昨日の続きで、今日は「気付き」のことを書きます。
まず、「稜季の父ちゃん」さんが問いかけられたところの
>「気づいていなかった気持ちに気づく」は、とても素敵なことであり、
>それが「気づき」と思うのですが
とかかれてますが、私もそういう意味で書いていると思います。
じゃあ、
>次の自発的行動を促すようなねらいはあるのですか?
と言われるとちょっと私自身振り返ってみる必要がありそうです。
ミニカンを初めて最初に驚いたのが、自分では話そうと思ってなかったことが、気がついたら流れの中で話していた自分を感じたときです。これは「意識してはいたが隠していた」ものが引き出された感じです。もちろん引き出すと言っても、聞き手が質問したり指示したりして動いたのではなく、聞いてもらってるのが心地よいときに気持ちが緩んで出てきた感じでしょうか。言い換えれば、相手や場を信頼せずに守ろうとしていた気持ちが、聞いてもらってるうちに”信頼感”を得て守ろうとする気持ちがなくなっていた感じでしょうか。
次に、「自分でも気付いていなかった、奥底にある気持ち」が湧き出てくる体験をしました。先の「意識してはいたが隠していた」ものは、解決できるかどうかは別として、まだ自分で処理できるもの、気の持ちようで横において置けるものでしょうが、「奥底にある気持ち」はもうどうしようもなくて、他の気持ちに置き換えてしまって無いものとしていることが多いと思います。これを自分で受け止めるには、まず信頼はもちろんのこと、自分で発する言葉を自分で受け止めることで「問題を抱えたままの今の自分で居られる」という落ち着きと言おうか腹の据わりといおうか、そういう境地が必要だと思います。その「自分で発した言葉を自分で受け止める」援助が、聞き手の感情に対するレスでしょう。
ところが、この「気付き」はその時点では「気付ききれない」というか、一瞬のものというか、せっかくのものをそのまま話の流れで次の感情にまぎれてしまうことがあります。もちろん奥底に流れているものですから、話の内容が変わっても何らかの形で顔を出してきます。逆に、奥底のことを受け止めて欲しくても、表に出てくる感情だけレスされただけだと「言い切れない」感じが残り、違う言葉を捜して揺れていきます。実際はその部分部分を押さえてもらうだけでも「気付き」につながるのですが、話し手も混迷してその時の気持ちをポンポン出すしかないときに、その奥底に流れているものを捉えてレスしてもらうと、もう余計なものは必要なくなり、「ああ、そういうことだったんだ」と。自分の根底を大事にしてもらえた感じをもらい、自分自身もその根底を大事に受け止めることが出来る気がします。
問題の解決と言うことではないのですが、「問題を持っている自分」をハッキリさせて、それを受け止めることで、ちょっと違った問題との付き合い方が出来るきっかけになる気がします。
こんな感じで伝わりますでしょうか。
しかし、コメントで書かれていましたが、家族との関わりというのはまた独特のものがありますね。問題の当事者になることもあるので、どうしても解決を求めてしまったり、助言をしてしまったり、「話し手主体」に徹することが難しいですね。「この30分は聞き手に徹する」と切り替えて臨めば多少は聞けるかもしれませんが、普段の生活の流れで話を聞きだすときにそういう切り替えは…難しいです。私としては、もっと体験することで意識しないでも「聞き手の態度」が身につけば…と望んでいます。
まず、「稜季の父ちゃん」さんが問いかけられたところの
>「気づいていなかった気持ちに気づく」は、とても素敵なことであり、
>それが「気づき」と思うのですが
とかかれてますが、私もそういう意味で書いていると思います。
じゃあ、
>次の自発的行動を促すようなねらいはあるのですか?
と言われるとちょっと私自身振り返ってみる必要がありそうです。
ミニカンを初めて最初に驚いたのが、自分では話そうと思ってなかったことが、気がついたら流れの中で話していた自分を感じたときです。これは「意識してはいたが隠していた」ものが引き出された感じです。もちろん引き出すと言っても、聞き手が質問したり指示したりして動いたのではなく、聞いてもらってるのが心地よいときに気持ちが緩んで出てきた感じでしょうか。言い換えれば、相手や場を信頼せずに守ろうとしていた気持ちが、聞いてもらってるうちに”信頼感”を得て守ろうとする気持ちがなくなっていた感じでしょうか。
次に、「自分でも気付いていなかった、奥底にある気持ち」が湧き出てくる体験をしました。先の「意識してはいたが隠していた」ものは、解決できるかどうかは別として、まだ自分で処理できるもの、気の持ちようで横において置けるものでしょうが、「奥底にある気持ち」はもうどうしようもなくて、他の気持ちに置き換えてしまって無いものとしていることが多いと思います。これを自分で受け止めるには、まず信頼はもちろんのこと、自分で発する言葉を自分で受け止めることで「問題を抱えたままの今の自分で居られる」という落ち着きと言おうか腹の据わりといおうか、そういう境地が必要だと思います。その「自分で発した言葉を自分で受け止める」援助が、聞き手の感情に対するレスでしょう。
ところが、この「気付き」はその時点では「気付ききれない」というか、一瞬のものというか、せっかくのものをそのまま話の流れで次の感情にまぎれてしまうことがあります。もちろん奥底に流れているものですから、話の内容が変わっても何らかの形で顔を出してきます。逆に、奥底のことを受け止めて欲しくても、表に出てくる感情だけレスされただけだと「言い切れない」感じが残り、違う言葉を捜して揺れていきます。実際はその部分部分を押さえてもらうだけでも「気付き」につながるのですが、話し手も混迷してその時の気持ちをポンポン出すしかないときに、その奥底に流れているものを捉えてレスしてもらうと、もう余計なものは必要なくなり、「ああ、そういうことだったんだ」と。自分の根底を大事にしてもらえた感じをもらい、自分自身もその根底を大事に受け止めることが出来る気がします。
問題の解決と言うことではないのですが、「問題を持っている自分」をハッキリさせて、それを受け止めることで、ちょっと違った問題との付き合い方が出来るきっかけになる気がします。
こんな感じで伝わりますでしょうか。
しかし、コメントで書かれていましたが、家族との関わりというのはまた独特のものがありますね。問題の当事者になることもあるので、どうしても解決を求めてしまったり、助言をしてしまったり、「話し手主体」に徹することが難しいですね。「この30分は聞き手に徹する」と切り替えて臨めば多少は聞けるかもしれませんが、普段の生活の流れで話を聞きだすときにそういう切り替えは…難しいです。私としては、もっと体験することで意識しないでも「聞き手の態度」が身につけば…と望んでいます。
お話の中のこのことば好きです。私にはできないことですが、とても大切に思います。
「~奥底に流れているものを捉えてレスしてもらうと、もう余計なものは必要なくなり、「ああ、そういうことだったんだ」と。自分の根底を大事にしてもらえた感じをもらい、自分自身もその根底を大事に受け止めることが出来る気がします」
梅雨に入りますね。時に雨はロマンチックで、時に雨は腹立たしくて、時に雨は嬉しくて、時に雨は悲しくて、すべて私の思い次第ですもんね。でも、今日の雨は、早く紫陽花に輝く雨粒を見たい素敵な心もちの朝です。夕方には、渋滞に巻き込まれ憂鬱な雨に変わってるかもしれませんが・・・。今のこの思いを、今生かされている思いを素直に喜ばせていただきます。ありがとうございました。
京都も梅雨入りしましたが、今日はお天気です。ちょっと蒸し暑いですけどね。
今日から支部長研修会。そして来週火曜日はまたカウンセリング研修会。ちょっとそれまで書き込みが滞るかもしれませんが、私の”感じ”でよければまた書かせていただきます。
ごめんなさい「Unkown」の書き込みは私です。
出発前に慌ててコメントのお礼だけでもと書き込んだんですが、コメントだけ書いて名前やタイトルを打ち込まずに送信してしまいました。
支部長研修会、今年も良いご縁でした。
さまざまな問題点も表出してきますが、潜在のままごまかすのでなく、まず表に出して押さえておく事が大事な気がします。解決できるかどうかはまた別の問題として。
私自身、この一年でカウンセリングを通じて学んだこと、カウンセリングと思わずに既に育ててもらっていたこと、新たに目の前に現れてきたさまざまなこと、それらを受け止めて、一つ動いてみたい気持ちが出てきています。まだ思い付きなんで、このままだと空回りしそうですが、7月の京都支部法座で私の時間をいただいていますので、それまでに熟成させて形にしてみたいとおもいます。
こうして書いておくと忘れないですし、後に引けませんしね(笑)
MANUさんの行動力には敬服します。また、ことばの一つひとつを大切にされていることには、見習うべき点が多く、活きた教材として使わせていただいております。今日、カウンセリングに関するサイトを覗いてたら、「カウンセラーは、いま、ここにある人を、あるがままに受容する」とありました。また、「受容とは、支配欲・所有欲・操作欲・指示欲・教示欲などの欲から離れた愛」ともありました。仏さんのことやなと思いました。そして、MANUさんが教えてくれた「レス」が、相手の心を開くのに深く関わることを再認識しました。ありがとうございます。私にはできる所作でないので、真似事でも意識できればと思っています。今後ともよろしくお願いします。