自由にしてくださってOKです」といいますが、放ったらかしにしているのはファシリテーターじゃありません。
いちいち言動を確認して交通整理するのも(そういうのもあるのでしょうが)違う感じがします。
もちろん、参加者ひとりひとりの安全を守るのは最低限の仕事ですが、「何が起こっても大丈夫」というところは誰よりも私自身が心得ておくべきことですね。
「放りっぱなしではないが、干渉はしない」というスタンス、それを無理して役割とするのではなく、そうあっても大丈夫な私で居ること。
これは今後も学びと実践の中で経験していくことだと思ってます。
と、昨日のワークショップだけでこれだけいろんなことを振り返れました。
当然、ワークでの話題の中身もいろいろありましたが、それはここで私が触れることではないですのでね。
DPA研究会に興味を持たれた方はこちらへ。
「DPA研究会」
DPA(仏法を根底にした人間尊重のアプローチ)のエンカウンター・ワークショップとの案内でしたので、どなたが参加されても「南無阿弥陀仏」に不快感を示される方がいらっしゃるとは思わずに御法の面から発言してしまいましたこと・・・
そしてこれを「不快」だと表明してくださった方がいらっしゃったことに、やはり自身を責めてしまう私がいましたが、いろいろな意味で勉強させていただき、思い切って参加させていただいて、良かったと思っております。
その他いろいろ(^^)v お世話をいただき、本当にありがとうございました。
自分を責めてしまう「白蓮華」さんがいたんですね。
でも、良かったと思ってくださってるようで、うれしいです。
仏法・南無阿弥陀仏って、時には抵抗したりわずらわしかったりすることもあるんですよね。
でも、そういう時も仏法は流れ込んできている。
そういう意味で、味わいを異にする方同士でも「根底に法を共有している」と言える気がしています。
また、ご一緒しましょう。