1990年代の競馬界を代表するスターホースの訃報がまたしても飛び込んできました。現役時代「帝王」の愛称で親しまれ、1991年の2冠馬&1993年の有馬記念などGI4勝を挙げたトウカイテイオーが、30日に急性心不全のため死去しました。25歳でした。
報道によると、30日の午後3時30分ごろ、繫養先の社台スタリオンステーションの功労馬用厩舎内の馬房で突然倒れ、そのまま息を引き取ったそうです。
主戦騎手の1人だった安田隆行調教師は、オーナーの内村正則氏から「テイオー急死」の知らせを聞き、「もう25歳でしたね。年齢から、いずれはそうなる(死ぬ)と思ってはいましたが、本当にそうなると寂しさでいっぱいです」とコメントし、「トウカイテイオーは安田隆行を本当の男にしてくれた、自分にとって最高の馬です」とテイオーの死を悼みました。
トウカイテイオーは、1988年4月20日に父・シンボリルドルフ、母・トウカイナチュラルの間に生まれ、1990年12月1日に中京競馬場の新馬戦でデビュー。デビューから無傷の4連勝で牡馬クラシック最有力候補となり、91年4月のクラシック第1戦・皐月賞では直線で抜け出して1冠目を獲得。2戦目の日本ダービーでは、残り200mで先頭に立つと、最後は2着に3馬身差の快勝。破竹の6連勝で2冠を達成。しかし、ダービー後に「左第3足根骨骨折」が判明し、父・ルドルフに次ぐ無敗3冠馬の夢が断たれてしまいました。
ダービーまでは順風満帆に歩んでいたのですが、骨折を機に競走馬人生が一転。1992年に復帰戦の産経大阪杯を勝利し、デビューからの連勝記録を7に伸ばしますが、その次の春の天皇賞ではメジロマックイーンとの直接対決に挑むも5着敗戦。初黒星を喫すると同時に右前脚の剥離骨折が判明し、春シーズン全休。約半年の休養期間を経て、天皇賞(秋)に参戦するも7着。2連敗で迎えたジャパンカップでは、単勝5番人気と評価を落としましたが、ナチュラリズムとの叩き合いを制し優勝。完全復活を果たしテイオー時代の再来かと思われましたが、年末の有馬記念で11着と惨敗。ファン投票1位&1番人気の期待を大きく裏切ってしまいました。
93年、1月に左中臀筋を痛めると、宝塚記念直前に左前トウ骨の剥離骨折が判明。テイオーにとってこれが3度目の骨折。相次ぐ故障により休養期間が長引き、12月26日の有馬記念までずれ込みました。道中は中団の位置でレースを進めると、3,4コーナーで4番手まで浮上。最後の直線では先頭を行くビワハヤヒデにピッタリつけ、ラスト100mでビワハヤヒデを捕らえて差し切り勝ち。363日ぶりの実戦で奇跡の復活勝利を遂げたのです。しかし、その奇跡の代償は大きく、翌年の春に筋肉痛、さらには左前トウ骨を再び骨折。4度目の骨折でそのまま現役引退を余儀なくされました。通算成績は12戦9勝。
引退後は種牡馬となり、トウカイポイント(2002年マイルチャンピオンシップ)、ヤマニンシュクル(2003年阪神ジュベナイルフィリーズ)、ストロングブラッド(2005年かしわ記念)のGI馬3頭を輩出しました。
1991年にトウカイテイオーが無敗で勝ち続けていた時は「オグリキャップを超える人気者になりそうだ」と思いました。皐月とダービーはいずれも「大外の単枠指定」、ダービーの時は「20番枠」で優勝しました。「単枠指定」や「ゼッケン20番」なんて今では懐かしく思います。テイオーはお父さんのシンボリルドルフと同じような強さを持っていた一方で、骨折を何度も経験。強さと脆さを併せ持ち、度重なる故障を乗り越える不屈の精神力を持った馬でした。
ラストランとなった93年の有馬記念は、テイオーの他にもビワハヤヒデ、ウイニングチケット、ベガ、ナイスネイチャ、メジロパーマー、ライスシャワー、レガシーワールドといったその年に活躍した馬達が参戦していました。その時にテイオーに騎乗していたのが、今では薬物中毒者のイメージが強い田原成貴(ホントは名前も出したくなかった)でした。1年近く休養していきなりGI出走するなんて無謀だし、正直惨敗するだろうと思ったら、まさかの勝利。「世の中あり得ないようなドラマが起きるんだなあ」と実感しました。
父・シンボリルドルフが昨年10月4日に30歳で他界し、それから約11か月後に息子が父の後を追うかのように天国へと旅立ってしまいました。馬齢25歳は人間に換算すると80歳前後。テイオーには父の分までもっと長生きしてほしかったです。謹んでご冥福をお祈りいたします。