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「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

義父の還浄

2013-01-20 23:32:34 | 真宗

1週間前の日曜早朝、連れ合いのお父様が死去された。
タイトルの「還浄」というのは、「お浄土へ還られた」という意味を込めて。

義父、池永文雄は新潟の雪深い山村の寺で生まれ育ち、学生時代から京都で生活されていた。
なので連れ合いは京都生まれ京都育ち。
今はご両親とも新潟の寺で暮らされていたので、一応新潟へ寄せていただくときは「連れ合いの実家へ帰る」という言い方をしているが。

義父は寺の住職であるということと、京都在住のときはK会で先生もされていたということもあり、連れ合いも浄土真宗の教えの中で育った。
私は、連れ合いと知り合いお付き合いする中で「お義父さんに認めてもらう」ために仏法を聞き始めた。 
そうさかのぼると、お義父さんの存在がなければ私は浄土真宗と向き合うことはなかった。

きっかけはいろいろ複雑なものもあったが、K会に出入りするようになり、不純な動機ながらも諸先生方のお話を聞かせていただくことで、いつしか「認めてもらう」ということから「自分自身の後生の問題」へと移っていった。
思い返せば、それまでは「聞かせてください」などといいながら、何も聞こうとはしていなかった。
しかし、お義父さんとの関係がなければ、そこにまでいたっていないのだから、お義父さんはまさしく「お浄土より人間の姿で現れ私を導いてくださった」仏様であった。
なので、一仕事終えて、人間の身としての役割を終えられ、お浄土へと戻っていかれたのだ。

お義父さんとのエピソードはいろいろあるが、一番私にインパクトを与えているのはお子さん方につけられたお名前。
連れ合いは長女で「利華」これは「蓮華」でもある。
そして二人の息子さんには「至」と「得」
合わせて「得至蓮華」はお正信偈の一節だ。

もちろん、そんな表面的なものだけではなく、お義父さんの好きなお酒をご一緒しながら、真宗やカウンセリングのいろいろなお話を聞かせていただいた。

今年の正月も新潟で過ごさせていただき、京都へ戻る日に偶然30分ほど二人だけになる時間があった。 
最初に「K会はどうなってる?」という問いこそあったが、あとはずっと私の話を聞いてくださる。
私自身の最近の心境を話しても、否定も意見もされず、ずっとニコニコと。
カウンセリングマインドを持ちながら、おおらかに受け入れてもらう感覚。
私が目指そうとしている、「人間的にカウンセリングマインドで受け入れながら仏法のことを語る」姿がそこにはあった。

悲報を聞き、新潟で出会ったお義父さんの表情は、そのときと同じ柔和なものだった。
憂いも感じさせず、悼みも感じさせず、そこに居られた。
そのことがまだ”別れ”を迎えたことを実感させない。

少し落ち着いたら、お義父さんにまつわるいくつかの話もアップしていけるだろうけど… 

 


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