10年位前の本に「大学は社会人になるための予備校」なんてことが書かれていた。
見た瞬間「暴言!」と思ったが、そう思うのは私だけだろうか?
今、私自身、「社会人をしながら」「大学に通っている」のだが、当時は、大学→社会人というルートしかなかったんだろうか・・・
大学⇔社会人というようなルートも考えられるし、社会人→大学→社会人というルートを経た人も少なからずいる。
以前も書いたことだが、大学の、たった4年間のしみったれた学習で、その後の人生約40年を維持するだけの知識は習得できない。
ましてや、ドッグイヤーといわれるような、新しい知識や技術が日進月歩で進歩する時代においては、常に脳みそを新しい状態にメンテナンスしておかなければついていけない。
ナレッジやスキルの陳腐化が非常に激しい時代だからこそ、維持するために、大学も含めたリカレント教育を受けなければならないのではないか?
学校に行く必要はないし、読書や、メディアから知識を吸収することは十分可能である。しかし、その知識の習得が独善的にならないために、系統的に学習できる「大学」を選択することは、よいことだと思う。
問題意識を持って大学入学への決心をすること自体、非常に賞賛することであるが、人間不思議なもので、大学に身をおくと、単位だ、評価だ、卒業要件だと、目先のことに、意識が流れがちになる。確かに、それも、モチベーションを維持する意味で大切だし、せっかく学習すなら、成果を形に変えておきたい。
しかし、当初入学した目的を忘れてしまうと、自分の「学習目的の柱」が失われてしまうことになりかねない。「学習目的の柱」が失われてしまうと、「自分はなんのために学習しているんだろう」とか「単位が取れないのは自分が至らないからだ」とか「何でこんなに評価が低いんだろう」等の、「迷い」や「恐怖」や「猜疑心」に怯えることとなる。
「学士」が目的なら、放送大学や学位授与機構で「学士」を取る方法もあるし、「単位」が目的なら、
科目履修生を受けいれる大学は何百とある。「勉強」が目的なら、社会人向け通信教育もあるし、「学生であること」を目的とするなら、そもそも、悩むことともないであろう。(学生であり続けることが必要な人も結構いることを最近になって知りました・・・)
「当初入学した目的」を自分の学習の信念=柱として、更なる学習にいそしみたい。