山中城跡へ行ってきました!
三島の方なら知っている人が多いかと思いますが、箱根から三島に下るR1の片隅に、戦国時代の山中城跡が旧東海道の脇にあります。(伊豆国田方郡)
北条氏の居城小田原城の支城として築城され、北条氏滅亡以降廃城になった城です。
この城の堀は、畝堀と障子堀と言うかなり珍しい構造になっており、最近の城マニアには注目を浴びている城だそうな!(実際に平日の月曜なのですが駐車場が一杯になるほど見学者がいました。
空堀の堀底に土手を掘り直交に区画したものが畝堀、空堀の堀底に掘った土手を障子の桟(さん)状に区画したものが障子堀と言うそうです。
今まで何度か通過していたのですが、そんな城だと言う事を知らずでしたが、ほぼ1年前に八王子山城跡に登った時にガイドさんからこの城の事を聞き、石を全く使用していない土城とのことで、行かなければと思ったいたのが1年かけてやっと見る事が出来ました。
見事に復元された畝堀や障子堀は見事そのもの。
西曲輪や西の丸から見事な富士山が、すり鉢曲輪からは伊豆半島に煌めく駿河湾が望め、展望も最高でした。
なかなか歩き甲斐のある城跡でした。
史実によれば・・・・・以下、三島観光協会HPより引用
秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行ないました。
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。
北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。
堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。
昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。
三島の方なら知っている人が多いかと思いますが、箱根から三島に下るR1の片隅に、戦国時代の山中城跡が旧東海道の脇にあります。(伊豆国田方郡)
北条氏の居城小田原城の支城として築城され、北条氏滅亡以降廃城になった城です。
この城の堀は、畝堀と障子堀と言うかなり珍しい構造になっており、最近の城マニアには注目を浴びている城だそうな!(実際に平日の月曜なのですが駐車場が一杯になるほど見学者がいました。
空堀の堀底に土手を掘り直交に区画したものが畝堀、空堀の堀底に掘った土手を障子の桟(さん)状に区画したものが障子堀と言うそうです。
今まで何度か通過していたのですが、そんな城だと言う事を知らずでしたが、ほぼ1年前に八王子山城跡に登った時にガイドさんからこの城の事を聞き、石を全く使用していない土城とのことで、行かなければと思ったいたのが1年かけてやっと見る事が出来ました。
見事に復元された畝堀や障子堀は見事そのもの。
西曲輪や西の丸から見事な富士山が、すり鉢曲輪からは伊豆半島に煌めく駿河湾が望め、展望も最高でした。
なかなか歩き甲斐のある城跡でした。
史実によれば・・・・・以下、三島観光協会HPより引用
秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行ないました。
しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。
北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。
堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。
昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。