まず、名古屋には4日間いることとなりまして、その間ホテル住まいとなります。
で、ホテルで朝食をとるのですが、内容は以下の通りとなっております。
「ご飯バイキング」ということなのですが、海外旅行や国内旅行と違い、引継ぎのための出張ですので、そんな身動きが取れなくなるほど、食べつくすわけにはいきません。とりあえず、こんな感じでバイキングです。
今まで気が付かなかったのですが、「きしめん」(上の画像の左下)が非常に美味です。大阪でも東京でも、「きしめん」は意図的に避けていたのですが、「味噌」とともに、名古屋の食文化の深さには驚かされます。
1月26日、名古屋に発つこととなりました。
国分寺発、4時53分の中央線、そして東京6時発の「のぞみ1号」に乗って名古屋に向かいました。思い返せば、久しぶりの新幹線。不安な気持ちも多々ありますが、ワクワクした気持ちがあるのも事実。家族と別れて暮らすのは悲しいことなのですが、宮仕えをしている以上、単身赴任をすることもあり得る話です。誰かが行かなければいけないなら、私が行くことも受け入れなければなりません。
以前の私なら、「愛別離苦」の中、苦しんでいたはずですが、仏教学を学んだ、今の私にとっては「諸行無常」の理(ことわり)として、受け入れることができると感じています。
うすうす感じておられた方も多いと思いますが、休みが明けて出社すると「転勤」が待ち構えておりました。
で、転勤先は・・・名古屋!明日、始発の「のぞみ」で名古屋に行って引継ぎです。ということで、当面、ブログは更新できないと思いますが、引継ぎが終われば一旦戻ってきますので、その際、まとめて更新したいと思います。
それでは、明日は早いので、準備が完了次第、就寝したいと思います。おやすみなさい。
で、転勤先は・・・名古屋!明日、始発の「のぞみ」で名古屋に行って引継ぎです。ということで、当面、ブログは更新できないと思いますが、引継ぎが終われば一旦戻ってきますので、その際、まとめて更新したいと思います。
それでは、明日は早いので、準備が完了次第、就寝したいと思います。おやすみなさい。
最後のお休みは車の整備に。
まず、長男を連れてガソリンスタンドへ。セルフの給油の方法を教えました。午後からは車のリコール。例の「エアバッグ」のリコールです。ついでに、車の6ヶ月点検も。困ったことに、車のリコールは1回では済まないらしく、もう一度、車を納車しないといけません。どうしたらよいのか・・・
まあ仕方ありません。一応、車の整備は終わったので、あとは明日を待つのみです。
まず、長男を連れてガソリンスタンドへ。セルフの給油の方法を教えました。午後からは車のリコール。例の「エアバッグ」のリコールです。ついでに、車の6ヶ月点検も。困ったことに、車のリコールは1回では済まないらしく、もう一度、車を納車しないといけません。どうしたらよいのか・・・
まあ仕方ありません。一応、車の整備は終わったので、あとは明日を待つのみです。
ようやく、武蔵野大学大学院の口頭試問用のPPTを作成し始めました。
9日間もあったにもかかわらず、最終日の午後に入ってから作成をスタートするとは・・・やはり、「ものぐさ太郎」たる所以でしょう。生涯学習を標榜するブログをやっていても、正直、本人は生涯学習に命を懸けているわけでもなく、実は、ゴロゴロしているのが大好き!勉強が好きで好きでたまらないという人が極々少ないのと同様、生涯学習が好きで好きでたまらないっていう人も、それほど多くはないんじゃないかな?
そんな時、思い起こすのは歎異抄における親鸞聖人の尊いお言葉。
歎異抄第9条
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。
なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。
すなわち・・・
「念仏を申していますが、喜びの心は薄く、天におどり地におどるほどの喜びの心が湧いてまいりませんし、また急いで浄土へまいりたいと思う心が起こってこないのはどういうわけでしょうか」とおたずね申しあげたところ、聖人は、「親鸞もそれをいぶかしく思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は一定の身であると思います。というのは、喜ぶべき尊いおみのりをいただいて、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざです。しかるに仏は、このような私であることをかねてからお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫を救うとおおせられていることですから、他力の悲願は、このように浅ましいわたしどものためであったと気づかされて、ますますたのもしく思われます。
「念仏」を「生涯学習」と読み替えていただければ、今の私の心をご理解いただけると思います。生涯学習をしても、「踊躍歓喜」の心になれるわけがない。そう、そもそも、煩悩まみれの我々にとって、生涯学習とは、事実として非常に苦しいものなのですから。逆に、苦しくなければ学んでいないのかもしれません。自分の好きな学びにだけ取り組んで、嫌なことから目をそらしているのでは・・・と思います。
しかし、苦しいからこそ、学びの中に「光」があり、その「光」こそが、人が人として生きるための「智慧」だと感じてます。真宗門徒が「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、私が唱えているわけではなく、阿弥陀仏の力により「南無阿弥陀仏」と言わざるを得なくなるのと同様、生涯学習に救いを求めるものは、既に、生涯学習の智慧の光を感じ取っているわけです。
既に、生涯学習は等しく、すべての人々に寄り添っているのですが、それを感じ取れる人だけが、生涯学習に身を投じることが可能といえるのでしょう。なんせ、学びは人類の叡智。これを失えば、人は人ではなく、猿に逆戻りしてしまうわけですから。よく書きますが、すべての人が「生涯学習」から離脱し、学びを停止してしまうと、わずか100年程度で、我々は、人から猿になってしまうのです。教えあうことができるから人であり、その学習を伝えることができるからこそ猿ではなく人なのです。本当に不思議ですね。
阿弥陀仏は常に智慧光を降り注いでいると言われます。そのことを、ちょっと、生涯学習に組み合わせて述べてみました。
9日間もあったにもかかわらず、最終日の午後に入ってから作成をスタートするとは・・・やはり、「ものぐさ太郎」たる所以でしょう。生涯学習を標榜するブログをやっていても、正直、本人は生涯学習に命を懸けているわけでもなく、実は、ゴロゴロしているのが大好き!勉強が好きで好きでたまらないという人が極々少ないのと同様、生涯学習が好きで好きでたまらないっていう人も、それほど多くはないんじゃないかな?
そんな時、思い起こすのは歎異抄における親鸞聖人の尊いお言葉。
歎異抄第9条
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。
なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。
すなわち・・・
「念仏を申していますが、喜びの心は薄く、天におどり地におどるほどの喜びの心が湧いてまいりませんし、また急いで浄土へまいりたいと思う心が起こってこないのはどういうわけでしょうか」とおたずね申しあげたところ、聖人は、「親鸞もそれをいぶかしく思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、いよいよ往生は一定の身であると思います。というのは、喜ぶべき尊いおみのりをいただいて、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざです。しかるに仏は、このような私であることをかねてからお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫を救うとおおせられていることですから、他力の悲願は、このように浅ましいわたしどものためであったと気づかされて、ますますたのもしく思われます。
「念仏」を「生涯学習」と読み替えていただければ、今の私の心をご理解いただけると思います。生涯学習をしても、「踊躍歓喜」の心になれるわけがない。そう、そもそも、煩悩まみれの我々にとって、生涯学習とは、事実として非常に苦しいものなのですから。逆に、苦しくなければ学んでいないのかもしれません。自分の好きな学びにだけ取り組んで、嫌なことから目をそらしているのでは・・・と思います。
しかし、苦しいからこそ、学びの中に「光」があり、その「光」こそが、人が人として生きるための「智慧」だと感じてます。真宗門徒が「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、私が唱えているわけではなく、阿弥陀仏の力により「南無阿弥陀仏」と言わざるを得なくなるのと同様、生涯学習に救いを求めるものは、既に、生涯学習の智慧の光を感じ取っているわけです。
既に、生涯学習は等しく、すべての人々に寄り添っているのですが、それを感じ取れる人だけが、生涯学習に身を投じることが可能といえるのでしょう。なんせ、学びは人類の叡智。これを失えば、人は人ではなく、猿に逆戻りしてしまうわけですから。よく書きますが、すべての人が「生涯学習」から離脱し、学びを停止してしまうと、わずか100年程度で、我々は、人から猿になってしまうのです。教えあうことができるから人であり、その学習を伝えることができるからこそ猿ではなく人なのです。本当に不思議ですね。
阿弥陀仏は常に智慧光を降り注いでいると言われます。そのことを、ちょっと、生涯学習に組み合わせて述べてみました。