これまで、私の持っている三輪田米山の作品を紹介してきました。
米山の書には様々なものがありますが、雄渾豪放な文字を大書した作品に人気があります。
しかし、先回の『升高必自下』に見られるように、溢れほとばしる筆のエネルギーを、紙が受けとめ、墨の形象として残すのは、和紙ではかなり苦しいのも事実です。
一方、米山の作品を、石に彫り込んだ石文が、米山の故郷、伊予南東部には数多く残されています。神名石、注連石(しめいし)、鳥居、墓石など百基以上が、村々の神社や寺など六十数か所にわたって存在しています。
三輪田米山の石文をまとめた本も出されています。
私も、一昨年、米山の地、松山市郊外の日尾八幡神社を訪れ、石文をこの目で見てきましたので、報告します。
神社の鳥居の前に立ちます。
確かに本の写真と同じ景色ですが、実際にこの地に立つと、圧倒的な存在感に身が引き締まります。
神名石『縣日尾八幡大神』
米山石文の白眉は、何といっても、注連石(しめいし)。
『鳥舞』と
『魚躍』です。
『鳥舞魚躍』
「瓠巴鼓琴、而鳥舞魚躍」(列子、湯問篇)から来ています。
瓠巴、琴を鼓せば、鳥舞ひ、魚躍る(瓠巴は琴名人の名)
翻って、「鳥舞魚躍」は、鳥が空を飛び、魚が水に躍る様子から、万物が自然の本性に従って自由に生きること、さらには徳のある良い治世を表しています。
米山の願いだったのでしょうか。
この二つの石文の前にたたずんでいると、何とも言えない感動が湧き上がってきます。
三輪田米山の作品の中で、最高の作品だと私は思います。
鳥居横の広場には、米山碑が建れられています(近年作)。
『鳥舞魚躍』などの石文と異なり、米山が亡くなってから遺された書をもとに作られたものでしょう。
しかし、
石文は、『一杯』と刻まれています。四、五升もの酒で酔いつぶれる寸前に揮毫して名作をのこした米山にふさわしいものですね。
日尾八幡神社は、天平年間創建の由緒ある神社です。
この地方は、かつて久米村とよばれていました。
村誌をひもといてみると、「三輪田大神久米麿、高市古麿などを斎主と定め、竣工した」とあります。三輪田氏は、創建から関りがあったのですね。以後、神社は、この地方を治めていた久米氏の管轄下にあったようです。その後、戦国時代の混乱をへて、加藤嘉明(賤ケ岳七本槍の一人)が松山城を築造する際、城の東を鎮守する八幡宮として整備し、以後、歴代城主の保護を受けました。
米山をはじめ、三輪田三兄弟が国学や漢籍、和歌、そして書などに深く通じていたのは、神官職の三輪田家と松山藩との長いつながりがあったからでしょう。