★☆ 愛しき時間(とき) ☆★

2007年に乳がんと肺がんを克復しました。
現在 ACTH単独欠損症(特定疾患)、糖尿病の闘病中です☆

尊厳死と安楽死

2006年03月26日 | 健康・病気

富山県の病院で、
「医師によって人工呼吸器が取りはずされた」という問題が注目されている。

患者の真意を探る努力が十分になされたのか?
刑事責任を問えるかどうかが問題になる。

病院内に終末期医療のルールもなく、
医師と患者のの意見もくい違っている。
でも私は、
この50歳の男性外科部長が悪意で人工呼吸器をはずしたとは思えない。
その段階に問題があるのだろう。

私は乳癌、肺癌、ACTH単独欠損症の闘病生活を送っている。
癌の宣告を受けたときから、「死」のことが頭から離れたことはない。

私はいつも夫に話している。
「もし私が亡くなるようなことがあったら、まず○○と○○に知らせてね。」
「そして○○葬儀社で、キリスト教式で、お花をいっぱい飾ってね」
「葬儀が始まる前にはこの曲を流して、
 お焼香の時は『讃美歌○○番』を流してね」
「写真はこの中から選んでね」

と、そのときのことをこと細やかに頼む。

夫はそれを非常に嫌がり、
「いや、もしかしたら僕のほうが先かも・・」なんて話を変える。 

でも、それってすごく大切なことだと思うのだ。
本人が自分の意思を伝えたくても、
入院して弱ってきてからでは無理だと思うから・・・。

私がいなくなった時、夫がうろたえるのは目に見えている。
そのためにも準備をしておいたほうが、私も安心できる。

生きている時に、こんなことを考えるのはおかしいのだろうか?
後のことは残った人におまかせして・・・と考えるのが普通なのだろうか?

今回の安楽死のこととは問題が違うけど・・・

私は4年前にACTH単独欠損症で、意識がなくなった。
その時には、眠るように意識がなくなっていったので、
なにも苦痛は伴わなくて楽だった。

でも、もし、あのまま逝っていたら・・・と思うとゾッとする。
身辺整理がなにもできていなかったから・・・。

私はそういう経験をしているので、
いつ何があってもいいように日頃から、
整理と準備をしておく必要があると思っている。
(でも、それがわかっていても、なかなかできないのが現実・・ )

癌の最期はとてもつらいと聞くので、
私は、絶対に最期は「安楽死」を望んでいる。

今回の問題は、
家族の方が安楽死を望まれ医師に伝えられたのではなかったのか?
患者本人の意思を書いた文書がないと、殺人になるのか?
家族の希望では駄目なのか・・・。

本人が日頃家族に頼んでいたかもしれないのに・・・。
それとも医師は家族の承諾を得たと思っていけど、
家族は聞いていないということか?

終末期医療は具体的な規定が定めれていないため、これから課題が多い。

唯一の例は、1995年塩化カリウムを投与した東海大病院事件。
その時の地裁の判定は、消極的安楽死について、
「尊厳性を保って自然な死を向かえたいという患者の自己決定権」
などを根拠に許されるとした。
その条件として・・・。
1.死が避けられない
2.患者の意思表示か、患者の意志を推定できる家族の意思表示

【安楽死】
助かる見込みがなく、苦痛の強い患者などを人為的に死へ導くこと。
方法として、鎮痛剤などで死期を若干早める間接的)
苦しめを与えるような延命措置を取らない(消極的)
苦しみから解放するため薬剤を注射して死亡させる(積極的)
・・・などに分けられる。

「尊厳死」は消極的安楽死で、
特に末期患者の延命装置を外し、
自然のまま死なせる行為とされ、積極的な安楽死とは区別される。


Comments (8)
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