そろそろ、本格的に動き始めないとやばいのだが・・・
モチベーションが沸き起こってこない。少なくとも、あとは書き始めればいいのだが、すべてにおいてキャパオーバーのためフリーズしてしまっている。
やらない限り成長なし。
やらない限り成果なし。
やらない限り実績なし。
やらない限り動きなし。
そういう、「何もやらない」サラリーマンから乖離するために、わざわざ授業料を払って社会人学生をやり続けているのだが、なんか、もう、手につかないというか、何もやりたくないというか・・・
人生、何もやらなくても、十分、死に行くことができる。神様か、仏様か、自然の摂理か・・・何様のお導きかわからぬが、人間も、その他の動植物も、すべて死に向かって進んでいくよう、プログラムされている。事故や災害で、突如として命を落とすこともある。そんな場合、悲嘆のプロセスから脱却するのは困難である。しかし、そんな悲嘆の中にあっても、無慈悲にも、死のプログラムは発動されており、私も、私の周りの人々も、いや、世界中すべての人々が、一秒一秒、死に向かって突き進んでいく。
天国なのか、極楽浄土なのか、その場所が本当にあるのかわからない。知らないのに、「絶対に死後の世界はあります」なんて言ってしまうと「エセ宗教」となるのだろう。しかし、絶対ないとも言い切れない。
死に直面した人々は悲嘆に暮れる。しかし、その悲嘆の中から回復し、人生を歩み始める。その死に直面した瞬間から、悲嘆の回復までの過程は学問的に研究されており、「悲嘆のプロセス」といわれている。
「悲嘆のプロセス」の推移についてであるが、「パークス」の心理社会的推移によれば、「心の麻痺の段階」「「切望の段階」「混乱と絶望の段階」「回復の段階」という4つの段階より構成される。
あるいは「デーケン」は、「精神的打撃と麻痺の状態」「否認」「パニック」「怒りと不当感」「敵意とルサンチマン(うらみ)」「罪意識」「空想形成、幻想」「孤独感と抑鬱」「精神的混乱とアパシー(無関心)」「あきらめ-受容」「新しい希望-ユーモアと笑いの再発見」「立ち直りの段階-新しいアイデンティティの誕生」の12段階の構成を考えている。
死はつらい。でも、その死にとらわれ続けていては、愛しい人も、自分の死を嘆き悲しみ、うかばれることはないだろう。だからこそ、残された人は、悲嘆から回復し、その死を背負っていかなければならない。そして、天国や極楽浄土で再会するときに、いかに自分が活き活きと人生を歩んできたか証明する義務があると思っている。
でも、一体、活き活きと人生を歩むということはどういうことなんだろう。仕事を一生懸命やって実績を残すことも、一つの自己実現であり、活き活きとした人生だと思う。しかし、なかなか、仕事で自己実現することは難しい。労働は苦役と言う考えは根強いし、リストラや、名ばかり管理職、あるいはうつ病や自殺等、仕事により自分を見失う人も多い。そんな状況では活き活きとした人生は送れないだろう。
だから、「仕事以外の趣味やライフワークを持とう」と言われることが多い。うつ病防止にも趣味は有効である。なんでもいい。何でも取り組めば、それが「生涯学習」なのであるから。そもそも、生涯学習は活き活きとした人生を送るためのものであり、その守備範囲は非常に広い(狭義の生涯学習を除く)。
私も、あの世に行っても笑いが取れるように、一生懸命、学習の分野で「持ちネタ」を増やしているのだが、やはり、ちょっと飛ばしすぎだったのかもしれない。ここに来て、学びが続かないジレンマに苛まれている。
とはいえ、今、この瞬間を生かされている以上、生き延びている人としての義務を果たさねばならない。後ろ向きに、何もしないのは命の無駄遣いである。いかなる理由があろうとも、命を無駄遣いにはできないはずだ。それが、生き延びている人間の、行き続けている理由であるはずだから。
モチベーションが沸き起こってこない。少なくとも、あとは書き始めればいいのだが、すべてにおいてキャパオーバーのためフリーズしてしまっている。
やらない限り成長なし。
やらない限り成果なし。
やらない限り実績なし。
やらない限り動きなし。
そういう、「何もやらない」サラリーマンから乖離するために、わざわざ授業料を払って社会人学生をやり続けているのだが、なんか、もう、手につかないというか、何もやりたくないというか・・・
人生、何もやらなくても、十分、死に行くことができる。神様か、仏様か、自然の摂理か・・・何様のお導きかわからぬが、人間も、その他の動植物も、すべて死に向かって進んでいくよう、プログラムされている。事故や災害で、突如として命を落とすこともある。そんな場合、悲嘆のプロセスから脱却するのは困難である。しかし、そんな悲嘆の中にあっても、無慈悲にも、死のプログラムは発動されており、私も、私の周りの人々も、いや、世界中すべての人々が、一秒一秒、死に向かって突き進んでいく。
天国なのか、極楽浄土なのか、その場所が本当にあるのかわからない。知らないのに、「絶対に死後の世界はあります」なんて言ってしまうと「エセ宗教」となるのだろう。しかし、絶対ないとも言い切れない。
死に直面した人々は悲嘆に暮れる。しかし、その悲嘆の中から回復し、人生を歩み始める。その死に直面した瞬間から、悲嘆の回復までの過程は学問的に研究されており、「悲嘆のプロセス」といわれている。
「悲嘆のプロセス」の推移についてであるが、「パークス」の心理社会的推移によれば、「心の麻痺の段階」「「切望の段階」「混乱と絶望の段階」「回復の段階」という4つの段階より構成される。
あるいは「デーケン」は、「精神的打撃と麻痺の状態」「否認」「パニック」「怒りと不当感」「敵意とルサンチマン(うらみ)」「罪意識」「空想形成、幻想」「孤独感と抑鬱」「精神的混乱とアパシー(無関心)」「あきらめ-受容」「新しい希望-ユーモアと笑いの再発見」「立ち直りの段階-新しいアイデンティティの誕生」の12段階の構成を考えている。
死はつらい。でも、その死にとらわれ続けていては、愛しい人も、自分の死を嘆き悲しみ、うかばれることはないだろう。だからこそ、残された人は、悲嘆から回復し、その死を背負っていかなければならない。そして、天国や極楽浄土で再会するときに、いかに自分が活き活きと人生を歩んできたか証明する義務があると思っている。
でも、一体、活き活きと人生を歩むということはどういうことなんだろう。仕事を一生懸命やって実績を残すことも、一つの自己実現であり、活き活きとした人生だと思う。しかし、なかなか、仕事で自己実現することは難しい。労働は苦役と言う考えは根強いし、リストラや、名ばかり管理職、あるいはうつ病や自殺等、仕事により自分を見失う人も多い。そんな状況では活き活きとした人生は送れないだろう。
だから、「仕事以外の趣味やライフワークを持とう」と言われることが多い。うつ病防止にも趣味は有効である。なんでもいい。何でも取り組めば、それが「生涯学習」なのであるから。そもそも、生涯学習は活き活きとした人生を送るためのものであり、その守備範囲は非常に広い(狭義の生涯学習を除く)。
私も、あの世に行っても笑いが取れるように、一生懸命、学習の分野で「持ちネタ」を増やしているのだが、やはり、ちょっと飛ばしすぎだったのかもしれない。ここに来て、学びが続かないジレンマに苛まれている。
とはいえ、今、この瞬間を生かされている以上、生き延びている人としての義務を果たさねばならない。後ろ向きに、何もしないのは命の無駄遣いである。いかなる理由があろうとも、命を無駄遣いにはできないはずだ。それが、生き延びている人間の、行き続けている理由であるはずだから。