■メイン写真
NHK朝ドラ「スカーレット」のロケにも使われた、岩尾池の一本杉
■今回のコース
駐車地→芭蕉句碑→息障寺→岩尾山→林道出合→岩尾池の一本杉→駐車地⇒
瀧樹神社
岩尾山は、飯道山、庚申山とともに甲賀三霊山のひとつとされる。
そのベースとなった息障寺は、山伏だけでなく、甲賀忍者も修練したという。
昨年下見し、ショートコースながらなかなか良かったので、今回、土山の瀧樹神社に
咲く貴重なユキワリイチゲの観察とセットにして登山教室に組み入れてみた。
ちらちら雪が舞う、3月としては寒い一日。
たまに日が差すと、暖かさがありがたかった。
息障寺までは、細い道だがクルマで行ける。しかし、できるだけ山道を歩きたいので
大沢池のほとりの路肩が広くなっているところに駐車し、この標石の分岐から
山道に入る。
一度、車道に合流する。サザンカの花が満開だった。
すぐ先で、芭蕉句碑の標柱のところから再び山道に入る。古い参道である。
ほどなく右に見えてくるのがオーバーハングの巨岩、鐘掛岩だ。
この名からも、山伏たちの行場の中でも重要な場所だったことが想像できる。
鎖がかかっているが、かなり錆びていて、見るからに危険だ。
修験の結界門の形をした「黒門」をくぐる。
黒門をくぐるとすぐ右手にあるのが、曼荼羅岩だ。岩の下をくぐり抜けることができる。
ここも、おそらく胎内くぐりの行場だっただろう。
息障寺のコンパクトな境内。きれいに整えられている。
息障寺は、平安時代初期に伝教大師・最澄が開山した天台宗の寺で、池原延暦寺(いけが
はらえんりゃくじ)とも呼ばれる。
最澄が延暦寺の根本中堂を建てる際にこの地を訪れ、紫雲がたなびくのを不思議に思い
登ってみると、白髪の翁が姿を現し「汝、比叡山を開かんと欲せば、今この山中に七堂
伽藍を試むべし」と告げた。これにより建てられた寺だという。
その後、最澄はこの山中で比叡山建立の用材を確保し「比叡山試みの寺」と呼ばれるように
なった。
また、甲賀側からは「岩尾の不動」、伊賀側からは「槙山の不動」と呼ばれているそうだ。
右の鐘楼の奥から延びる石段を上ると、中段ほどに磨崖地蔵菩薩坐像がある。
南北朝時代の「北朝」側の年号が刻まれているというが、読めない。
石段の右に脇道が分岐しており、数十メートル進むと、丸い花崗岩の八丈岩がある。
現在は展望はないが、かつては絶景の行場だったのか。
石段を登りきる直前には、岩を切り出そうとした矢穴も見ることができる。
そして屏風岩の下を左から回り込むと、奥の院の小祠の上には磨崖不動明王立像を
仰ぎ見る。屏風岩は、崩壊防止のためワイヤーで補強してあり、像高5mの線刻が
見づらいのが悔やまれる。ちなみに室町時代初期の作。
石段を少し戻って、お馬岩のの上に出る。
馬の背中というより、まさに象の背中のようだ。
なお、隣に木魚岩がある。
息障寺を起点に、八十八箇所石仏が設置されている。
これを忠実に全部たどると、先ほど来の巨岩を通り過ぎてしまうので、今日はパス。
屏風岩の上に出ると、鈴鹿山系の南部や布引山系の北部が一望できる。
次に、すぐ帰化側にある展望台へ。
こちらも絶景。直下には岩尾池や大沢池、向こうに鈴鹿山系、十二坊などが見える。
境内のエリアを出て、15分とかからず岩尾山の山頂(三角点峰)へ。
林に囲まれていて、展望はない。
尾根にはアセビが、いち早い春を告げていた。
さらに数分先にある西峰を経て、その100mほど先の分岐を右の尾根へ。
雑木林の尾根道は明瞭だが、後半はなかなかの急傾斜となる。
最後に小さな沢を渡ると、車も通れる幅の未舗装林道に出る。
朝、クルマを停めた林道甲南阿山線に出て、岩尾池の水際にたたずむ一本杉に
寄ってみる。滋賀県の自然記念物に指定されており、幹回り4.7m、高さ15m、
樹齢1,000年以上とされている。
最澄がここで食事したあとに箸を地面に突き刺すと、たちまち芽吹いて、この杉に
なったと伝わる。
ちなみに岩尾池は、明治時代に農業かんがい用としてつくられた。
昼食後、クルマで土山の瀧樹(たぎ)神社へと移動。
もともとは瀧神社という名だったが、立派な御神木があり、「樹」の字を間に
入れて改名、瀧樹神社となったという。
瀧樹神社のご神木「天狗杉」は、樹高約38m、樹齢約6~700年とのこと。
境内には、絶滅危惧増大種であるユキワリイチゲの群落が残る。県の保護区にも
指定されている。
すばらしい群落。
アップで。
いつまでもこの群落が残りますように。
NHK朝ドラ「スカーレット」のロケにも使われた、岩尾池の一本杉
■今回のコース
駐車地→芭蕉句碑→息障寺→岩尾山→林道出合→岩尾池の一本杉→駐車地⇒
瀧樹神社
岩尾山は、飯道山、庚申山とともに甲賀三霊山のひとつとされる。
そのベースとなった息障寺は、山伏だけでなく、甲賀忍者も修練したという。
昨年下見し、ショートコースながらなかなか良かったので、今回、土山の瀧樹神社に
咲く貴重なユキワリイチゲの観察とセットにして登山教室に組み入れてみた。
ちらちら雪が舞う、3月としては寒い一日。
たまに日が差すと、暖かさがありがたかった。
息障寺までは、細い道だがクルマで行ける。しかし、できるだけ山道を歩きたいので
大沢池のほとりの路肩が広くなっているところに駐車し、この標石の分岐から
山道に入る。
一度、車道に合流する。サザンカの花が満開だった。
すぐ先で、芭蕉句碑の標柱のところから再び山道に入る。古い参道である。
ほどなく右に見えてくるのがオーバーハングの巨岩、鐘掛岩だ。
この名からも、山伏たちの行場の中でも重要な場所だったことが想像できる。
鎖がかかっているが、かなり錆びていて、見るからに危険だ。
修験の結界門の形をした「黒門」をくぐる。
黒門をくぐるとすぐ右手にあるのが、曼荼羅岩だ。岩の下をくぐり抜けることができる。
ここも、おそらく胎内くぐりの行場だっただろう。
息障寺のコンパクトな境内。きれいに整えられている。
息障寺は、平安時代初期に伝教大師・最澄が開山した天台宗の寺で、池原延暦寺(いけが
はらえんりゃくじ)とも呼ばれる。
最澄が延暦寺の根本中堂を建てる際にこの地を訪れ、紫雲がたなびくのを不思議に思い
登ってみると、白髪の翁が姿を現し「汝、比叡山を開かんと欲せば、今この山中に七堂
伽藍を試むべし」と告げた。これにより建てられた寺だという。
その後、最澄はこの山中で比叡山建立の用材を確保し「比叡山試みの寺」と呼ばれるように
なった。
また、甲賀側からは「岩尾の不動」、伊賀側からは「槙山の不動」と呼ばれているそうだ。
右の鐘楼の奥から延びる石段を上ると、中段ほどに磨崖地蔵菩薩坐像がある。
南北朝時代の「北朝」側の年号が刻まれているというが、読めない。
石段の右に脇道が分岐しており、数十メートル進むと、丸い花崗岩の八丈岩がある。
現在は展望はないが、かつては絶景の行場だったのか。
石段を登りきる直前には、岩を切り出そうとした矢穴も見ることができる。
そして屏風岩の下を左から回り込むと、奥の院の小祠の上には磨崖不動明王立像を
仰ぎ見る。屏風岩は、崩壊防止のためワイヤーで補強してあり、像高5mの線刻が
見づらいのが悔やまれる。ちなみに室町時代初期の作。
石段を少し戻って、お馬岩のの上に出る。
馬の背中というより、まさに象の背中のようだ。
なお、隣に木魚岩がある。
息障寺を起点に、八十八箇所石仏が設置されている。
これを忠実に全部たどると、先ほど来の巨岩を通り過ぎてしまうので、今日はパス。
屏風岩の上に出ると、鈴鹿山系の南部や布引山系の北部が一望できる。
次に、すぐ帰化側にある展望台へ。
こちらも絶景。直下には岩尾池や大沢池、向こうに鈴鹿山系、十二坊などが見える。
境内のエリアを出て、15分とかからず岩尾山の山頂(三角点峰)へ。
林に囲まれていて、展望はない。
尾根にはアセビが、いち早い春を告げていた。
さらに数分先にある西峰を経て、その100mほど先の分岐を右の尾根へ。
雑木林の尾根道は明瞭だが、後半はなかなかの急傾斜となる。
最後に小さな沢を渡ると、車も通れる幅の未舗装林道に出る。
朝、クルマを停めた林道甲南阿山線に出て、岩尾池の水際にたたずむ一本杉に
寄ってみる。滋賀県の自然記念物に指定されており、幹回り4.7m、高さ15m、
樹齢1,000年以上とされている。
最澄がここで食事したあとに箸を地面に突き刺すと、たちまち芽吹いて、この杉に
なったと伝わる。
ちなみに岩尾池は、明治時代に農業かんがい用としてつくられた。
昼食後、クルマで土山の瀧樹(たぎ)神社へと移動。
もともとは瀧神社という名だったが、立派な御神木があり、「樹」の字を間に
入れて改名、瀧樹神社となったという。
瀧樹神社のご神木「天狗杉」は、樹高約38m、樹齢約6~700年とのこと。
境内には、絶滅危惧増大種であるユキワリイチゲの群落が残る。県の保護区にも
指定されている。
すばらしい群落。
アップで。
いつまでもこの群落が残りますように。