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今回は、明治に肥前で作られた飯茶碗、五客です。
径 1.8㎝、高台径 4.3㎝、高 8.2㎝。明治。
先回と同じような飯茶碗です。先回は山水紋でしたが、今回の品には梅花、草花、鳥が描かれています。
本体と蓋は、内、外共に、同じ絵付けです。
例によって、この品も、じっくりと眺めるのは初めてです。
染付で梅の幹と花を描き、ピンク、緑の色釉を使って上絵付をした・・・・とばかり思っていました。でも、よく見ると、すべて上釉の下にあります。釉下彩なのですね。この時代の先進技術を使ったのでしょう。特に、緑の線の鋭さと色の鮮やかさには驚きます。
対照的に、染付部分は少しボケています。鳥の飛び方もおぼつかない(^^;
内側の梅は、本体、蓋ともに、外側の梅枝の続きが描かれています。
今回の品の蓋表には、「肥高山富善製」と書かれています。
明治期、肥前では、新しい窯が続々誕生しました。中でも、富永源六が創始した源六焼が有名です。この窯は、明治21(1888)年、佐賀県嬉野市嬉野町で起こり、釉下彩の高級食器を生産して人気を博しました。
富永源六の弟、富永善九郎が作ったのが、「肥高山富善製」と銘がある今回の品です。はっきりとした製作年はわかりませんが、明治中頃だと思われます。伊万里の伝統を生かしながら、新しい時代にマッチした磁器を生産しようとした人たちの心意気が伝わって来るようです。
明治に入ると、釉下彩という新しい技法を駆使した高級磁器が作られるのですね。
釉下彩というものは、説明を聞き、現物を手にしないと分からないですね。
いろいろと珍しいものを手に入れているのですね(^-^*)
ピンクが使われていて、緑もどくどくしいので、大正位の品かな、と思ってました。触ると全面がツルツルではないですか。じっと目を凝らすと、どうも上絵付けではない・・・・釉下彩とわかって、非常に驚きました。こういう日用品にも釉下彩を使ったのですね。グングン進んでいく明治の息吹が伝わって来るようでした(^.^)
色絵の釉下彩という技術革新があったんですね、初めて知りました。
文様としては整理されていない印象はありますが、やはりピンクと緑が華やかさを添えていますよね
明治期の品は幕末の伊万里よりずっと魅力的な品が多いのかも知れません
現在は生活骨董というジャンルの品があと100年もすると立派な「骨董」に出世するんでしょうか。
伊万里の時代から脱却し、新しい事に挑戦する明治の息吹を感じました。
富善製を検索してこちらに辿り着きました。
私も善九郎と同じ苗字で、我が家の墓は善九郎さんの墓の奥にあります。
富善製も源六製と同じ登り窯でした。
私の曾祖母は、源六の姉です。叔父、直助の養女です。武雄市西川登町小田志の樋口一助と結婚してます。一助は、樋口治実の兄弟です。棣華堂(治実)/伍平製。
富善製は、烏瓜紋の七寸皿を京丹後から購入しました。
濁手のような柔らかい白です。
日大の教授、塩川さんが、塩川コレクション、カイの家など、blogありますよ。
富永家の方なのですね、驚きました。
以前にも、陶磁器ではない品物についてですが、ゆかりの方からコメントをいただいたことがあります。ありがたいことです。
私たち陶磁器を多少コレクションしている者にとって、実は、近い明治が遠い存在です。資料が非常に少なく、基準となる品があまりありません。
コメントでお話を伺い、新しい時代の陶磁器産業が広がっていく様子が目に浮かぶようです。
これからもよろしくお願いします。
源六製の資料としては、嬉野陶磁文化研究会編の、源六焼という図録があります。
たまに、Yahooオークションにあります。又は、メルカリ にあります。
メルカリ には、富永製の復刻鍋島焼があります。
図録には、源六製ですから、富善製は出てきません。
源六の研究者で町内の川内さんというおじさんに遊びにおいでよと誘われてます。
父方の祖母の父(曽祖父)は久間儀次郎と言って、深川製磁の娘の子です。源六焼のロクロの先生だったらしい。最近知ったのですが、祖母は養女だったので、深川製磁の血は流れていません。
樋口治実を調べてみて下さい。含珠焼、凄いですよ。樋口家は、離散し、治実は京都市に移住したらしいです。又、子孫は町内で医院をやってます。
富善製も、源六製も無くなる一方ですから、よろしくお願いします。
源六焼でたくさんあるのは、牡丹紋の釉下彩ですが、花びらに墨はじき技法を使って、白い線を再現してます。墨は、登り窯で焼くと炭素だから燃えて無くなります。墨で塗る事で色釉薬がはじきます。最近は、今右衛門がやってますが、新しい技では有りません。
嬉野町内野山の焼き物は、1600年頃に韓国人の金源さん、相源さんが始めたとあります。
金源さんはいないですが、相原さんは居ます。
金源さんが→富永かなぁと思います。
伊万里市大河内山の富永窯のおじさんに、富永の姓は鍋島の殿様にもらったと教えてもらいました。
富永家は、内野山地区の庄屋さんだったです。
源六さんの奥さんは、嬉野市吉田町の吉田代官の娘でした。
祖母も、父も亡くなり、過去を知る人が少なくなりました。
六万円くらいで、源六製の綺麗な花瓶がYahooオークションに出品されてます。日用品では無く飾るのにいいです。買いです。( ^∀^)
肥高山富善製は、明治20年〜40年の頃の作品です。善九郎さんの子孫は、嬉野市湯の田にお住まいです。
富善製は、源六製と違って、数が少ないです。
いつの時代も、陶磁器を焼くには、資力、人脈、技術、そして志が必要だと痛感しました。
私は、陶磁器にはそれほど詳しくないですが、どうしても江戸以前の物に目が向いてしまいます。
明治の陶磁器は、日本の近代化との関係で非常に重要です。
資料の少ない分野です。これから研究が進むことを願っています。
おはよーございます。
遅生さんも、塩川さんと同じ、大学教授なんですね。
かの宮本武蔵が『一芸に通じる者は、万事に通じる』と言ってる。
お二人とも、それを体現されてるようで。
我が家の畑から、1700年頃のブルーの陶器破片も出てきました。
古嬉野焼だそうです。
畑は、登り窯跡です。
九州陶磁文化館の勉強会に持って行き、分かりました。
長崎出身でアメリカ在住の方のブログでも遊んでましたが、フィラデルフィアや、ヨーロッパの方が、良い状態の古伊万里があるそうです。
ご参考までに、アドレス貼り付けます。
http://micnoski.blog.fc2.com/
次男が、関市の刃物会社にいます。
いつか、お会い出来る事を楽しみにしてます。( ◠‿◠ )
私の知らないことばかりです。
伊万里コレクターでも知らないでしょう。明治の有田磁器(広義の)は、やはり新しい時代と関係していますね。
私は、今は退職し、毎日、ガラクタ類の山の整理に追われています。
関市に息子さんがおられる由、こちらへ来られた時は、ぜひ故玩館へお寄り下さい。