と、長々書いたのは前段で、ここからが本題
齢も50半ばを過ぎ、身体も病に蝕まれてくると、「死」が身近になってくる
いや、もともと「明日なき我が身」であって、いつ死が訪れてもおかしくないのだが、なかなかそうは思えないものが感覚的に「近づいてきた」となるのだ
では、その「死」とはなにか
私にその答えを与えてくれているのが浄土真宗の教えだ
といっても、これはあくまで私の「領解(りょうげ)」であるので、浄土真宗のなかでもいろんな側面で語られる
ましてや様々な宗教観があるなかで、この考えを押し付けるつもりもない
死生観の一つとして聞いてほしい
平均寿命ということを考えても、肉体的に衰えてくるのは明白で、実際衰えを感じる
「死」など考えずに「ポジティブに生きる」べきだ…という考え方もわかる
しかし、私は「死」は肉体的なもので、私の「本質」は肉体を離れ次のステージに移り行く
なので、死を恐れていない
ただ、その肉体の死によって、今生の関わりが尽きることには恐れを感じる
死ぬことに未練がないわけではない、未練はたらたらだ
死後の行く末が未知数ならば、その不安でいたたまれないだろう
が、私は「南無阿弥陀仏」との出会い、融合によって、その行く末がはっきりと知らされている
また、死は逃れることができず、誰にでも等しくやってくるということも認知している
なので、うろたえることなく、その日が来ることに覚悟を持っている
ではその行く末とは
地獄一定
「因果応報」と教えられた
私がこの肉体を維持するために多くの命を奪ってきた
それ以外にも、言葉や意識で相手を切り付け、殺してきた
「食べ物」という生き物はない、すべて「命」だ
恩師の忘れられない言葉だ
奪った命の分だけ、わが命が奪われていく世界
それを「地獄」と表す
ならば、私の行く末は地獄以外ない
もちろん地獄なぞ行きたくない
逃れるすべがあるなら縋りつきたい
宗教によっては、修業して罪を滅したり、祈りによって赦しを求めることもあるだろうと
「救われたい」という気持ちを人質に、宗教勧誘をビジネスにすることもある
(ひどいところでは、物品を売りつけて贖罪にするという胡散臭いものもある)
ただ、私は
因果の道理は逃れることができない
と聞いた
いまさらあがこうとも、すでに奪った命は帰ってこない
では、それでよいのか
私が阿弥陀様の願いに触れたときに、ひとつは
地獄行きでしかないわたし
という事実を受け入れることと同時に
そんなものを救うために立ち上がった阿弥陀様
という事実を受け入れた
こうして言葉にして表しているが、それは体験的なことであり、どちらが先とかあととかでもなく、どこが境目だとかでもなく、今の私は「受け入れた」状況であるとしか言えない
そのことが、「死」というものを受け入れる根底にある
できるだけそのことを他の人と共有する術のひとつに「お聖教」がある
この体験の先駆者であるお釈迦様の言葉、そして自己の体験を踏まえてそのお言葉を表してくださった親鸞聖人のお言葉
そこを頼りに語れば良いのだろうが、哀しいかな「言葉」に捉われてしまう方が多くある
私の知識技量ではそこを超えることはあきらめた
私の受け取ったものを「理解」するのが大事ではなく
私は受け取った…という事実だけが大事なのだから
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