komezouの写真と自転車生活

ライフワークの風景写真と趣味の自転車について

北方謙三 チンギス紀

2018-05-29 06:47:25 | 歴史散歩
来た〜!

文庫本を待てずに買ってしまいました。

北方謙三 チンギス紀

チンギス・ハンを書いたものは、ほとんど読み漁りましたが、これは楽しみな小説になりそうです。

1巻が「火眼」、2巻が「鳴動」

長編小説・・・で全何巻になるのだろうか?

3巻は10月発売♪♪♪

山中城跡へ行ってきました!

2017-10-31 06:29:59 | 歴史散歩
山中城跡へ行ってきました!
三島の方なら知っている人が多いかと思いますが、箱根から三島に下るR1の片隅に、戦国時代の山中城跡が旧東海道の脇にあります。(伊豆国田方郡)
北条氏の居城小田原城の支城として築城され、北条氏滅亡以降廃城になった城です。
この城の堀は、畝堀と障子堀と言うかなり珍しい構造になっており、最近の城マニアには注目を浴びている城だそうな!(実際に平日の月曜なのですが駐車場が一杯になるほど見学者がいました。
空堀の堀底に土手を掘り直交に区画したものが畝堀、空堀の堀底に掘った土手を障子の桟(さん)状に区画したものが障子堀と言うそうです。
今まで何度か通過していたのですが、そんな城だと言う事を知らずでしたが、ほぼ1年前に八王子山城跡に登った時にガイドさんからこの城の事を聞き、石を全く使用していない土城とのことで、行かなければと思ったいたのが1年かけてやっと見る事が出来ました。
見事に復元された畝堀や障子堀は見事そのもの。



西曲輪や西の丸から見事な富士山が、すり鉢曲輪からは伊豆半島に煌めく駿河湾が望め、展望も最高でした。
なかなか歩き甲斐のある城跡でした。

史実によれば・・・・・以下、三島観光協会HPより引用
秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行ないました。
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。
北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。
堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。
昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。


城好き

2016-09-23 01:09:44 | 歴史散歩
自分は城好きです。
城と言っても天守閣のある城を見るのではなく、土の城を眺めるの城址巡りが好きなんです。
特に縄張り図を見てしまうと、心ウキウキワクワクである。
縄張りとは城の間取り図です、縄張りこそ城巡りの醍醐味なんです。
城の縄張りをした人の思いや、その土地毎の地形を活用した城はいくつ見ても飽きがきません。
見本にした城こそあれ同じ造りは殆どありませんから、楽しいんです。
この城を攻めるには・・・守るには・・・って考えるだけで楽しくなってきます。
・・・先日、書店でこの「戦国の城がいちばんよくわかる本」を発見。
この本の著者は、NHK大河ドラマ「真田丸」で戦国軍事考証をされている西股総生氏である。
彼は既存の戦国本では触れられてこなかった「穴場」を取り扱った本を出版されているので、その筋では有名な方です。
「真田丸」は脚本こそ面白く着色されていますが、時代考証チームが優れていることではかなり注目されている
これぞ初級者向けに判り易く書かれていると思い、パラパラとめくりながらレジへ向かっておりました。
土の城中心で書かれています、まさに城歩き用のガイドブック!
もっと早くこの本と出逢っていれば・・・(笑)
オススメの戦国28城リストというのが紹介されていて行ったことがある城が数カ所
出身地栃木市にある皆川城・・・ここは一番馴染みの深い山城
群馬月夜野にある名胡桃城・・・小田原の役の発端になった城
そして今まで見に行った中で一番巨大な空堀があった高崎の箕輪城
8月のパノラマライド帰りに立ち寄った韮崎の新府城・・・これは勝頼の思いが宿っています。
無名な城もまた楽しいのですが、この書に書かれていてまだ行ったことのないご近所の城がまだまだ沢山あったのを再確認できました。
近所の城ってかなりあるんですね〜!
調布深大寺の深大寺城
八王子の滝山城
横浜小机にある小机城
横浜都筑区にある小机城の支城である茅ヶ崎城
裾野市にある葛山城
秀吉の小田原征伐で、壮絶な攻防戦があった三島山中新田にある小田原城の支城の山中城・・・障子堀が有名だそうな
上の6城は是非立ち寄ってみたいです。
今年は、11月に八王子城を見に行く予定をしています。
ここは北条氏照が築城。
当時は近所の滝山城を居城としていたのですが、小田原攻めに来た武田信玄攻められた際に限界を感じ、八王子城に移ったそうだ。
安土城を模し、石垣で固めた山城構築を行い侵入してくる敵に対し、どこからでも攻撃できるという近代的戦術を取り入れた城だそうだ。
今から行くのが楽しみです。
「真田丸」を見られている方はこちらも御覧くださいませ、ドラマの放送分ごとのワンポイント解説もあるので、「真田丸」が良く判りますよ!
人生堅堀 TEAMナワバリングの不活発日誌

梁田寺と梁田政綱

2013-04-17 22:54:08 | 歴史散歩
東向山 梁田寺(りょうでんじ)

17時近くに訪れたので、湧水が見られなかったが残念でしたが、町田市忠生にある閑静な森と豊かな湧水に恵まれる、曹洞宗の寺院である。
寛永6年(1629年:江戸時代)梁田正勝公(やなだまさかつ)発願による禅寺。
建物自体は新しいので歴史建築を見てと言うお寺ではないですが、何故?ここに来たのか?
不思議に思う方がいらっしゃるかと思いますので、書かないと駄目ですね。
古くは、将門の乱を慎めた平貞盛公が、この地にても戦があり両軍戦死者を集めて火葬に附して、東香堂を建立したのが東向山の初開創だそうで、歴史が関係して来ます。
そして・・・梁田・・・って、知っている人は少ないかと思うのですが、このお寺の名前を聞いた時に「梁田政綱」と言う人物が私の中で浮上して来ました。
太閤記・武田信玄・秀吉・国盗り物語・功名が辻、NHKの大河ドラマには、結構な頻度で出ている武将である。


梁田政綱(正綱)・・・

戦国時代の武将である。
・・・と言っても大名ではないし、表舞台には殆ど名前が出ない武将です。
元々斯波氏の家臣であり、後に織田家・・・織田信長の家臣に梁田出羽守政綱と言う名前があった。
史実はどうなのか?未だ不明であるが、桶狭間の戦いでは今川義元の首を挙げた毛利良勝よりも功績が大きく、戦功一番手柄の人物である。
信長は、何故一番手柄としたのか?
ほぼ負ける条件の中奇襲作戦を決行した信長、これには相当な自信があったとされる文章もあり、いろいろ言われていますが、奇襲作戦を立案し善照寺砦の軍議で他の諸将差し置いて、作戦続行を主張し成功した為に一番手柄になったと言う説がある。
しかし、これを証する史料はない。
これに関しては、何故本陣の場所を梁田政綱が知っていたのか?
例えば、当時の戦国大名・武田信玄等はかなりの諜報網を持っていて、真田に代表される諜報術に長けた武将が多かったと記されている、梁田氏ももしかしたらその様な存在だったのかも?
信長が情報を重視し歴史の表舞台に出て来たのはここからであるが、その諜報の部分を担っていたの梁田政綱だったのかも知れない・・・と考え始めると歴史はもっと面白くなる筈。

とにかく、この功績により3千貫で沓掛城主となって、織田家臣団として各地を転戦。
加賀一向一揆鎮圧後に加賀天神山城主となるが、再起した一向一揆鎮圧に失敗し大聖寺城への退却を余儀なくされ、自ら安土に蟄居し、天正7年(1579年)に死去。

直接は関係なかったが、織田信長の死後は豊臣秀吉・徳川家康の家臣として各地に従い江戸時代まで。
梁田氏については、調べていないので全くの不明であるが、その政綱の子孫が江戸時代になり、この地に配転されてこの寺と関係が生まれたと言う事、結局のところ政綱本人とは関わりがなかったのですが、いろいろ調べられたので勉強になりました。

汁守神社と狛犬

2013-04-17 00:34:43 | 歴史散歩
汁守神社は、小田急多摩線黒川駅を下車、歩いて10分位でしょうか?
この黒川地区では、昔から黒川の鎮守様と呼ばれ親しまれているそうです。

天明2年(1782年)に社殿が再建され、主祭神は食物そして五穀豊穣の神様である保食命(うけもちのみこと)。
名前の由来は、武蔵国の総社の大國魂神社(府中市)に供える汁物を調える役目を担ったことから、こう呼ばれるようになったとも伝えられているそうだが、正確には不明との事。
正面階段を上がると天保5年(1834年)に建立された鳥居がある。
これは両部鳥居と言い、本体の鳥居の柱を支える稚児柱そして笠木の上に屋根があると言う、厳島神社と同じ形の鳥居です。
そしてここにある狛犬(本来は獅子と呼ぶべきなのであるが)である。

ここの狛犬は、阿吽双方で3匹の子獅子を抱えているのである。
阿形は眼が大きく2匹の子獅子を抱えてあやす姿勢には、威圧感がなく優しそうに感じました。
今まで両側に1匹づつと言うのは見た事がありましたが、自分としては初めてでした。
かなり珍しいのではないでしょうか?
後で調べると、麻生区にある神社の狛犬は伝統的に子獅子を抱えている物が多いそうで、この地区ならではの言い伝えがあるのではないかと判断します。
この辺りにある神社の狛犬や灯篭は、溝の口の内藤慶雲と言う明治時代の石工の作品らしい。

真光寺地区に飯守神社(いいもり)があるそうで、こちらは同じ大國魂神社に備える大膳部を担っていたそうで、今度調べて見ようと思います。
情報では、こちらの飯守神社には戦争で焼失してしまったのか?狛犬がいないとか?
両社一対の神社なので、両方お参りしないと御利益はなさそうである。(笑)


狛犬ついでに、ちょっと調べてみたら・・・
中国の唐の時代・・・日本では飛鳥時代に伝わった当初、左右の形に差異がなく、平安時代に異なる外見をもつ無角の獅子と有角の狛犬が対で置かれる様になる。
当時の日本人が異様な形の生き物を犬と勘違いし、唐から朝鮮を経て伝わったものだった為、当時は高麗犬と呼ばれる様になったとも?
「こまいぬ」の語義にはいろいろあり魔除けに用いた事で「拒魔犬」とも?


狭義では、後者のみを「狛犬」と称していたが、現在では両者を併せ「狛犬」と呼ぶのが一般化している様である。
なんと、古代インドで仏様の両脇に守護獣としてライオン像を置いたのが起源ともされ、古代オリエント諸国でも、聖なるもの、神や王位の守護神としてライオンが用いられるのが流行したそうであり、その好例がスフィンクスであるとしている。
何気なく見ていた狛犬がスフィンクスと繋がるとは、ビックリ!歴史は面白いですね~!

獅子や狛犬と同様の役割を果たす神仏の守護獣として、猪・龍・狐・狼・蛇・鹿等がいるが、場所に寄っては土地の伝承に基づくものもある岩手の常堅寺では河童伝説に基づき河童像が、京都府京丹後市の金毘羅神社境内社木島社には阿吽配置が左右逆の狛猫像が置かれているそうだ。
全国を探してみると、いろいろな守護獣の像があるのかも知れませんね!



備忘録
4月16日 NW
実歩行距離:3.87km
実歩行時間:41分48秒(総歩行時間:43分17秒:停止時間2時間53分)
平均速度:5.6km/h;MAX:7.4km/h
平均心拍:122bpm:MAX:132bpm
消費カロリー:363kcal

宮沢六道の辻

2013-01-28 21:15:30 | 歴史散歩
和泉川沿いを北上しながら、住宅地の中をブラリと漕いでいると発見したのが「宮沢六道の辻」である。

看板に寄ると・・・
 江戸時代の承応元年(1652年)に行われた検地に先立ち、旗本石川六左衛門重勝が領地内の米の取高の不足を補う為に、支配下の上矢部村の村民数人をここに入植させ、開梱をしたと推測されています。
 六道の辻とは仏教で言う地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上への別れ道と言う事で、地蔵尊がその道を示され、当時の村民はこの地に自分たちの終生末代の安楽を求め願いました。
 この六本の道の内一本は横浜弘明寺観音より座間星の谷観音への信仰の道として残り、今でも星の谷道と呼ばれています。
 地蔵菩薩の坐像と正徳5年(1715年)建立の石碑があり道標を兼ねています。願主相州上柏尾村と示されています。
現在の辻は、平成6年(1994年)9月に回収されたものです。

  平成10年 3月   瀬谷区役所

と言う場所でした。
何気ない景色の中で、いろいろな発見。
車で裏道走っても発見出来る訳もなく。。。自転車は楽しいです!

東北旅行 5・・・多賀城

2012-05-05 05:34:44 | 歴史散歩
さてさて東北旅行記も最終章です。

西行戻しの松を出発し高速ではなく幹線道路で、今回の最終目的地へ。
途中新幹線の工場を発見するが、見学時間が掛かるので時間的に合わずまた今度と言う事に。
そして、秋に雨の中訪れた多賀城へ到着。

秋に来た時にボランティアスタッフの方から「春の桜もキレイですよ~!」と言われ、今回の旅行中に訪れたいと思っていたのだ。
やはり季節柄か?ボランティアスタッフの方々があちこちにいらっしゃり、各所で親切に説明して頂きました。
皆さんしっかりと勉強されていますし、優しく判り易く説明されているのが印象に残る。
勿論、カミさんは初めてなんですが、こう言う名所旧跡は季節毎の趣きも違うので自分にも新鮮じに感じ、桜の多賀城は花見に来られている方も多く、誰もいなかった秋雨の多賀城とは雰囲気が違い華やかな感じでした。
日本最古の石碑である多賀城碑もじっくり見られたし、旅の締めくくりには最高の場所。
最後はしっかりと、震災後の廃材置き場まで見て来ました。

ここでも運が良かったのは、出発時に観光バスが2台やって来た事です、ザワザワした雰囲気でなく、ここでもじっくりと多賀城跡を見る事が出来ました。
多賀城を後にし、そのままR4を白石まで移動し白石から東北道に乗り那須~宇都宮で断続渋滞に遭ったモノの、意外にスムーズに帰宅出来、充実した旅行を終了する事が出来ました。

これで今回の東北旅行記は終わりです。
仙台市街では見られなくなった、震災の爪痕はまだまだあちこちに点在しています。
石巻や気仙沼方面へ行けば、まだまだ凄いのでしょうけれど、ここ多賀城でも未だに目に入る場所に残っていました。
でも今回出会った東北の方々からは、復興に向かって進んでいる心の明るさを感じさせて頂きました。
やっぱり東北は楽しいです。

END

東北旅行 4・・・松島・西行戻しの松

2012-05-04 07:33:39 | 歴史散歩
2日目も、朝早くからの行動でした。
松島へ向かったのは8時頃、ちょっと混んでしまったのですが9時過ぎには松島へ到着。
松島は7年振り位だろうか?
仕事で仙台に来始めた時の休日移動時に、寄ったのが最後かな?

まだまだガラガラで、すんなりと街外れの駐車場へin!
まずは10時からの松島観光遊覧船のチケットをGETし、そのまま五大堂へ。
震災の時はどの位の水が押し寄せたのか?
五大堂は・・・と思ったのですが、外観はそのままの姿でホッと安心。
しかし観光案内センターへ行くと160cm位の場所に、水はここまで来ましたと書かれた印が。
震災時の写真が展示されているのを見ながら、津波と地震の凄さを感じました。

そのまま桟橋から観光遊覧船に乗って、松島湾内>外海>松島湾内と約1時間のクルーズを楽しむ。
10時の船は意外に空いていた。
湾内の様子を見ながら、震災を思い出さずにいられなかった。
湾内には人が住んでいる島がいつくかあり、そこの人達が震災時はどうだったのか?と考えてしまう。
でも、商店の皆さんは笑顔で前向きで頑張っているのを思い出し、逆に元気付けられる様な思いであった。
カッパエビセンで餌付けされているカモメ達は、判っているのか?延々1時間も船の後ろを付いて来る。
桟橋に戻ると、人で溢れ返っている。
やはり、今回の旅行は運が良かったのか?
11時出発の遊覧船は、満席以上の状態だったようである。
良かった~!(笑)

再び観光案内センターへ向かい「震災復興チケット」を購入し、瑞巌寺へ向かう。
ここも水により痛手を被った様で、改修工事が行われていて本堂は覆われていて見られずでした。
伊達政宗が朝鮮半島から持ち帰ったと言われる、「臥龍梅」の赤と白の花は見る事が出来ました。
この旅行は関東で見る事が出来なかった、梅と桜の花見が沢山出来ました。
ここでは軽い食事をと言う事で、焼き牡蠣・ツブ貝焼き等美味しいモノも食べられました。
特に牡蠣入りカレーパンが美味でしたよ~!(笑)

昼になる頃には道は、駐車場待ちの車と移動の車で大渋滞。
これに関しても運が良い!
笹かまぼこの手焼き体験もして、渋滞の脇を駐車場に向かう。
一瞬であったがメイン道路が空いて、松島から出る道へスムーズに抜けられた。
松島に入って行く道は2kmどころではない渋滞であった、それを尻目に松島脱出!
山から松島が見下ろせる「西行戻しの松」へ移動。
西行法師が、そこにいた童子と禅問答をして負けてしまい、松島行きを諦めた、と言う謂れのある場所だそうです。
宮城県松島にある桜の名所・松島眺望の名所である

ここで、桜の花見をしながら松島湾を見渡した。
残念だったのは、天気が曇りだったと言う事である。
これだけはどうしようも無く、諦めざるを得なかった。(笑)
丁度山の上は、花見のお客さんで一杯でした。

戻しの松については、どうして西行法師が禅問答で負けて松島行きを諦めたのか?である。
どんな問答だったのか?ちょっと調べてみる事に。

[禅問答の内容]
 西行が西行戻りの松で、松島に行く途中休んでいますと、童子が通りかかったので、
 「月にそふ 桂男(妖怪)のかよひ来て 薄ならむは誰が子なるらん」と童子に問いました。
 
 すると童子も、
 「雨もふり霞もかかり霧もふる はらむすすきは誰か子なるらん」と返答したと言います。

 西行は、ただの子供ではないと驚いて、
 「一体どなたでしょう?何をしている人ですか?」と尋ねると
 「これから、夏枯れ草を刈りに行くところです」と答えたそうです。

 
[松島へ行かなかった理由]
 西行が、当意即妙の童子の返答に驚き、 童子から松島は東北を代表する霊場でもあり、歌人も多く訪れ自分程度の者は大勢いる。松島に赴き恥をかくなら、このまま戻った方がいいでしょう!・・・と西行に言ったのが、諦めた原因だ、という話があるそうです。

こんな話を聞いてしまうと、松島の絶景を見られなかった西行法師が可哀想に思ったりします。(笑)


さ~てと、次はこの旅行最後の場所へ向かいます!
お楽しみに。

東北旅行 3・・・江刺 ふじわらの里・胆沢城跡

2012-05-02 22:12:33 | 歴史散歩
午前中で平泉&一関を見終わった為に、一度行ってみたかった江刺と胆沢城跡へ行く事に。
平泉からはR4を北上する事に。
厳美渓から平泉経由で走って行くと、駐車場に入る車は大渋滞。
JR東北線の町から離れた高架下の駐車場まで、待ちの状態。
何とラッキーだったのか!と思いながら平泉を後にする。
前沢を通過し江刺を目指す。
行き先はNHK大河ドラマ「炎立つ」以来のロケ地となっている、「江刺 ふじわらの里」である。
ロケセットが並ぶ中を歩ける感じで、今放映している「平清盛」も京都の街を凱旋して来るシーン等で使われているそうだ。
ここには模造された金色堂もあるが、意外にちゃっちくガッカリ感は否めない。(笑)
セットを見学していくと、藤原経清の館のシーンやらいろいろ光景が思い出される。
当時エキストラとして参加された年配の方の話も聞けて、期待以上に楽しめました。

そして最初の予定に入れてなかった、東北で一番行きたかった場所へ向かう。
現存しない城跡「胆沢城」である。
土塁等が復元されているだけ、カミさんはつまらないだろうな?と思っていたので、最初から何も無いよと言ってありました。
この胆沢城は、秋に行った多賀城からの前線基地であり、多賀城の後に鎮守府となった場所である。
鎮守府となる前、城ではなく柵として整備していた胆沢の地を明け渡した蝦夷の棟梁阿弖流為(あてるい)は坂上田村麻呂へ降伏したとされる。
広大な田圃の真ん中にある胆沢城跡は、やはり過去を連想させるモノは何も無く発掘調査後に作られた土塁跡等のみの寂しい所であった。
しかし、川越・姫路ナンバーに乗って来られた方が後からいらっしゃって、同じ様に胆沢のこの地を見られていたのが物凄く嬉しかったです。(カミさんは、私以外にもいた事に驚いていましたが!)

この日はこれでお終い。
水沢ICから東北道を南下し、仙台まで。。。久々の仙台。。。ではなく約20日ぶりの仙台宿泊でした。(笑)


阿弖流為に関しては、巣伏の戦いが有名である。
征東将軍:紀古佐美(きのこさみ)率いる1万に近い朝廷軍の中軍後軍4000に対して、わずか300で攻撃を仕掛け1200の友軍を使い朝廷軍に多大な損害を与えた戦いである。
この時の蝦夷軍数名に対し、朝廷軍の戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害と「日本紀略」に記載されている。
寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない・・・と各方面の書物にも書かれている。

その後は10万の朝廷軍に対して3万で挑んで勝ったり、結局最後の戦いで征夷大将軍:坂上田村麻呂が出て来て降伏するまでは勝ち続けた蝦夷軍を率いたのは阿弖流為と軍師である母礼(もれ)であった。
坂上田村麻呂と違って、阿弖流為はその後の文献に名を残していず、歴史上まだまだ謎に満ちた存在である。

阿弖流為を簡単に読むには、高橋克彦氏の著書「火怨」を読むのが一番判り易いでしょうか!
読み応えありでお薦めです。

マニアックかも知れませんが、増々東北の歴史にのめり込みそうである。(笑)

東北旅行 1・・・中尊寺・毛越寺・達谷窟

2012-05-01 23:59:26 | 歴史散歩
4月29-30日は、カミさんと2人で東北歴史散策1泊2日の強行旅行でした。(笑)
出発は29日の深夜0時10分頃、平泉まで約500kmを一気に。
この距離を走ったのはエクストレイルでは初めてでしたが、渋滞に全く遭わず平泉到着は早朝6時。
早過ぎたのですが早起きは三文の得と言いまして、中尊寺に上る参道はガラガラの貸し切り。
桜も満開で関東で出来なかった花見をしに行った気分。
到着時は怪しい天気だったのですが、徐々に晴れて来て青空。
朝は良く見えなかった束稲山(たばしねやま)も顔を出す。
秋に来た時は紅葉真っ盛りでしたが、今回は桜で賑わいしかも早朝の空いた時間はじっくり見られるので、最高でした。
前回天気が悪く見えなかった束稲山をじっくり眺める。
この山は歴史上重要な拠点となった所であり、東北の歴史。。。蝦夷(えみし)の歴史はここから阿弖流為と共に歴史の表舞台に出て来た場所である。
平安遷都の時代に阿弖流為達が走り回るのを思い起こしながら衣川付近を車で走って来ました。

平泉が栄え出したのは、そこから百年後位でしょうか。
藤原清衡の時代まで待たないと駄目でした、そこから藤原四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)の栄華と共に鎌倉に平泉文化として、今にその姿を残しています。
実は平安京に次ぐ大都市として、最盛期は15万人の人口があったと言うが、現在は7000人程度と寂しいですが現在は平泉町としてその名を停めている。

前回、押せ押せで見ただけだった金色堂も、一番で誰も居ない状態でじっくりと見られた。
奈良平安の東北の歴史は大好きなので、いろいろ思い描きながら見学出来今回の平泉訪問は感慨深い思い出となりました。

そしてその足で毛越寺へ、こちらも早く9時15分頃。
まだまだ早起きの時間でした。
カミさんはこちらを期待し過ぎていたので、ちょっとガッカリだった様ですが、春の枝垂桜が素敵にポカポカと暖かい陽射しの中に咲いていました。
池の石の配置等は見事な物で、いろいろ構図に悩みながら撮影していました。(笑)

山門を出て駐車場へ向かう所でサプライズが!
平泉小学校の庭で桜の木を発見。
何と見事な枝垂桜であった。

これにはビックリ今回の旅行中、最高の桜だった気がします。
そして次は達谷窟(たっこくのいわや)。
途中道すがら気になった鬘岩も、関連のあるモノだった事を後で知る。
歴史散策は、関連したモノがどう繋がって行くのか?・・・これが面白い。(笑)
蝦夷を討伐(個人的には恭順させたので制圧の様な気が・・・)した坂上田村麻呂が建てたモノと言われている、達谷窟毘沙門堂、ここは日本国中の社寺縁起にこの窟の名が記されている位、奥州で最も著名な窟である。
田村信仰発祥の地でもあります。
なかなか行ける所ではないので、今回は是非と思い寄って来た。
八幡太郎義家が馬上より彫ったとされている、顔面大佛も見られた。

しかしまだ10時45分位。
・・・続く

多賀城跡・・・多賀城碑

2011-11-10 23:51:00 | 歴史散歩
多賀城は天平時代の737年に、「多賀柵」として日本史文献上に登場する。
多賀城碑には、創建はそれ以前の724年に大野東人(おおののあずまびと)により創建され、762年に藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が修造した事が記されている。多賀柵は、780年に多賀城と改められて現在に至る。。。と言っても江戸時代には廃絶後の遺跡として記録されていて、松尾芭蕉等の歌人も訪れている。



この城は陸奥国(福島・宮城・岩手)を治める国府であるばかりか、隣国の出羽国(山形・秋田)まで管轄する、北端の行政府のあった場所でもある。

場所的には仙台と松嶋の間に位置し、仙台平野にある低丘陵に建てられていた城である。
一辺約900mの不正な方形をなしており、周囲には土を固めてその上に屋根を掛けた「築地(ついじ)」で区画されている。
築地は厚さが3m、高さが4mを越すと想定されている。

征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により、胆沢の地に鎮守府が移されるまでは、国府と鎮守府の両方が置かれていた地である。

国府がここに移って来る前は、仙台市太白区にある郡山遺跡にあったと推定され、地震による津波被害から難を逃れる為に小丘陵地である多賀城に移管されたとの文献もあるようだ。

しかし多賀城も、今年の3月に起こった東日本大震災時に良く比較されていた、平安時代の「貞観の大地震(869年)」で地震及び津波被害に遭った為に、その後一度は復興して行ったようですが、十世紀後半には維持・管理されなくなり崩壊され歴史の表舞台から消えて行ったようである。

江戸初期に土の中より発見された多賀城碑は、表を下(土中)にして埋まっていた為に風雪に曝されず、1000年近くの年月でも表面に彫られた文字が何とか読めたとの事、そのまま立てられて風雪に曝されていた所、多賀城へ訪れた芭蕉により折角の碑文が薄れてしまっているとの記があり、水戸光圀公により仙台藩伊達家に保存命令が発せられ、覆堂が建てられ現在に至っていると言う文献もあるようだ。
江戸時代に掘られた石碑が傍にあったが、彫られた文字が全く読めないのに対して、この多賀城碑は読めるのである。
何れにしろ、こんな覆堂だけで保存された約1300年前に彫られた文字が読める事に驚き、覆堂だけで保存するのは問題があるかも知れないとも感じました。
この碑は群馬県高崎市吉井にある多胡碑(たごひ)、栃木県大田原市湯津上にある那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)と共に、日本三大古碑の一つである。
これで私は三碑を目に焼き付ける事が出来ました。



多賀城の発掘は昭和38に開始され、現在も尚発掘調査中の城跡である。
その都度毎にいろいろな発見があるようで、目が離せない遺跡でもあります。

出土した文献に寄ると、北上川は日高見川、今の栗原は伊治(これはり)等、読み方が似ているが当時の発音から都人が聞いた言葉に変えられているのか?それと時代を経て変わって来ているのか?と言った似たような地名が書かれているようだ。

以前1~2度訪れているのですが、小さい頃だった為記憶が定かでなく、丁度出張中でありながら休みが取れたので出かけて来ました。

ここにある多賀城碑は以前、文体が古風を模しているが「集字体」であったり、彫り方が近代の「箱彫り」と似ていた為、と碑文の内容にも官位・当時は渤海とされていた鞨国の文字、常陸国との距離の相違等、不明な部分があり、江戸時代に仙台藩が作った偽作説が浮上、昭和に入ってからの発掘調査により文献等の出土から文体の記述等より762年前後に彫られた碑である事が判明し、1998年に重要文化財に指定されている。

多賀城跡下の空地にも今年の震災の廃材がかなり積まれており、JR東北本線より海側の被害がかなりあったようである。
廃材に関しては見ていると涙が出てしまい、写真を撮るどころではありませんでした。



現在、ここを舞台に始まった「前九年後三年の役」を描いた高橋克彦氏著書の「炎立つ」(NHK大河ドラマでもやりました)を15年振り位で読み返して見ようと思い、仙台で購入して来ました。

ついでに、それ以前の蝦夷(えみし)の阿弖流為(あてるい)と坂上田村麻呂との激戦で奥六郡平定の舞台を描いた「火怨(かえん)」も読んでみる事に。。。こちらは現在発注中!

箕輪城跡

2011-10-18 06:29:29 | 歴史散歩
1500年前後に高崎市浜川を拠点にしていた長野氏が築城した城。
築城者は長野業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業正(なりまさ)、業盛(なりもり)の4代に渡り長野氏の拠点とされておりました。
業政の時代に最盛期を向え、西上野の諸将と婚姻関係を結んで勢力を拡大、永禄年間に入ると西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の相甲越三つ巴の戦いの舞台へ変貌します。
長野業正は関東管領山内上杉家(上杉憲政)に、最後まで尽くしていた事でも有名です。
武田信玄の西上野侵攻により、長野氏の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)が落城、時の当主業盛は難航不落の城と言われた箕輪城に籠城し最後まで戦い抜きます。

この業盛は業正の次男であるが、川越夜戦により兄の吉業(よしなり)が討死し永禄4年に業正の死により、わずか14歳で家督を継いだ。
父兄に劣らず武勇に優れていたそうだ。

何度も信玄の侵攻を撃退して来た父に代わり、指揮をしたが父の死後一度は撃退するも、戦上手な信玄の2万大軍勢に押し寄せられ、箕輪衆を率いて懸命に抗戦した永禄9年(1566年)に、本丸北側御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み19歳の若さで一族郎党と共に自害したそうだ。
業盛の息子亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれ落ち延び城の傍の極楽院に匿われ、後に出家し鎮良と名乗り極楽院2代目院主となる。
弟の正宣(まさのぶ)はその後信玄に仕え、弟の業親(なりちか)の子業実(なりざね)は武田滅亡後、箕輪を領した徳川四天王の井伊直政の家臣となり4000石を有し、彦根藩の次席家老を務めた。

幕末の大老で有名な井伊直弼の師とされる長野主膳は、定かではないそうですが業盛の子孫と言われているそうだ。
彦根まで井伊に従った箕輪衆は3代目の業正の様に最後まで主を守り立て、彦根の地でも現代まで続いている。


そして本題の箕輪城である。
この城は高崎い移城した事により廃城となる、堀を含め難攻不落と言われていた城なので、その時に再利用をされないようにあちこち崩されて現在に至る。

大規模な堀や石垣などは残っており、当時の様子を偲ばせております。
中でも圧巻は、城の本丸を中心に最大幅30m深さ10mの堀である。
余りにも深い為に、吊橋を作り行き来していた事が最近解明されたとか?
そして城の中央部を南北に分断する役割の大堀切、搦め手から大手門方向にある榛名白川までの約300mの大堀切は戦後植えられた杉があり良く判らなかったそうですが、最近調査の為に伐採が始まった為素通しになりつつあり見応え十分である。

一時期北条氏が治めていた事もあり、小田原城に似た作りにもなっている。
現在は江戸から遡り北条氏時代までの調査が進んでいるとの事であり、長野氏までの調査には至ってないとの事である。
今残っている石垣や大手門からの登城ルートは井伊氏の時代のものだそうで、これは城主の権威を知らしめる為に作られた石垣や道筋のようです。
特に石垣は、笑い積みと言う積み方で大きな石の周りを小さな石で、笑っているかの様に積む技法だそうです。
石垣を正面に見た写真の左側は刺さった様に積まれているが、これは井伊氏が廃城にした後地元住民達が昔を忍んで復元する為に石を刺して積んだ物だそうで、右半分の笑い積みの様にしっかりした積み方ではないそうだ。


これからの解明に興味が湧きます。
天守閣の素晴らしい城だけが、城ではありません。
城好きならば、是非一度は訪れてみるべきだと思います。
いや・・・この城を見なくして戦国の城は語れないかも知れません。

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歴史散策の旅へ

2011-10-10 22:43:54 | 歴史散歩
歴史散策の旅へ出掛けて来ました。
最初は、信玄を持ってしてもがなかなか落とせなかった、群馬の箕輪城。
そして榛名山に榛名湖。。。

伊香保温泉に宿泊し

翌日は
長野の松代へ行き、松代城址(海津城)と真田宝物館、真田館。
八幡原の古戦場跡。
信玄の弟の典厩信繁を祭った典厩寺へ。

2日目は、どれもGunCannon大佐とむか~し行った場所でした。(笑)
宿泊は鹿教湯温泉へ宿泊。

本日3日目は

上田城を見て、そのまま野辺山方面へ南下し松茸を買い、清泉寮でソフトクリームを食べて、須玉から中央高速で帰宅。
松茸をラゲッジに車載した車は、ラゲッジを開ける度に松茸の香りが。。。


※コメントを頂いた皆様に返事も書けずすみませんでした。
何せ度に出ていたので。。。