遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

明治六年四月『栃木県布達第三十三號』「人相書」

2023年06月09日 | 高札

先回のブログで、高札札廃止後の高札場の行方について、明治六年の栃木県布達書を例に述べました。それは、5丁ある布達のうちの一部(2丁)だと思っていました。しかし、これが、いつもの早合点(^^;  よく見ると、残りの3丁は別の布達でした。しかもなかなか面白い。今回は、この部分、明治六年栃木県布達第三十三號を紹介します。

第三十三号
        人相書
            加賀國第廿區
              大聖寺中新道居住
               石川縣貫属士族
                                    樫田猪三郎
                                     三十五才
一身丈ケ五尺一寸斗
一中肉
一顔長キ方
一色浅黒キ方
一言舌静ナル方
一鼻口常体
一眉毛薄キ放生
一眼並
一総髪二テ摘結
    衣類
一青色袖付雨合羽
一藍紺竪縞上着
一木綿八丈縞似寄シ下着
一紺背割羽織
一白又引
一浅黄色脚絆
一菅笠阻古キ方

         同國第廿區内
            新組町居住
               同縣貫属士族
                                    高野久三郎
                                       四十六才
一身丈五尺三寸斗
一小シク痩セタル方
一顔長ク四角ナル方
一色赤黒キ方
一言舌サハヤカナル方
一眉毛鼻口常体
一総髪二テ小髷
    衣類
一紺色大羅紗蝙蝠合羽
一黒色袖付雨合羽
一白フラン子ル又引
一紺色脚絆
一菅笠伹新シキ方
一脇指一腰
右之者共明治五年十一月十一日加賀國江沼郡
瀬越村大家七三郎方へ押入持兇器強盗相働金
千五百圓餘盗取逃去致シ候二付於各地方官厳
密捜索ヲ遂ケ及捕縛候ハ、速二當省へ可伺出

    明治六年三月     司法郷江藤新平
                              司法大輔福岡孝弟

右御達之上得其意厚ク可致遵奉モノ也
  明治六年四月    杤木縣令鍋嶌幹

 

なんと、これは、強盗犯2人の人相書(手配書)だったのです。写真などなかったこの時代、犯人の特徴をどう描写したのかがわかります。体や顔つきはもちろんですが、喋り方も入っています。さらに、身なりについて事細かに描写しているのも、この時代ならではでしょう。

盗んだ金が千五百圓というのも驚きです。当時の一円が現在の2万円くらいに相当するとすれば、3000万円ほどにもなります。全国手配になるはずですね。

この手配書は、明治六年三月、司法郷江藤新平、司法大輔福岡孝弟の名で出されています。当時、江藤新平は法務関係のトップとして、司法権の独立、司法制度の整備など、日本の近代法体制作りに邁進していました。下級武士の出ながら、俊英としてその能力を高くかわれて、明治政府で重要な地位にあったのです。しかし、彼の性格は、生真面目で直情型、正義感が強く、妥協を許さない天才肌の高潔人間でした。山縣有朋、井上馨ら明治政府高官の腐敗を厳しく追及していました。日の目をみたかったものの、妾の禁止なども構想していたといいます。海千山千の政治家たちとは、とうてい相いれなかったのです。当然、大久保利通とも不仲。征韓論を機に、西郷隆盛とともに下野します。そして、故郷佐賀で、不平士族らの首領に擁立され、政府軍と戦うことになります(佐賀の乱)。破れた後、薩摩の西郷隆盛に援軍を求めますが不調、逃亡先の高知で捕えらえ、反逆者として斬首、晒し首となりました。今回の手配書が出された明治六年三月からわずか一年後、明治七年四月でした。

その3年後の明治十年、西郷隆盛が決起、破れて自害します。

そして、佐賀の乱の際、先頭となって政府軍を指揮した大久保利通も、4年後、明治十一年に暗殺されてしまいます。

この3人は、いずれも40代、働き盛りの時に非業の死をとげています。明治初期、幕末の残り火が、傑出した人材を消していったのですね。


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4 コメント

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遅生さんへ (Dr.K)
2023-06-09 09:30:57
高札制度が廃止され、それに替わるものとして太政官布告・各県令布達が出されるようになったわけですが、それらの布告・布達の制度は順調に機能しているようですね。
今のような電送という手段のなかった時代、明治5年11月11日の加賀国での強盗事件を、翌6年の3月には国から指名手配をし、4月には栃木県からも指名手配をしていますものね。
なかなか、きめ細かに、スピーデイに処理していますよね。

また、これら布告・布達などに登場してくる人物を調べますと、幕末・明治初期の動乱の時代が偲ばれますね(^_^)
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Dr.Kさんへ (遅生)
2023-06-09 11:05:19
すみません、4枚目の写真が抜けていました。

当時は、廃藩置県がすみ、明治政府が本格的に動き始めた時期です。県令の布達も矢継ぎ早に出されています。しかし、新しい国の形を作っていくのですから、軋轢も相当なものだったと思います。
今の私たちは、事柄が全部済んでから、この布達を見ていますから、歴史上の出来事として捉えています。が、当時、この布達を見た人は誰も、江藤新平のその後の運命を予想することはできなかったでしょう。
やはり、明治は激動の時代ですね。
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Unknown (1948219suisen)
2023-06-09 13:16:17
正に事実は小説より奇なりでございますね。

小説家はこういう事実から小説を書き起こすのでございましょうから貴重な品でございますね。
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1948219suisenさんへ (遅生)
2023-06-09 18:12:14
幕末、明治期には、傑出した人物が次から次へと出てきました。その人たちが数奇な運命を辿るのですから、事実は小説よりも奇なり、です。これも明治初期という激動の時代のなせるわざなのでしょうね。
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