新型コロナにより、「不要不急の外出」等が制約され、日々の行動すら思い通りにならない今日この頃。
「金さえあればなんでもできる」といった風潮もあったが、マスク一つすら自由にならない。無論、マスクはお金を出せばなんとかなりそうなのだが、近所の薬局も、スーパーも、「マスク品切れ」「入荷時期未定」の張り紙がずっ~と貼られているし、朝出勤時の薬局でのマスクを求める行列はなくなりゃしない。
行きたいデパートも、商業施設も閉まっている。ディズニーも、西武遊園地も休園中。図書館も閉まっているし、学校も休校しちゃった。多くのイベントも中止、花見の宴会もダメだって・・・
普段から、普通に、日常や、季節の、当然のようにやっていた、なんともないことが、何もできない不幸。
いや、それって「不幸」なのか?否、「不幸」ではない。というより、あまりに当たり前すぎたので、あるいは当然のように過ごしてきたので、今までの「幸せ」に気づかなかっただけなのだ。
「幸せ」も続けば「日常」になる。ちょっとニュアンスは違うかもしれないが、我々の日常は「ハレ」の日が続いていたような感じ?なのかもしれない。本来なら、「ハレ」の日だけではなく「ケ」の日もあるのに、「御馳走を食べたり」「きれいな衣装を着飾ったり」「夜遅くまで騒いだり」「旅行に行ったり」・・・本当、うれしかったり、楽しかったりと、「幸せ」な時間を過ごしてきた。
特に、我が国では長期間「戦争」もなければ「飢餓」もない。「クーデター」もなければ「徴兵制」もない。基本的には「人身売買」もなければ「民族間抗争」もない。それでいて、経済的にはトップ水準の競争力を持ち合わせている。識者や隣国には「日本は平和ボケ」と言う人もいる。そう、世界的に比較しても、歴史的に比較しても、戦後の日本は平和だったと思えて仕方がない。
物が余って仕方がない。近藤麻理恵氏の「人生がときめく片づけの魔法」がベストセラーになる国。あるいは「廃棄ロス」が問題になる国。回転寿司が大好きな国民で、そこかしこに回転寿司店があるが、回り続けて、乾燥して、捨てられるお寿司を思うと、アフリカの飢餓で飢えている子ども達に申し訳なくて仕方がない。
で、今、コロナによる「不幸」が押し寄せた結果、国民は動揺し、買い占めに走り、あるいは不幸から目を背けるよう自粛を無視し、「マスクをよこせ」と店員を恫喝したり、「コロナをうつしてやるぞ!」という輩まで出る始末・・・不幸に慣れていないためか、自分の権利や、わがままだけを押し通そうとする。それが満たされないと、自分自身のみが不幸から攻撃されていると勘違いし、周囲に被害をまき散らす・・・クレーマー、モンスター以上の、「害毒」としかいいようがない人々が増殖し始めている。
そう考えると、なんて今までは幸せだったのだろう・・・と思ってしまう。お釈迦様の時代より、「一切皆苦」の言葉の通り、苦しいことばかりが人生のはずなのに、貴族のように美食を極め、きれいに着飾り、夜でも明るく、冬でも暖かく、夏でも涼しく、季節に関わらず食べ物が手に入り、水が簡単に手に入り、適切な医療が受けられる。そんな幸せな国日本が、新型コロナの影響で混乱している。
どう足掻いたって、一朝一夕ではコロナの災禍はおさまらない。なら、このタイミングで今での幸せを振り返って、少々不便で制約のある日常を受け入れる決心をした方がいいのではないか・・・と思うのですが如何?