昨日・本日と連れ合いの母方の伯父の通夜・葬儀があった。
私自身は何度かの面識はあるが、寡黙な方だったのであまり多くをお話した記憶がない。
なので、子どもの頃から世話になっている連れ合いや、親族の方ほど故人に思い入れはないのだが…
今日は火葬場までご一緒し、骨を拾うお手伝いもさせていただいた。
親族の方、思い入れのある方々は当然、お別れを惜しみさまざまな思いで骨を拾っておられただろう。
そんなとき、私はなぜか後ろの方に下がっていた。
その白骨をみるのが心苦しい。
目の前では淡々と骨の説明がなされていく。
そこにいるのは、学者として多くの功績を残してこられた方。
しかし、その骨は骨でしかない。
長年培ってきた知識もない
健康に留意していた身体もない
家族への思いもない
財産や功績も関係ない
寺に生まれて求めてきた法もない
浄土への願いもない生きているものが執着してきたものが何一つ残っていない
それが明日の、いやこの一刹那後の私の姿だ
残された家族には、思い出が残る
そういう形で引き継がれていくものもある
しかし、それは当人には一切関係ない
何のたしにも妨げにもならない私の存在は”無”と帰すのだ
その一方で、つくりとつくった”業”は迷い続けていく
自分ではわからぬ世界だが…
それをわかろうと思う気持ちや
なんとかしたいという気持ちも
骨になった身には関係ない
もおうその時点で迷っているだけだ無常と罪悪
知ろうとして知れるものじゃないし
知識やこだわりは積み重ねても全部置いていかねばならないただ骨となって横たわっているのが私だ
「さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(御文章五帖目十六通)
南無阿弥陀仏
「生きているものが執着してきたものが何一つ残っていない・・・一刹那後の私の姿だ」は、まさに何度も何度も、耳にたこができるほどに、叫びノタウチまわるほどに聞かせていただいてたことであるけど、こたえるね。南無阿弥陀仏
ほんと、こたえますね。
今日は華光の成道会でした。
座談会でもう一度この話題を話しできる機会があり、またまた深まってきました。
そのことをブログに書きたいんですけど、今日はこれから関東まで車で移動しますので、また改めて。
では行ってきます。