■メイン写真
8分咲きくらいのミツマタ
■今回のコース
西山天王山駅→小倉神社→小倉山→奥の山展望広場→サントリー山→天王山→
(ミツマタロード)→宝積寺→山崎駅
最近ちょくちょく評判を聞くようになった天王山のミツマタロードを歩いてきた。
天王山界隈も、定期的に歩いておかないといけないエリアなので、ちょうどいい機会だ。
阪急西山天王山駅から、まずは小倉神社へ。
乙訓地方では、最も古い延喜式内社。背後の竹林に、4世紀末頃に築かれた前方後円墳・
鳥居前古墳がある。それが神格化されて神社ができたようだ。
天正10年(1582年)の山崎合戦で、羽柴秀吉が家臣の片桐祐作を本社に遣わし、
戦勝祈願をしたという。
神社の左手が登山口だ。
「カリガネソウの小径」の立札を見ながら、竹薮の中、黄緑色の橋を渡る。
次の分岐を右へ(左はもう一つ橋があり、奥の山見晴台へ続く)。
森の学舎を右にみる。
竹が勢力を伸ばし、雑木林を浸食してきたことから、これを食い止めようと
適切な森林管理が進められている。
ちょっとした登りをこなす。この日は4月並みの気温。暑くて汗だくになった。
天王山へ続く主稜線に出る。休憩ベンチが充実しすぎているのがこの周辺の特徴だ。
一旦、支脈に外れて5分で小倉山のピークに着く。
「小倉山」の描写は、安永9年(1780年)の「都名所図会」にもある。
次に、奥の山展望広場にも寄り道してみた。
この日は花粉の飛散が多く、霞がかかったようだった。
またまた寄り道。サントリー山。いつのころからか、このピークをそう呼ぶ人が
出てきた。標高295mのお手製の山名板がかかる。
ここも手作りっぽい複数のベンチとテーブルがある。
そして、おなじみの天王山の山頂へ。ここは山崎城址でもある。
まず天王山の名の由来だが、麓にある酒解神社が、かつては山崎天王社と呼ばれて
いたことによる。山崎天王社には、牛頭天王が祀られている。
広い山頂には、山崎の戦いの説明パネルがある。
天正10年(1582年)、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、翌年、ここに山崎城を
築き、大山崎を城下町として保護した。そして、千利休らと大山崎で茶会を開いた。
しかし、大坂築城が本格化すると、天正12年に山崎城は破城となり、天守も
取り壊されたという。わずか2年しか、山崎城は機能していなかったのか!
井戸跡も残る。あまりにも山頂に近いので、湧き水が出たというより、雨水を
溜めたと考えられている。
山頂部から、来た道を少し戻って、南西に延びる脇道に入る。
すぐの分岐は左へ。このあたりから、早くも若いミツマタが現れる。
花粉症で嗅覚が鈍っている身にも、ミツマタの芳香がわかるほどだ。
上空に高圧電線をみて、左に鋭角に折れるとすぐに作業林道の分岐。
この切通しの道をとる。
緩やかに坂を下ると、そこはミツマタの香りに満ちている。
青貝山や学能堂山のように、エリア一帯が大群落になっているわけではなく、
作業林道に沿って、まるで並木のようにミツマタが分布している。
だいたい8分咲きくらいで、まだしばらく楽しめそう。
山頂には行かず、ここがゴールというご年配パーティもたくさんおられ、
人気ぶりがうかがえた。
静かな竹薮の道を下っていく。
養護施設からまっすぐ、山崎駅の北側に下りることもできるが、ここは宝積寺を
経由するべき。
神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願により行基が開いた歴史ある寺。
宝積寺のご自慢は、この三重塔。
山崎の戦いの後、秀吉が一夜で建立したという伝説がある。
今日、このルートを歩いただけで、秀吉の極めてスピーディな行動力と、
臨機応変な方針変更も厭わない判断力を実感できた。
8分咲きくらいのミツマタ
■今回のコース
西山天王山駅→小倉神社→小倉山→奥の山展望広場→サントリー山→天王山→
(ミツマタロード)→宝積寺→山崎駅
最近ちょくちょく評判を聞くようになった天王山のミツマタロードを歩いてきた。
天王山界隈も、定期的に歩いておかないといけないエリアなので、ちょうどいい機会だ。
阪急西山天王山駅から、まずは小倉神社へ。
乙訓地方では、最も古い延喜式内社。背後の竹林に、4世紀末頃に築かれた前方後円墳・
鳥居前古墳がある。それが神格化されて神社ができたようだ。
天正10年(1582年)の山崎合戦で、羽柴秀吉が家臣の片桐祐作を本社に遣わし、
戦勝祈願をしたという。
神社の左手が登山口だ。
「カリガネソウの小径」の立札を見ながら、竹薮の中、黄緑色の橋を渡る。
次の分岐を右へ(左はもう一つ橋があり、奥の山見晴台へ続く)。
森の学舎を右にみる。
竹が勢力を伸ばし、雑木林を浸食してきたことから、これを食い止めようと
適切な森林管理が進められている。
ちょっとした登りをこなす。この日は4月並みの気温。暑くて汗だくになった。
天王山へ続く主稜線に出る。休憩ベンチが充実しすぎているのがこの周辺の特徴だ。
一旦、支脈に外れて5分で小倉山のピークに着く。
「小倉山」の描写は、安永9年(1780年)の「都名所図会」にもある。
次に、奥の山展望広場にも寄り道してみた。
この日は花粉の飛散が多く、霞がかかったようだった。
またまた寄り道。サントリー山。いつのころからか、このピークをそう呼ぶ人が
出てきた。標高295mのお手製の山名板がかかる。
ここも手作りっぽい複数のベンチとテーブルがある。
そして、おなじみの天王山の山頂へ。ここは山崎城址でもある。
まず天王山の名の由来だが、麓にある酒解神社が、かつては山崎天王社と呼ばれて
いたことによる。山崎天王社には、牛頭天王が祀られている。
広い山頂には、山崎の戦いの説明パネルがある。
天正10年(1582年)、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、翌年、ここに山崎城を
築き、大山崎を城下町として保護した。そして、千利休らと大山崎で茶会を開いた。
しかし、大坂築城が本格化すると、天正12年に山崎城は破城となり、天守も
取り壊されたという。わずか2年しか、山崎城は機能していなかったのか!
井戸跡も残る。あまりにも山頂に近いので、湧き水が出たというより、雨水を
溜めたと考えられている。
山頂部から、来た道を少し戻って、南西に延びる脇道に入る。
すぐの分岐は左へ。このあたりから、早くも若いミツマタが現れる。
花粉症で嗅覚が鈍っている身にも、ミツマタの芳香がわかるほどだ。
上空に高圧電線をみて、左に鋭角に折れるとすぐに作業林道の分岐。
この切通しの道をとる。
緩やかに坂を下ると、そこはミツマタの香りに満ちている。
青貝山や学能堂山のように、エリア一帯が大群落になっているわけではなく、
作業林道に沿って、まるで並木のようにミツマタが分布している。
だいたい8分咲きくらいで、まだしばらく楽しめそう。
山頂には行かず、ここがゴールというご年配パーティもたくさんおられ、
人気ぶりがうかがえた。
静かな竹薮の道を下っていく。
養護施設からまっすぐ、山崎駅の北側に下りることもできるが、ここは宝積寺を
経由するべき。
神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願により行基が開いた歴史ある寺。
宝積寺のご自慢は、この三重塔。
山崎の戦いの後、秀吉が一夜で建立したという伝説がある。
今日、このルートを歩いただけで、秀吉の極めてスピーディな行動力と、
臨機応変な方針変更も厭わない判断力を実感できた。