コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

夕には白骨となれる身なり

2008-12-13 02:11:15 | 真宗

昨日・本日と連れ合いの母方の伯父の通夜・葬儀があった。
私自身は何度かの面識はあるが、寡黙な方だったのであまり多くをお話した記憶がない。
なので、子どもの頃から世話になっている連れ合いや、親族の方ほど故人に思い入れはないのだが…

今日は火葬場までご一緒し、骨を拾うお手伝いもさせていただいた。
親族の方、思い入れのある方々は当然、お別れを惜しみさまざまな思いで骨を拾っておられただろう。
そんなとき、私はなぜか後ろの方に下がっていた。
その白骨をみるのが心苦しい。

目の前では淡々と骨の説明がなされていく。
そこにいるのは、学者として多くの功績を残してこられた方。
しかし、その骨は骨でしかない。

 

長年培ってきた知識もない
健康に留意していた身体もない
家族への思いもない
財産や功績も関係ない
寺に生まれて求めてきた法もない
浄土への願いもない

生きているものが執着してきたものが何一つ残っていない

それが明日の、いやこの一刹那後の私の姿だ

残された家族には、思い出が残る
そういう形で引き継がれていくものもある
しかし、それは当人には一切関係ない
何のたしにも妨げにもならない

私の存在は”無”と帰すのだ

その一方で、つくりとつくった”業”は迷い続けていく
自分ではわからぬ世界だが…
それをわかろうと思う気持ちや
なんとかしたいという気持ちも
骨になった身には関係ない
もおうその時点で迷っているだけだ

無常と罪悪
知ろうとして知れるものじゃないし
知識やこだわりは積み重ねても全部置いていかねばならない

ただ骨となって横たわっているのが私だ


「さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(御文章五帖目十六通)

南無阿弥陀仏



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2 コメント

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南無阿弥陀仏 ()
2008-12-13 11:44:20
こんにちは。尊いご教示ありがとうございました。だれあろうこの“わたし”の姿です。
「生きているものが執着してきたものが何一つ残っていない・・・一刹那後の私の姿だ」は、まさに何度も何度も、耳にたこができるほどに、叫びノタウチまわるほどに聞かせていただいてたことであるけど、こたえるね。南無阿弥陀仏

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re:南無阿弥陀仏 (MANU.)
2008-12-14 23:29:35
「稜」さん、どーもです。
ほんと、こたえますね。

今日は華光の成道会でした。
座談会でもう一度この話題を話しできる機会があり、またまた深まってきました。
そのことをブログに書きたいんですけど、今日はこれから関東まで車で移動しますので、また改めて。

では行ってきます。
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