遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能楽資料23 『光悦謡本』(復刻)

2020年12月20日 | 能楽ー資料

『光悦謡本』です。

本来は稀覯本ですが、これは復刻版です。

当時の物は、しかるべき施設や好書家の所に収まり、私ごときの出る幕はありません(^^;

 

『光悦謡本』( 實盛・熊野・猩々)、日本古典文学刊行会、昭和47年

 

ケースの中には

   縦24cm × 横18cm

『光悦謡本』(特製本)を忠実に復刻した3冊が入っています。

右から、『さねもり』、『遊や』、『猩々』。

 

江戸初期、手書きではなく、版本の謡本が出版されるようになりました。

その中で、綴帖装の古活字本の謡本が出されました。表紙や料紙に雲母で摺模様をあしらい、光悦流の書体の豪華本で、『光悦謡本』とよばれています。一説には、本文を本阿弥光悦が、下絵を俵屋宗達が描いたとも言われています。

『光悦謡本』(復刻)附属の解題(表章氏による)には、『光悦謡本』の要件が次のように述べられれています。

1.  江戸初期刊行の古活字版の謡本であること。
2. 活字書体がいわゆる光悦流(肥痩の差が顕著)であること。
3. 本の大きさが大版の半紙本(竪24センチ、横18センチ)であること。
4. 内容が、江戸初期の観世流の、やや特異な本文・節付を持っていること。
5. 表紙また料紙に雲母(きらら)模様が刷られていること。

『光悦謡本』には、いくつかの種類の物がありますが、とりわけ装幀が美麗で美術価値が高いものが、特製本です。礬砂引の厚い雁皮紙が料紙に使われ、すべてに雲母摺の華麗な地模様が施されています。また、料紙にも薄い色がついています。

 

復刻版:「猩々」  「遊や」  「さねもり」

料紙の色は、左から、薄紅色(猩々)、薄肌色(遊や)、薄緑色(さねもり)

料紙には、それぞれ、雲母摺で銀色の模様が描かれ、その上に文字が印刷されています。

 

 表紙     「さねもり」

裏表紙

 

 表紙      「遊や」

能「ゆや」は、現在、喜多流が「湯谷」と表記する以外は、すべて、「熊野」と表されます。「遊や」という表記は非常に珍しいです。

裏表紙

 

 表紙       「猩々」

どの冊も、見開き四枚の厚紙を中で折り、糸で綴じてあります。

 

桃山から江戸へ移る時期に、王朝の雅を謡本に再現したのが『光悦謡本』とも言えるでしょう。実用というより美術価値に重きをおいた品です。

復刻版の『光悦謡本』を眺めながら、どのような人々が、豪華装丁の謡本を手にしていたのか、なぜか気になる遅生でありました(^.^)

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能楽資料22 稀覯本『花伝書』(八帖花伝書)

2020年12月18日 | 能楽ー資料

今回は、江戸時代の『花伝書』です。併せて、明治に発行された『花伝書』も紹介します。

 

せ阿ミ『花伝書』(八帖花伝書) 二、六、八帖。江戸前期。

 

花伝書は、世阿弥の代表的な能芸論です。600年前に、このような演劇論が打ち立てられたのは、世界的にも他に例をみません。それは現在でも新鮮で、現代芸術に通じるものをもっています。また、人生訓として読んでも味わい深い。

しかし、今回の品は、その花伝書ではなく、現在は、『八帖花伝書』とよばれている花伝書です。

明治42年、吉田東御伍博士が、『風姿花伝』を発見し、『花伝書』として世に伝えるまで、何百年もの間、この『八帖花伝書』が『かでんしょ』であったのです。

 

『八帖花伝書』は、室町末期から桃山時代にかけて生まれたと考えられています。

内容は、世阿弥の理論(『風姿花伝』)の一部を取り入れ、さらに、鼓、笛など囃子を含め、能の広範な分野の実際的知識や技術的解説に重きを置いています。

このように、一般に受け入れられやすい記述であったため、能楽師から町人まで、幅広い人々に大きな影響を及ぼし、明治時代になっても版を重ねました。

 

『八帖花伝書』は、慶長年間(1596-1615)に、古活字版として世に出ました。その後、寛文5(1665)年に、平野屋佐兵衛によって、木版の出版がなされ、江戸時代、広く普及しました。

古活字本と整版本は非常によく似ていますが、寛文年間には、もう、古活字の時代は終わっています。また、『八帖花伝書』の古活字版には、奥付がありません。

今回の品は、「寛文五年乙巳九月吉日 平野屋佐兵衛開板」と最後に書かれています。

ですから、今回の『八帖花伝書』は、残念ながら古活字本ではなく、整版本です。しかも、八帖全巻の一部、二、六、八帖の3巻のみです(^^;  

      

         二帖(21丁)

                       

二帖は、調子を陰陽五行説によって説いています。

    能管についての記述も詳しい。

 

          六帖(35丁)

六帖は、能の演出や心得を、陰陽説、序破急などによって説いています。

 

          八帖(24丁)

 

 

八帖は、能の稽古の心得や手順などについて説いています。『八帖花伝書』の中では、世阿弥の『風姿花伝』が最も強く反映された巻です。

 

『花伝書』は、江戸時代だけでなく、明治になっても発行されました。

次の品は、明治後期、活版印刷で出された物です。

『花伝書』発行者 江嶋伊兵衛、績文舎、明治31年。

 

一帖から八帖が一冊(392頁)になっています。

当然のことながら、全部が揃っていない私の江戸版『花伝書』を補って、全体を見せてくれます(^^;

 

一帖は、「夫申樂延年のことわさ其源を尋るにこの國にはしまるところハ地神五代あまてる御神の御時に天の岩戸の神遊し給ひし時・・・・・・・」と、申樂(能)の起源から始まっています。

 

二帖は、江戸版の写真にあるように調子全般を扱っています。

 

能管についても江戸版の写真と同じ。

 

五帖は、とても興味深い絵が多数載っています。

 

 

世阿弥は、能の演技の本質は「ものまね」であると述べています。

それは、演者が登場人物になりきることを意味します。能ではそれを、謡いと所作で表現する訳です。

江戸時代初期に、伝えるのが難しい所作を、裸人間のイラストで表現する・・・これは、画期的なことではないでしょうか。

このように、『八帖花伝書』は、江戸時代から明治まで、能のまとまった成書としては唯一、数百年の間、多くの人々に支持されました。その影響は能にとどまらず、狂言や浄瑠璃にまで及んだといわれています。

現在では、ほとんど言及されることのない『八帖花伝書』ですが、再評価されるべき本の一つだと思います。

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能楽資料21 観世流 勧進帳伝授誓約書(雛形)

2020年12月16日 | 能楽ー資料

江戸時代の観世流謡曲「勧進帳」伝授の誓約状(免状?)の雛形です。

能の謡いには、等級の別があります。観世流では、5級から1級へと進みます。これら平物(ひらもの)を卒業すると、さらに、「準九番習」、「九番習」、「重習」へと難易度が高い謡い(免状もの)となります。重習に入るのが、最上級の謡いです。

「勧進帳」は、能『安宅』の中で弁慶が巻物を読み上げる場面の謡いです。通常の音曲の謡いではなく、読み物です。長文の勧進帳を高らかに読み上げるのですが、言葉の調子だけで、弁慶の力強さと迫力を生み出すのは大変難しく、重習となっています。

 

今回の資料は、江戸時代(寛政年間)に、「勧進帳」を伝授される際、誓約状の形式をとった免状(雛形)と考えられます。

         33.0 x 45.7 ㎝

 

 

 

   一札之事
一 勧進帳 一曲
  右今般御傳授被成下忝仕合奉存候
  然ル上者前々誓紙ニ書顕候通私之相傳
  仕間舗候尤被仰聞候心持之事並
  覚書等他見他言不仕急度相守違犯
  仕間處候仍而一札如件

年号
      寛政十年                      何 何某
       戌午五月                       実名書判
    何 何月

         観世織部殿
         同 三十郎殿

                取次 片山九郎右衛門殿

奉書ニ認ル 上包美濃紙 相掛
               一札 性名実名

 

 

   一札の事
一 勧進帳 一曲
右、今般御傳授成しくだされ、かたじけなく仕合わせに存じ奉り候。  

然る上は、前々誓紙に書き顕し候通り、私の相伝え仕りまじく候。尤も、仰せ聞かされ候心持の事、並びに
  覚書等、他見他言仕らず、きっと相守り、違犯
  仕りまじく候。よって一札件の如し。  

   年号
      寛政十年                            何 何某
       戌午五月                              実名書判   
    何 何月

      観世織部殿
      同 三十郎殿

                取次 片山九郎右衛門殿

奉書ニ認ル 上包美濃紙 相掛
               一札 性名実名

 

差出先は、観世織部、観世三十郎となっています。江戸時代、観世宗家の多くは織部と名乗りました。また、幼名が三十郎の人も多くいました。その中で、寛政十年ごろの人に絞っていくと、19代宗家観世織部清興(宝暦11年ー文化12年(1761-1815))と20代宗家観世左衛門左近清暢(天明元年ー天保元年(1781-1830))に行きつきます。

19代宗家の時代に、宗家親子に対して、この一札は出される予定のものだと考えられます。

片山九郎右衛門は、観世流の名家、片山家の当主(代々)です。片山家は、江戸時代、禁裏能を務めるなど、京都を中心に活躍し、関西の観世流を担ってきました。

取次とあるので、観世宗家に重習い「勧進帳」の伝授を申請する際、片山九郎衛門が間に入ったと考えられます。伝授を受けるのは、京都やその近隣の人でしょう。

ところで、この場合、免状はあったのでしょうか。

現在では、謡曲の中級からさらに上級を目指して、準九番習から上の等級の謡いを学ぼうとするときには、原則として、師範の許可が要ります。めでたく習得できれば、免状を授かります。お茶やお花と似ています。

しかし、大正、昭和の謡曲免状は多数残っていますが、江戸時代の物は寡聞にして見たことがありません。江戸時代、能は武家の式楽であり、能楽師は、幕府や大名から禄を受けて生活していました。能や謡曲を大っぴらに教え、免状を与えることは憚られたのではないでしょうか。そのかわりに、今回の品のような、伝授を受ける者が宗家に対して誓約状と誓紙を提出したのではないでしょうか。

謡曲と同様、江戸時代は、小笠原流などの礼法を武士から町人まで多くの人々が学びました。その時に出された、折形などについての免状は多く残っています。それらについては、いずれブログにアップします。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これはなんだ!? 古伊万里ニョロ虫中皿

2020年12月14日 | 古陶磁ー全般

先日、Dr.Kさんのブログで、茄子と宝珠が描かれた不思議な色絵茶碗が紹介されていました。

なんでも有りの故玩館ですから、訳の分からない品には事欠きませんが、陶磁器は少ない・・・でも、何かあったはず・・・・おおそうだ、と拾い上げたのがこの皿です。

 

径 16.9㎝、高 1.7㎝、高台径 9.8㎝。 江戸後期。

 

裏面は、無地。

 

これは一体何を描いた皿なのでしょうか?

 

ニョロニョロした虫?

それとも、小動物?

 

井戸を覗きこんでいるのでしょうか?

あるいは、囲碁に興味がある?

 

太古石に草花があしらわれています。

 

花の上には北斗星?

3連星が描かれた皿は、外にも見かけたことがあります。

ナントカ星と書いてあったのですが、忘れました(^^;

 

最初、この皿は、昭和の時代に、多治見、瀬戸あたりで、誰かがお遊びで作ったのだろうと思っていました。

でも、よく観察すると、煮え、小ふりもの、鉄分の噴き出しなどが見てとれます。煙も少し入っています。

ニョロニョロ虫さんを除けば、図柄、染付の具合、皿の造りなど、江戸後期から幕末にかけての伊万里で通りそうです。

この皿のお里は、どうやら伊万里のようです。

 

こういう奇妙な皿に巡りあったのも何かの縁、故玩館秘蔵の一品とさせていただきます(^_^)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巣籠りの効用9 故玩館の黒塗り

2020年12月12日 | コロナに負けるな

故玩館の維持は、なかなか大変です。

特別の予算はなく、大蔵省殿からは自助努力を求められています。

これでは、あの冷酷な政府と同じではありませんか(^^;

まあ、どのみち、何がしかの余裕ができたとしても、つい、新たな一品を求める方へ向かってしまいますから(^.^)

結局は、時間と体力を使って、できる限りがんばるしかありません。

 

遅生は、故玩館の館主、キュレーター、小使いを兼ねていますが、実際には、小使いの仕事がほとんどなのです(^_^)

 

今の季節、草との戦いは、しばし休戦です。

 

除草も含め、外回りの管理の中で、時間と体力を一番必用とするのは、実は、木部のメンテナンスです。

特に、黒ペイント塗りが難物です。

 

 

 

まるで、黒の館ですね(^.^)

 

横の塀も半端でない長さです。

 

おまけに、塀は、外だけでなく、内側も黒塗り。

 

故玩館本体も、漆喰を除けば、外側はすべて黒。

外壁だけでなく、防犯・雨戸も木製黒塗り。

 

正面玄関。

 

 

家の両側面も。

 

庇の柱まで黒。

気が遠くなるほどの面積です。

 

しかし、数年たつと・・・

日光が当たる所は、劣化します。

 

陰になった部分は、カタツムリが舐めます。好きな成分が含まれているのか、齧り取っているようです。

 

そういう訳で、ものすごい面積の木部を、一人の小使いさんが塗ることになります(^^;

 

使うのは、この塗料。

刷毛一本で勝負です。

普通に塗っただけでは、長くもちません。

数回塗るか、飽和量までじっくりと木部に塗料を吸わせていくかです。いずれにしても、大量の塗料と時間、手間が要ります。

塗り終えると、一缶25kgがなくなります(^^;

 

 

おっと、上の東西両側面がまだ残っていました。

以前は、中屋根、大屋根の上で命綱をつけ、不安定な足場で頑張りましたが・・・・

それから3年後の今、

「その歳になって落ちたらもう終わり」

と周りから、心配とも脅しともつかないお言葉を沢山いただいていますので、パスせざるをえません。

業者に依頼する日のために、爪に灯をともす毎日を続けることになりそうです(^.^)

 

コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする