■メイン写真
飯盛城址の石垣に萌える
■今回のコース
野崎駅→野崎観音→観頂ノ行場→七曲り→辻ノ新池→絵日傘峠→飯盛山→
四条畷神社→四条畷駅
写真のストックがちょっと古くなったので、河内飯盛山を軽く歩いてきた。
野崎観音(慈眼寺)。
すぐ裏手を上がったところが、野崎城址だ。
最近、戦国最初の天下人(畿内制圧)と言われる三好長慶が飯盛城を居城とした頃、
ここが出城として使われた。
飯盛山を目指す。まず北条からの林道に合流する。
ヒガンバナがたくん咲いていた。
廃墟となっている妙成寺跡には、不動明王像が並んでいる。
灌頂ノ滝に寄り道。滝の落ち口には自然のものではなく、石でできた樋がつけられているため
水流は細い一条の流れとなって落ちていく。
七曲りに入り、辻ノ新池を過ぎる。絵日傘峠の手前は、ちょっとした急登だ。
飯盛山直下、飯森山城址の虎口にはちょっとした石垣が残る。
飯盛山の山頂には、イケメン楠正行像が立つ。
正行は、楠正成の嫡子。南北朝時代の正平三年(1348)、四條畷の戦いで、
北朝方の高師直と戦って討死した。正成との「桜井の別れ」があまりにも有名で、
かなり美化されている。
像の下には、この8月に始まったばかりの「願かけ登山」の願い札奉掲所が設置された。
麓の四条畷神社で「願い札」(初穂料500円)を受け取り、願事を書いて神社に参拝し、
ここに「願い札」を奉掲するものである。
要するに、今回はこの写真を撮りに、わざわざ登ってきたのだ。
山頂の北側には展望台があるが、老朽化で2階に上がれない。
それでも、地べたからの眺めも捨てたものではないのだ。
飯盛山城は、南北朝時代の戦いのあと、戦国時代になって三好長慶が摂津国から
移ってきて、ここを居城としたのだが、城に石垣を設けたのは当時、先駆けとなったものという。
二の丸跡も、なかなかの展望である。
旧摂津国、河内国が一望できるあたり、いいい位置に城を構えたといえる。
四条畷神社への下りは、一部にまっすぐな急坂がある。
御机神社との分岐で左折し、四条畷神社へ下る。
四条畷駅に下る途中、なくなっていた大鳥居が復活していた。平成3年に建てられたもの。
登山道そのものは、大きな変化がないが、こうした細かい変化をできるだけきっちり
押さえておきたいから手間がかかる。
飯盛城址の石垣に萌える
■今回のコース
野崎駅→野崎観音→観頂ノ行場→七曲り→辻ノ新池→絵日傘峠→飯盛山→
四条畷神社→四条畷駅
写真のストックがちょっと古くなったので、河内飯盛山を軽く歩いてきた。
野崎観音(慈眼寺)。
すぐ裏手を上がったところが、野崎城址だ。
最近、戦国最初の天下人(畿内制圧)と言われる三好長慶が飯盛城を居城とした頃、
ここが出城として使われた。
飯盛山を目指す。まず北条からの林道に合流する。
ヒガンバナがたくん咲いていた。
廃墟となっている妙成寺跡には、不動明王像が並んでいる。
灌頂ノ滝に寄り道。滝の落ち口には自然のものではなく、石でできた樋がつけられているため
水流は細い一条の流れとなって落ちていく。
七曲りに入り、辻ノ新池を過ぎる。絵日傘峠の手前は、ちょっとした急登だ。
飯盛山直下、飯森山城址の虎口にはちょっとした石垣が残る。
飯盛山の山頂には、イケメン楠正行像が立つ。
正行は、楠正成の嫡子。南北朝時代の正平三年(1348)、四條畷の戦いで、
北朝方の高師直と戦って討死した。正成との「桜井の別れ」があまりにも有名で、
かなり美化されている。
像の下には、この8月に始まったばかりの「願かけ登山」の願い札奉掲所が設置された。
麓の四条畷神社で「願い札」(初穂料500円)を受け取り、願事を書いて神社に参拝し、
ここに「願い札」を奉掲するものである。
要するに、今回はこの写真を撮りに、わざわざ登ってきたのだ。
山頂の北側には展望台があるが、老朽化で2階に上がれない。
それでも、地べたからの眺めも捨てたものではないのだ。
飯盛山城は、南北朝時代の戦いのあと、戦国時代になって三好長慶が摂津国から
移ってきて、ここを居城としたのだが、城に石垣を設けたのは当時、先駆けとなったものという。
二の丸跡も、なかなかの展望である。
旧摂津国、河内国が一望できるあたり、いいい位置に城を構えたといえる。
四条畷神社への下りは、一部にまっすぐな急坂がある。
御机神社との分岐で左折し、四条畷神社へ下る。
四条畷駅に下る途中、なくなっていた大鳥居が復活していた。平成3年に建てられたもの。
登山道そのものは、大きな変化がないが、こうした細かい変化をできるだけきっちり
押さえておきたいから手間がかかる。