ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

第1部:日本国憲法における、財政に関する基本的原則  第2回:財政民主主義

2019年11月15日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 1.財政民主主義

 国民主権(民主主義)の原理からすれば、当然、財政が国民・住民の意思に基づき、国民・住民の利益となるように運営されなければならない。

 財政は、本来、行政作用としての内容を有する(憲法第73条第5号、第86条および第87条を参照)。しかし、行政権の恣意的な処理・運営は、国民主権(民主主義)の原理に反する。憲法第83条が「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と定めるのは、日本国憲法が代表制民主主義を採用することからの、当然の帰結である。

 但し、上記は通説によるものであり、その主張に対して、日本国憲法の解釈上、疑義が存在する。財政民主主義は、代表制民主主義を採用する日本において財政国会主義(財政議会主義)として現れる。たしかに、日本国憲法は、予算の作成権限を、国会ではなく、内閣に認めており、予算の執行など、財政の処理権限も内閣などに与えられている。しかし、憲法の諸規定を概観すれば明らかなように、最終的な権限は国会に与えられていることからすれば、財政を単純に行政作用と表現してよいことにはならない。このことは、予算の法的性格に関する議論において、具体的に問題となるであろう。

 第83条にいう「財政を処理する権限」は、文字通り、財政に関するあらゆる権限を指す。従って、租税の賦課・徴収など―財政の権力的作用―に限られず、金銭の借り入れ、支出、財産の管理などの権限も含む。また、貨幣制度、貨幣発行をも含むと解されている。

 また、ここでいう「国会の議決」には、単なる議決のみならず、法律を定めることなどの意思表示も含まれる。なお、国の支出や債務負担行為については、個別的かつ具体的な意思表示が求められる。

 財政民主主義は、憲法における財政関係の諸規定の、まさに根幹をなす。第84条に規定される租税法律主義も財政民主主義からの帰結である。そればかりでなく、次のような規定に生かされている。

 (1)第85条(第87条を含む)

 第85条は、国費支出行為、国の債務負担行為の全てについて、国会の議決を必要とする旨を定める。国費の支出であれ、債務負担であれ、最終的には国民の負担に帰する点に変わりはない。そこで、このような規定が置かれる。大日本帝国憲法時代にもこの趣旨の原則は存在したが、例外が多く、徹底していなかった。それに対し、日本国憲法では、第87条に規定される予備費以外に例外を認めていない。しかも、予備費の支出については、内閣が事後に国会の承諾を得なければならないとされている(同条第2項)。

 憲法第87条第1項は「予見し難い予算の不足に宛てるため、国会の議決に基いて予備費を設け」ることができると規定する。この場合、予備費を設けることについては国会の事前承諾を得なければならない。しかし、この承諾は支出に対するものではない。具体的な手続は財政法第36条に規定される。なお、第87条第2項の事後承諾は、予備費の支出行為に対して何らの法的効果もないと解されている。また、条文には「国会の承諾」と規定されているにもかかわらず、両議院一致の議決は不要と解されている。

 (2)第86条

 予算の作成権が内閣にあることを示すとともに、予算についての最終的決定権が国会にあることを示す規定である。これも財政民主主義の一環である。また、会計年度独立の原則(予算単年度主義)、会計統一の原則、総計予算主義、予算事前議決の原則も示される。

 ※小嶋和司「日本財政制度の比較法史的分析」『憲法と財政制度』(1988年、有斐閣)22頁は、第86条と第83条との矛盾を指摘し、その原因を分析している。また、同「財政―予算議決形式の問題を中心として―」同書184頁、とくに248頁以下を参照されたい。

 予算制度の詳細については後に取り上げることとして、ここでは、財政法第14条の2に定められる継続費について述べておく。継続費は、工事や製造など、完成に数年度を要するものへの支出に関する経費である〈但し、実際には、防衛省による大型警備艦の建造などに利用される程度でしかない〉。大日本帝国憲法第68条は、明文で継続費を認めていたが、濫用され、議会の審議権(統制権)が非常に弱められる結果となった。しかし、実際の便宜を考慮すると全く不要とも言い切れないため、財政法に追加されたのである。このことから、杉村章三郎博士は「予算不成立の場合の措置や継続費の存在は現行憲法の下においてもその必要が感ぜられるのであり、この点に何らの規定を設けなかったのは現行憲法の欠陥といえるであろう」と述べる杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)17頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)160頁を参照。私もこの見解に賛同する。継続費の濫用を戒めるのであれば、むしろ憲法の明文で限界などの基本線を示せばよいのである。

 しかし、継続費については違憲説も存在する。憲法第86条が「毎会計年度の予算」と明示しているからである。これに対して、合憲説は、憲法が明文で継続費を否定していないこと、会計年度は必ずしも1年に限られないこと、などを主張している。

 合憲説の主張にも難点がある。まず、会計年度は必ずしも1年に限られないというのは、憲法の構造を無視する議論である(第52条、第90条第1項を参照)。また、財政法第14条の2は、継続費について厳格な要件を付し、国会の再審議などを規定するのであるが、継続費の修正には限界があるとも指摘されている〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)66頁〉

 いずれにせよ、財政こそ、緊急事態を想定した規定を盛り込まなければならないのに、そのような規定が全く存在しないということは、立憲主義、財政民主主義の観点からしても、 日本国憲法が抱える欠陥の一つであるとも評価できよう。

 (3)第88条

 大日本帝国憲法時代には皇室自律主義がとられた。皇室は、御料地や御料林などの形で自ら莫大な財産を所持し、国から支出される皇室経費も、増額を除いて帝国議会の議決を必要とされていなかった。日本国憲法第88条は、これを根本的に改め、皇室財産を国有化するとともに、皇室経費についても完全に国会の統制下に置くという意味を有する。具体的な事柄については皇室経済法が規定する。なお、この規定は、皇室に私有財産を全く認めないという趣旨ではない。

 三種の神器は皇室の私有財産である。また、天皇および皇族も、相続税の納税義務者となる。

 (4)第89条

 この規定が財政民主主義の一環を示すものであると言いうるか否かについては、おそらく、議論の余地があるものと思われる。しかし、財政民主主義も、元はといえば国民主権原理の一環であり、さらに、基本的人権の尊重という憲法の基本原理と深い関係を有する。その意味において、憲法第20条に規定される政教分離原則を財政の面から担保する第89条は、国会および内閣に対し、財政権限の行使に制約を課する規定である。

 この規定で問題となるのが、後段の「公の支配」である。これに属しない慈善、教育、博愛の事業に対する財政支出などが禁止されるが、その趣旨も表現も明確ではないからである。

 これについては、私立学校振興助成法や社会福祉法などによる補助(助成)を合憲と解釈するために公費濫用防止説が主張される(この説が通説であろう)。この説によると、公の財産がこれらの私的事業に支出された場合、仮に私的事業の自由に委ねられるとすれば、公共の利益に反する運営が行われるおそれがあるため、補助(助成)をなす限度において、それが不当に利用されることのないように監督することが求められる。すなわち、こうした監督に服しない私的事業に対する公の財産などの支出や利用を禁止する、というのである。

 この説明は、橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)546頁を基にしている。

 一方、厳格に解する説として、自主性確保説がある。この説によると、憲法第89条後段に掲げられた私的な慈善、教育、博愛の事業は自主性を有するのであり、これらに対して公権力が干渉することを禁止するというのである。そのため、この説によると、私立学校、社会福祉法人などへの補助(助成)は違憲となる可能性が高くなる。自主性確保説に対しては、前段における宗教と、後段における慈善、教育、博愛とは、国家との分離の程度が異なるという批判がある。

 第89条の文言解釈からすれば、自主性確保説が妥当であろう。しかし、この説を採るならば、第25条や第26条の趣旨と矛盾しかねず、結局は生存権や教育を受ける権利などを無にするような結果に導かれかねない。また、憲法第20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定するが、これはあくまでも国(さらに地方公共団体)が主体的に一切の宗教活動をすることに対する禁止規定であり、宗教団体(法人)に対する禁止規定ではない。仮に宗教法人が直に運営する学校法人について自主性確保説の趣旨を実行すれば、第26条、さらには第14条に違反することになりかねない。

 公費乱用防止説、自主性確保説のどちらも成立しうるだけに、第89条は趣旨・目的も表現も不明確であり、第86条とともに日本国憲法の欠陥を示すものとみることが最も妥当な解釈であろう。いわゆる護憲派は、この規定についても改正を不要とするのであろうか。そうであるとすれば無責任な見解と評価せざるをえないであろう。

 (5)第90条

 この規定と第91条は、決算に関する基本原則を定めた規定であり、第90条は会計検査院の根拠規定である。また、会計検査院は、憲法上の機関であるとともに、内閣から完全に独立している行政機関であり、憲法第65条の例外をなす。

 決算は法規範性を有しないものとされているが、予算に示された歳入および歳出が適正に行われているか否かを検討することは、財政民主主義の現実化のためにも重要な意義を有する。このため、決算は、閣議決定の後に会計検査院によって検査を受け、その報告とともに国会に提出され、国会の審査を受けることとなる。

 (6)第91条

 これも財政民主主義を決算の面において具体化させる趣旨の規定である。財政状況公開の原則を示したものと理解されている。なお、この規定では、内閣が「国会及び国民に対し」て定期的に「報告しなければならない」とされているが、主たる対象者は国会より国民であると理解すべきであろう。その意味において、第91条は国民主権原理に由来するものであると考えることもできる。

 

 2.財政民主主義に関する現実の問題

 日本の財政制度において、憲法第83条との関係で問題となる制度が存在する。とくに、財政法第3条の規定などは、憲法第83条との関連において重大な問題をはらむ。このため、憲法第83条については後に再び取り上げることになるが、ここでは代表的なものを取り上げ、若干の検討を行う。

 (1)財政投融資

 国家の第二の予算ともいわれる財政投融資とは「毎年度策定される財政投融資計画に基づき、必要な財政資金を出資や貸付けの形で供給する政府の投融資活動をいう」〈園部逸夫=大森政輔編『新行政法辞典』(1999年、ぎょうせい)405頁[早坂禧子担当]による〉。実際上、運用は財務局財務事務所(省庁再編前は大蔵省理財局)が行っている。投融資先は公社・公団などの特殊法人それ自体、あるいはその特殊法人が行う事業である。財政投融資の原資としては、産業投資特別会計、政府保証債・政府保証借入金という、国家予算の一部を成すものと、資金運用部資金(郵便貯金や厚生年金・国民年金から集めたもの)、簡易生命保険資金という、予算の一部を成さないものがある。予算の一部を成さないものは、租税とは異なることから、国会の議決の対象とはならず、財政投融資計画が、予算審議のために提出される国会の参考資料となるにすぎない。但し、運用期間が5年以上の資金については、予算として国会の議決を経ることとされている。しかし、それも不十分であることが指摘される。

 しかし、財政投融資は、事実上、予算の一部として運用されており、これがなければ財政が十分に機能しない。また、運用の実態として、行政機関の意思に委ねられていること(とくに、族議員が裏で働いている場合)、国鉄清算事業団や国有林野事業など、返済困難が予想される分野に融資がなされている、あるいは、なされていたことが、問題としてあげられる。国民の負担増を招く結果となりかねないからである。少なくとも、財政投融資計画自体も国会の議決を必要とすべきであろう。

 (2)補助金と「隠れた補助金」

 国などが、特定の行政目的・政策目的のため、私人や地方公共団体などに無償の金銭的給付を行うことがある。これを補助金という。補助金の支出自体は予算の一部として国会の議決を経てなされるが、執行については法律の根拠を欠く場合がある。

 また、補助金ではないが同様の機能を持つものを「隠れた補助金」という。具体的には、租税特別措置法に定められた租税特別措置をいう。これも、特定の行政目的・政策目的のため、特定の経済部門や個人に対して、租税を軽減・免除する、あるいは特別控除をなすというものであり、特定の企業がこれによって大きな利益を得ている。そのため、そのしわ寄せが一般国民に来るのである。しかも、軽減や免除などの具体的な金額が国会の議決の対象になっていない場合がある。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月15日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。

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第1部:日本国憲法における、財政に関する基本的原則  第1回:財政および財政法

2019年11月14日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 財政は、国家、地方公共団体というような統治団体の根幹をなすという意味において、極めて重要な分野である。それにもかかわらず、何故か日本の憲法学において十分に取り扱われていない。これは、おそらく、憲法学者の多くが人権論の開拓ないし発展に尽力を注ぎ、国家機構についても人権論との関連の度合いに応じて研究を進めてきたこと、租税などを除けば財政の領域が人権論に直接的な影響を及ぼすことが少ないこと、財政が高度に技術的な要素を多く含むこと、などに原因を求められるであろう。また、日本の歴史的経緯によるところもあるものと思われる。

 新井隆一『新型消費税 改修所得税』(2011年、成文堂)ⅰ頁は、日本の憲法学が基本的人権、平和主義(戦争放棄)、民主主義を研究対象の中心に据え、財政を対象とする研究は少数の例外にすぎなかった、という趣旨を述べる。新井隆一博士は、あくまでも御自身が大学に入学した頃のことと記すが、現在もそれほど事情が大きく変わった訳でもない。憲法学の教科書には財政に関する章が存在しないものもある(ここで例示をしないが)。このように記す私も、石山文彦編『ウォーミングアップ法学』(2010年、ナカニシヤ出版)の「16.統治機構」の執筆を担当した際に、財政に関する独立の項目を置くことができなかった。今も、そのことが残念でならない。 

 しかし、歴史的にみても、近代立憲主義は財政問題を契機として誕生し、発展したのである。このことは、日本国憲法第30条および第84条からも明らかである。民主主義の観点からも、また自由主義の観点からも、財政が健全でない国家、近代的な財政の原則を守らない、あるいは守れない国家は、例えば人権保障についても非常に大きな問題を抱えることになる。「国敗れて山河あり」とは言うが、国家の財政が機能せず、それ故に破綻したのでは、人間が社会生活を営むことも困難とならざるをえない。その意味において、財政は非常に重要である。

 

 1.財政の定義

 憲法は、財政の定義を示す規定を置いていない。もとより、憲法第83条ないし第91条は、財政制度の基本原則を定めるものであり、これらの規定から、憲法が予定する財政制度を知ることは可能であり、全体像を浮かび上がらせることも可能である。それだけでなく、現実の制度から離れて一般的かつ抽象的に財政を定義することに、果たしてどれだけの実益が存在するのか、という疑問もある。

 しかし、いかなる形態であれ、財政機能を有しない国家は存在しえないし、それと全く無縁な国民も存在しえない。あらゆる国家機能が財政に結びつけられていることからすれば、財政に対する統制などが不可欠である。そのためには、財政とはいかなるものであるのかを、或る程度は明確にしておく必要がある。そこで、この講義でも財政に関する(法律学上の)定義を示しておくこととする(但し、私自身による確定的な定義ではない)。

 財政の定義には様々なものがある。ここで多くを示す必要はないので、いくつかの例をあげておく。

 「国又は地方公共団体がその存立に必要な財力を取得し、かつ、これを管理する作用」の「総称」〈田中二郎『新版行政法下巻』〔全訂第二版〕(1983年、弘文堂)205頁〉

 「国家がその任務を行なうために必要な財力を取得し、管理し、使用する作用」〈橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)539頁〉

 「国家の活動資金を調達し、管理し、使用する作用」〈小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール[第五版]憲法』(2006年、日本評論社)341頁[三木義一担当]〉

 「国家は国民に対する指導者として、国民経済の助長発展に力を注ぎ、時にはこれに統制を加える一面において、国民と共に経済生活を営み、自己自身の収入を獲得し支出の規制を行い両者の調整をなし自己の経済をたえず良好の状態に置かなければならない。この後の目的を達するがためにする各種の作用を国家財政といい、地方公共団体における同種の作用を地方財政という」〈杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)1頁〉

  「財政とは、国家がその任務を達成するために必要な財貨を取得し、管理し、及び使用する作用であると言うことができる。換言すれば、財政とは、国家の種々の需要に充てるために財源を調達し、管理し、使用する一連の作用、つまり、国家の行う経済活動である」〈小村武『予算と財政法』〔五訂版〕(2016年、新日本法規)3頁。この文の「国家」には地方公共団体も含まれる(同書3頁)〉

 いずれも、歳入(収入)、財産管理、歳出(支出)を捉えたものである。もっとも、財政学においては、端的に「公共部門の経済活動」と定義するもの〈星野泉・小野島真編著『現代財政論』(2007年、学陽書房)1頁[星野泉担当]〉なども見受けられる。

 しかし、こうした定義に対し、福家俊朗教授は、古典的であると評価し、現代の財政はこうしたものを超えていると述べる。「行政経費の単純な取得や、その管理・運用、また、充当・支出という専門技術的(徴税技術的・会計技術的)活動」は当然として、それに留まらず、「財政規模の点もさることながら、それがもつ多様な機能に着目してそれらの政策的組合わせが図られ、それ自体が特定の行政領域を形成したり、他の行政領域をその支配下に置くような変貌を遂げている」というのである〈福家俊朗『現代財政の公共性と法―財政と行政の相互規定性の法的位相―』(2001年、信山社)3頁〉

 たしかに、現在の財政作用は、単に財政資金の調達、その資金の管理・運用、支出に留まるものではない。福家教授も指摘されるように、こうした作用を通じて、例えば経済政策や社会政策に用いられる。財政がこれらの政策を遂行するための手段ともなっているのである。このことは、特定財源や目的税、そして国庫補助負担金に顕著である。地方交付税も、一定の政策に寄与する場合がある。

 しかし、福家教授の指摘がその通りであるとしても、「古典的」な財政に現代の財政の骨格があることに変わりはない。そればかりでなく、福家教授の主張には、財政と言われる作用とその他の作用とが混同されている憾みがある。財政法の基本を理解するためには、こうした「古典的」なものを第一に把握しなければならない。

 そのため、この講義においては、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておく。

 財政の内容としては、例えば、租税の徴収、公債(国債などの総称)の発行・管理・償還、公企業などがある。現在の国家および地方公共団体は、実に多様な活動を行っている。その元手として、租税、手数料、負担金、公債などがあるが、いかなる手段によって財力を得るにせよ、最終的には国民・住民の負担に帰する。そのため、国家および地方公共団体の財政は、常に国民・住民の利害に対し、直接的に重大な影響を及ぼすのである。

 

 2.財政法とは

 財政法については、これまで、憲法学および行政法学が研究対象として扱ってきた。そして、六法には財政法という名称の法律が掲載されている。これは、形式的な意義における財政法である。この法律は、憲法を受けて、国の財政に関する基本的事項を定めるものである。しかし、財政法という法律が、財政に属する全ての作用を規律している訳ではない。例えば、租税は、国民から調達された財力であると考えることができるから、いかなる租税を設け、徴収するかというような事柄は、財政の重要な一側面である。しかし、形式的意義における財政法には、租税に関する規定が存在しない。また、財力の維持・管理のうち、国有財産などについては、財政法に基本原則を定める規定が存在するものの、詳細は国有財産法や物品管理法などに委ねられている。

 そのため、財政法を、形式的にではなく、実質的に捉えると、形式的意義における財政法のみならず、所得税法、法人税法など各種の租税法、国税徴収法、国有財産法、物品管理法などが含まれることになる。また、形式的意義における財政法は国の財政のみを規律するものであるから、地方財政については、地方財政法、地方税法などの規律に委ねなければならない。さらに、国と地方との財政上の関係については、地方交付税法などの法律が存在する。

 このように考えると、実質的意義における財政法は、形式的意義における財政法を含め、広く、財政に関する法の総体である、と理解することができる。

 既に、この講義において、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておいた。従って、実質的意義における財政法とは、国または地方公共団体が必要な財力を調達するための法、財力を維持・管理するための法、財力を使用するための法、これらの総体である、ということになる。

 このうち、必要な財力を調達するための法については、何らかの形で国民との直接的な法律関係(権利関係)を規律することになる。調達方法には、私法上の、あるいは別の法による契約関係もありうるし、租税のように、多少とも権力的な関係もありうる。

 租税そのものは国民が法的に負う債務と考えられるので、租税関係を債権債務関係と理解するのが妥当であり、租税法学などではこちらが通説となっている。しかし、租税関係に権力的な要素が皆無であるという訳ではない。むしろ、租税処罰法(租税制裁法)は刑事法とも重なる分野であり、権力的な要素が濃厚である。また、租税手続法にも、税務調査、更正・決定、推計課税など、権力的な色彩の強い手続が規定されている。

 また、専売は、特定の物品について私人の経済的自由権(営業、販売など)を排除するものであり、その点において権力的な法である。

 このような法は、財力を調達するために発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする。これを財政権力法という。

 これに対し、財力の維持・管理、および使用に関する法については、補助金など、国民との直接的な法律関係を規律する場面も存在するが、予算の決定、国有財産の管理、物品の管理など、基本的には国の機関内部に留まり、国民の権利や義務に直接的な影響を及ぼさない場合も多い。その作用の性格をどのように理解するかについて、これまでの通説には問題があると思われるのであるが、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法は、財政管理法といい、財政権力法と区別する。

 この他、形式的意義における財政法(以下、単に財政法と記す)に対して、多少とも特別な規律をもたらす法が存在する。特別会計に関する法律がそれである。特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。

 また、実質的意義における財政法は、基本的に国会や内閣以下の行政の作用規範という性格を有するが、憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査、とくに決算の検査を担当させている。このため、会計検査院法も、実質的意義の財政法を構成する重要な法律である。

 なお、日本国憲法も、財政に関する規律をなす限りにおいて、実質的意義の財政法である。しかも、憲法であるから、法律よりも上位である。

 以下、憲法および法律のみに注目した上で、実質的意義における財政法を整理する。なお、これは従来からの学説に従ったものである。

 (1)日本国憲法

 憲法は国内における最高法規であるから、財政に関する法規についても最高法規であることは当然である。しかし、そこに定められるものは、いわば大原則というべきものにすぎず、財政処理に関する原理や具体的な基準は示されていない〈杉村・前掲書33頁〉

 また、こと財政に関してだけは、日本国憲法より大日本帝国憲法のほうが優れているという趣旨の評価もある。杉村章三郎博士は、日本国憲法が永久税主義を前提としていること、一年制の会計年度を基礎とする予算制度を設けること、会計検査院および国会による決算審査などの原則を定めるだけであることから、「予算外支出に対する国会による事後承諾制度、継続費、予算不成立の場合の措置、その他を定めた」大日本帝国憲法が「行き届いた法であった」と評価する〈杉村・前掲書33頁〉第3版までは、この見解に対する批判を記したが、後の部分と矛盾していることが気になっていた。以下、杉村博士の評価に対する疑問や批判を再現するが、第4版以降、私は根本の部分において杉村博士の評価を是認したいと考えている。

 まず、当然のことであるが、日本国憲法においても、予算外の支出、継続費、予算不成立という事態は生じうる、否、現に生じているのであって、このような事態に対処するための規定が存在しないということは、憲法の不備を示すものであろう〈小村・前掲書35頁も参照〉

 たしかに、天皇主権原理を採り、帝国議会を天皇翼賛機関としてしか位置づけていなかった大日本帝国憲法とは異なり、国民主権原理を採用し、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとする日本国憲法の下において、これらのものを無制約に認める訳にはいかない。日本国憲法がこれらについての規定を置いていないということは、基本的に認めないということを意味するものであろう。あるいは、認めざるをえないという場合であっても必要かつ最小限であるという趣旨であろう。しかし、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとするからこそ、予算外の支出、継続費、および予算不成立に関し、何らかの規定を置く必要があるというべきであろう。例外的な事態に何らの対処もなしえないということであれば、かえって問題を拡大するだけである。

 予算外の支出は、補正予算を組んで対処するという方法もあるが、基本的には国会の予算審議権を侵害するものであり、これを何の制約もなしに認めることは許されないであろう。また、場合によっては租税法律主義を侵害するような事態を生み出すおそれもあろう。それならば、憲法において予算外の支出を認めるべき例外を明示すればよい。

 次に、継続費については、濫用されることによって国会の予算審議権を空洞化するおそれがある。このことは否定できない。しかし、後に述べるように、不要であるとは言い切れない。なお、地方公共団体の予算についても、地方自治法第212条によって継続費が認められており、こちらについては違憲論が提起されていないことを注意しておく。

 そして、日本国憲法の第7章において最大というべき問題(むしろ欠陥と表現するほうがよい)は、予算不成立の場合に関する規定が存在しないことである。当初予算が成立しないままに新会計年度を迎えることは、当然、生じうる。そればかりか、実際に生じたことがある。また、たとえば国会に予算案が提出された後に衆議院が解散した場合には、予算が成立しない。そのような場合のために、財政法第30条によって応急措置的としての性格を有する暫定予算の制度が置かれるのであるが、これにも限度がある。国会の審議状況によっては、当初予算のみならず暫定予算も成立しないままに新会計年度を迎えることがありうるからである。

 大日本帝国憲法第71条は、予算不成立の場合には前年度の予算を執行する旨を定めていた。このような規定には次のような問題点があることを認めざるをえない。

 第一に、理念的にみて財政民主主義の否定につながりかねない。

 第二に、国会が新たに何らかの法律案を可決して法律を成立させたとすると、その執行のための予算が必要になるのであるが、予算が年度内に成立しなかったからといって前年度の予算を執行するとなれば、新たな法律ができたとしても無意味であるという状態に至りかねない。逆に、故意に法律の執行を妨害しうることにもなる。

 しかし、そうであるとしても、この面に関しては、日本国憲法よりも大日本帝国憲法のほうが実際的であり、優れていると評価してよい。国家の財政運営に空白をもたらすことがないからである。日本国憲法によれば、内閣と国会の関係、または国会内の情勢によっては、予算不成立に関して何らの手も打てないということになり、当初予算も暫定予算も成立しないまま新会計年度を迎えるしかないことになる。これでは国家財政も国家行政も機能しない。従って、かえって法治主義、財政民主主義、租税法律主義などを空洞化させかねないのである。

 おそらく、このように記すならば、予算不成立は内閣や国会の政治的責任に帰すべき問題であって、憲法の不備のみを指摘する見解は、そもそも観点に根本的な誤りがある、と批判されることであろう。私も、第3版まではこの立場であった。しかし、この批判は、予算不成立は単純に政治的責任で済まされる問題ではない、という単純な事実を見落としていないであろうか。それに、大日本帝国憲法第71条が大きな問題を抱える故に支持されえないのであれば、別の方法を考えればよい。

 また、実際面において前年度予算を執行することは、相当の困難を伴うのではないか、という懸念もありうる。しかし、大日本帝国憲法の下においては、同第71条および勅令により、1892(明治25)年度、1894(明治27)年度、1898(明治31)年度、1903(明治36)年度および1904(明治37)年度、1914(大正3)年度、1915(大正4)年度、1917(大正6)年度、1920(大正9)年度および1924(大正13)年度、1928(昭和3)年度、1930(昭和5)年度、1932(昭和7)年度、1936(昭和11)年度および1946(昭和21)年度に、前年度の予算を当該年度の予算として執行した〈小村・前掲書36頁。なお、このような予算を施行予算と称していた〉。すなわち、前年度予算の執行は不可能でないということである。

 もとより、前年度予算の執行により、様々な問題が生じうる。そのため、これに代わる何らかの方法を考えなければならない。遺憾ながら、現在の私には良い改正案を提示することができない。しかし、時の政治状況に左右されないような安定した財政運営を保障することが、最終的には国民主権原理や自由主義に資するということは強調してよいであろう。大日本帝国憲法と同じく、日本国憲法も不磨の大典ではない。

 (2)財政権力法

 従来の学説や実務の理解によれば、財政権力法とは、国民から財力を調達するための手段などのうち、権力的なものについて必要な財力を調達するための法であり、発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である。国税通則法、国税徴収法、所得税法、法人税法、消費税法、関税法などの租税法と専売法が該当する。但し、現在の日本には専売制度が存在しない。

 かつて、塩、たばこ、工業用アルコールなどについて、専売制度が採られていた。

 しかし、財政において財力の調達のみならず、財力の維持・管理や財力の使用に関しても、権力的側面が現れることもある。典型的なものは補助金であろう。補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(以下、補助金等適正化法)は、まさに財力の使用に関する法律であるが、ここに示されているものは、補助金等の交付の申請、その申請に対する決定、補助事業の遂行等の命令(第13条)、金額の確定、補助金等交付決定の撤回(第17条)、その他、行政手続法の適用が除外されているとは言え、まさに行政行為論の利用が想定されていると考えるべき場面が多い〈塩野宏「補助金交付決定を巡る若干の問題点」『法治主義の諸相』(2001年、有斐閣)177頁、178頁。なお、補助金等適正化法第17条は「取消」の語を用いる〉。この法律自体、第25条において、補助金等の交付決定、その撤回などの処分について地方公共団体による不服の申出を認めていることからも、行政行為論を想定していることがうかがえるのである。

 もっとも、塩野宏教授は、資金交付行政(補助金の交付などが含まれる)と法律の根拠に関する議論(侵害留保説、全部留保説)について、「法律の中には、原則として、組織規範―具体的には各省設置法、規制規範―具体的には補助金適正化法、特別会計法等は含まれないと考えている。これらの規範類型は、理論的に行政活動に根拠を与える規範としての資格を有していないものであるが、実質的にみても、具体的な資金交付行政の根拠規範を見出すには、その授権はあまりに大幅すぎる」と述べている〈塩野宏「資金交付行政の法律問題―資金交付行政と法律の根拠―」『行政過程とその統制』(1989年、有斐閣)102頁〉。しかし、これは、補助金交付の具体的な根拠が他の法律に基づいていることによるのであり、補助金交付の決定が処分性を有しないからではない。また、補助金交付は基本的に授益的行政活動であるから、侵害留保説では法律の根拠が不要であるということになりかねないのである。

 このように考えると、財政権力法は、租税法、専売法、補助金法など、国の収入・支出にかかわらず、国民との権力関係を規律し、統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である、と理解すべきであろう。

 (3)財政管理法

 主に、財力の維持・管理、および使用に関する法、すなわち、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法をいう。収入および支出の管理については形式的意義における財政法、会計法など、財産の管理については国有財産法、物品管理法、国の債権の管理等に関する法律などが該当する。

 (4)特別会計法

 特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。これは、後に述べる会計統一の原則に対する例外をなすこととなり、一般会計に関する財政管理法と多少とも異なる規律をもたらす法である。

 なお、特別会計法は、財政権力法・財政管理法の区別と次元を異にする。

 (5)会計検査院法

 会計検査は、国の財政管理作用の一部分を占めるものである。上述のように、日本国憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査(決算の検査)を担当させている。これを受け、会計検査院の組織および権能に関する規律をなすのが、会計検査院法である。

 (6)皇室経済法

 日本国憲法が象徴天皇制を採用するため、皇室については、別に皇室経済法が存在する。これは、皇室関係の予算(内廷費、宮廷費、皇族費)に関する規律の他、「その度ごとに」国会の議決を必要としない皇室の財産の授受に関する規定(第2条)、皇室経済会議の設置根拠となる規定を置く。皇室経済会議は、内廷費の変更について内閣に意見を述べ(第4条第3項)、「皇族が初めて独立の生計を営むことの認定」をなし(第6条第2項・第3項第2号・第7項)、衆議院議長および副議長、参議院議長および副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長、そして会計検査院の長の8議員から構成される(第8条。なお、第9条および第10条を参照)。

 

 3.財政法の性格

 既に述べたように、実質的意義における財政法のうち、租税法や補助金法などの財政権力法は、国と私人との法律関係を規律するものである。従って、当然ながら、私人の法的地位(権利義務)に直接的な影響を与えることとなる。そのために、日本国憲法第84条において租税法律主義を規定しているのである。

 憲法第30条も、租税法律主義を明示した規定である。

 この点については、拙稿「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(上)―旭川市 国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に―」税務弘報54巻12号(2006年)129頁、同「租税特別措置法附則27条による同法31条の遡及適用が違憲無効と判断された事例」速報判例解説編集委員会編「速報判例解説(法学セミナー増刊)」3号(2008年)288頁も参照。

 しかし、第84条とは、規定の視点が異なる。第30条は、国民の納税義務に関する規定である。従って、国と私人との法律関係に着目し、かつ、法律に定めのない租税を支払うべき義務が私人に課されないという意味である。これに対し、第84条は、財政に対する国会の関与権限に着目した規定である。そのため、この講義においては、第84条を中心として租税法律主義についての解説を試みた。

 これに対して、財政管理法のほうは、多くの場合、「国の内部における財政作用を規律するものであり、租税法のように直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」と理解される〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)6頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)38頁も、同様の理解である〉

 このため、適用の範囲は国の機関(国会を含む)に限定されることになるし、規定の性質も外部的効力を伴わない、訓令に近いものである。このことは、仮に財政法に違反する行為がなされたとしても、その行為の外部的な効力は否定されない、ということを意味する。

 槇・前掲書41頁は、憲法に違反する場合、および、法律によって無効とされる場合を除外する。

 このような一面的理解が正しいのか、私には疑問がある。例えば、会計法は財政管理法の一とされるのであるが、その多くの規定は行政内部を規律するものであるとは言え、入札保証金に関する第29条の4などは、効力が行政内部に留まるという規定ではないであろう。それでも、予算および決算の法的性質などを考慮に入れるならば「直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」という性格を有する法が多いということを否定しえないであろう。財政法の諸規定は、まさに「国の内部における財政作用を規律するもの」である。

 ここで、参考までに判例をとりあげておく。いずれも、国の財政に関するものではないが、財政法の性格を示すものと評価することはできるであろう。

 ●最三小判昭和37年2月6日民集16巻2号195頁

 事案:原告(新潟県市町村職員恩給組合)は、新潟県今町の町長に対し、同町の水道工事費等に充てるためとして金員を貸与したが、同町は債務の弁済をしなかった。昭和30年9月30日、見附市が今町を編入合併し、今町の権利義務の一切を承継することとなったため、原告が見附市を被告として債務の弁済を求めた。新潟地方裁判所は原告の請求を棄却した(判決年月日等は不明)。原告は控訴したが、東京高判昭和34年2月9日判時186号13頁は、次のように述べて控訴を棄却した。

 判旨:今町の町長が原告に対して行った金員借り入れの申し込みは「町の代表者としての行為でありその効果はもとより今町に帰することは明である」が「今町には収入役が置かれ」ていたから「今町の出納その他の会計事務は収入役」に属していたというべきであり(地方自治法第170条)、「町長は町のため金員を受領する権限は有しないとしなければならぬ」。本件においては町長が収入役の署名捺印を偽造し、金員の交付を受けたのであるから、原告が今町に貸し付けたという金員の交付は「今町のために受領する権限のある者に交付されなかつたと断ずるの外ない。およそ消費貸借は金員の交付をその成立の要件とするものであるから控訴人主張の二口の貸付については今町との間に消費貸借は成立しなかつたと云わねばならない」。

 原告は上告したが、最高裁判所第三小法廷は「収入役の置かれた町においては町の出納その他の会計事務は収入役に専属し町長には属しない(地方自治法170条)ので、町長が町のためにする金銭受領行為は外形上その職務行為であるというをえないから、町長がかような行為をするについて他人に加えた損害は職務を行うにつき他人に加えた損害といえない」と述べ、上告を棄却した。

 これについて、槇重博博士は「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」と述べた上で、地方自治法第170条を参照しつつ「村長が部下の吏員に収入役を命じたからといって、現金の授受は収入役の専権に属し、村長の外部に対する村を代表する権限から、これが除かれるとする根拠はない」と述べて、判決を批判する〈槇・前掲書41頁〉

 しかし、この見解は地方自治法第170条(当時)についての誤解があると思われ、妥当でない。槇博士は、現金の収受が収入役の専権ではないと理解するのであるが、これでは第168条第2項(当時)が何のために、市町村に収入役を置くことと定めていたのか、理解不能となる。同法の規定からして、「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」という論調は、実際の効果の問題と権限配分の問題を混同したものであり、賛同しがたい。また、第149条は、第2号にて予算の調製および執行を、第5号において会計の監督を市町村長の事務と規定する。従って、地方公共団体においては、不完全な形であるとはいえ、予算執行機関と会計機関とを分離しているのである。このように考えていくならば、判例の立場が妥当であろう。

 第168条第2項(当時)から明らかであるが、収入役は、市における必置機関であった。町村については収入役を置かないことも認められたが、その場合には町村長自らが兼任し、または助役に兼任させることを必要としていた。しかも、これは条例規定事項であった。

 なお、現在の地方自治法第168条は、現在の地方自治法第1項において「普通地方公共団体に会計管理者一人を置く」と定め、第2項において「会計管理者は、普通地方公共団体の長の補助機関である職員のうちから、普通地方公共団体の長が命ずる」と定める。出納長(都道府県)および収入役(市町村)という名称は廃止されたが、都道府県、市町村のいずれも会計管理者を置かなければならないのであり、条例で置かないことを定めることは許されないものと解される。

 ●最二小判昭和37年9月7日民集16巻9号1888頁

 被告(控訴人・上告人)の佐賀県入野村(一審判決時には肥前町。以下、被告村)の村長は、中学校新築工事の請負契約を建設会社と締結した。ところが、この会社が資金難に陥ったため、村長は会社社長とともに原告(被控訴人・被上告人)銀行を訪れ、融資を申し入れた。その際に返済については被告村が全面的に責任を負う旨を言明したため、原告は村議会の議決書の提出を求めた上で貸付を承諾した。村長は村議会議員の協議会を開き、建設会社が原告銀行から受ける融資の返済について村が保証することの承認を求めた。協議会では異論が出なかった。村長は正式に村議会に付議することなく、係員に虚偽の議会の議決書謄本を作成させ、建設会社に交付した。建設会社はこの虚偽の議決書謄本を原告銀行に提出して金員を借り受け、その支払いのために建設会社代表者と村長が共同で約束手形を振り出した。その後も約束手形がやはり共同で振り出されたが、建設会社は多額の債務を負って資金難となり、中学校新築工事を完成させることなく事実上の破産状態に陥った。そこで、原告銀行は被告村に対して約束手形金等の支払いを求めて出訴した。

 佐賀地方裁判所は原告銀行の主張を一部認めた(判決年月日等は不明)。福岡高判昭和34年7月8日下民集10巻7号1483頁は、本件の約束手形は村長が無権限で振り出したものであり、本件について民法第110条に示される表見代理の法理の適用はないが、「民法第44条第1項の規定における『職務を行うにつき』とは、当該行為の外見上法定代理人又は代表者の職務行為とみられる行為であれば足り、もとよりその行為が法人の有効又は適法な行為であることを要しない」として、佐賀地方裁判所の判決を一部変更して原告銀行の主張を認めた。

 最高裁判所第三小法廷は、「所論手形振出行為が村議会の議決がないため、または所論法律に違反するため、無効または違法であるとしても、村長が村を代表して手形の振出をなすこと自体は、外見上村長の職務行為とみられるから、民法44条の適用なしということはできない」と述べて福岡高等裁判所の判決を支持し、上告を棄却した。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月14日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。

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第3部:地方税財政制度 第8回:「地方税財政制度」および「地方税財政法」という用語について

2019年10月22日 00時11分25秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 (都合上、第3部の初回から始めさせていただきます。)

 第2部においては、国の財政制度として、予算、決算、国債を取り上げてきた。本来は、さらに、会計法の分野を取り上げ、概観および検討をなす必要がある。実際に財政法を運用する際には、会計法における様々な技術や問題を知る必要がある。しかし、限られた講義時間において国および地方の財政法制度を扱うとなると、割愛せざるをえない。

 今回から、第3部として地方税財政法制度を概観し、検討する。ここでは、地方税法、地方財政法、地方交付税制度、国庫補助負担金制度、そして地方債制度などを扱うこととなる。

 ●「地方税財政制度」および「地方税財政法」という用語について

 この講義においては、「地方財政制度」ではなく「地方税財政制度」という表現を用いる。また、地方財政法という用語を全く使用しない訳ではないが、実質的な意味における地方財政法については、主に地方税財政法という表現を用いる。後にも説明するが、ここで、地方財政法ではなく、地方税財政法と表記することについて、説明しておく。

 一つには、講義の便宜がある。実質的な意味における財政法の中には租税法という分野があり、大学の法学部などにおいては租税法という名称の講義がある。しかし、その場合、国税である所得税、法人税、相続税、消費税などが中心となる。住民税、事業税、固定資産税、地方消費税などが扱われることは少なくないが、主に国税との関係において扱われる。おそらく、地方税、あるいは別の名称による、地方税制のみを扱う講義は存在しないものと思われる。しかし、地方分権型社会というのであれば、地方公共団体の歳入の中心は租税であるべきであろう。

 この講義においては、形式的意義における地方財政法のみならず、概略的ではあるが地方税制度を扱う。国の財政法制度については、実質的意義の財政法のうち、租税法を項目に入れていなかった。このために、国については財政制度、地方については税財政制度と記している。

 もう一つには、実際の地方財政制度の運用に着目しているという理由をあげることができる。日本の場合、普通地方公共団体間の格差が激しいので一概には言えないが、平均すると、本来的に歳入の中心となる租税収入の割合が低い。

 また、地方税の場合、国税よりも多く、租税法学の理論のみでは理解しえない部分が存在する。例えば、国民健康保険税は、実質的に租税ではなく保険料であり、市町村財政では他の租税と異なる扱いを受ける※。それに、地方税制度そのものをみても、法定外普通税・法定外目的税の例が代表的であるように、国・地方関係が重要である。これは地方自治制度そのものの問題でもあり、地方財政制度の根本的な問題の一つでもある。

 ※この点については、拙稿「地方目的税の法的課題」日税研論集46号(2001年)301頁、同「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(下)―旭川市国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に」税務弘報54巻14号(2006年)135頁を参照。

 いずれにせよ、国の場合以上に、地方の場合は、租税制度と、その他の財政制度とが密接に関係してくるのである。

 ■日本国憲法と地方税財政制度についての、私の問題意識

 既に、憲法の講義を受けた方、教科書を読まれた方であればおわかりであると思うが、日本国憲法は、国民主権原理を強力に担保し、かつ、充分なものとするために、地方自治制度を規定する。

 地方自治制度は、歴史的にみるならば、実力を高め、中央集権化していく国家権力への対抗勢力的な存在でもある※。地方自治の本旨の一側面と言われる団体自治は、中世の自治都市(ハンザ同盟など)を想起すれば理解できるように、国民主権原理とは無縁のものであるし、イタリアなどの都市の自治も、実態は貴族制に近いものであったという。近代国家の原理は、こうしたものを克服して成長しつつ、中央権力、すなわち、国家権力そのものを強化していった。その意味においては、国民国家原理の高まりという風潮における、或る意味での妥協的な産物なのかもしれない。しかし、フランスのトゥクヴィルがアメリカの連邦国家制度を観察して「地方自治は民主主義の学校である」という言葉を残し、イギリスのブライスも同じ言葉を残したように、いかに国民国家原理を高め、民主主義の要素を高めていったとしても、各地域における自治が存在しなければ、国民主権原理を確固としたものとすることはできない。日本で最初の近代憲法である大日本帝国憲法が、第二次世界大戦によって自壊したことの根本的な理由は、地方自治を制度として規定しておらず、中央政府の肥大化や軍部の暴走などを根本から防止するための手立てを取らなかったが故のことである、とも言えるのではないであろうか。

 ※絶対王政の時代を考えていただきたい。なお、これは、多分に西欧の歴史に基づく記述であり、日本にも同様のことが妥当するか否かについては、さらに検証を必要とするであろう。しかし、江戸時代における諸藩の実態などをみるならば、形は違えども共通する部分は少なくないと思われる。

 それでは、地方自治制度を憲法上の制度と位置づけるとして、これを十分に機能させるには何が必要とされるのか。

 日本国憲法第92条には「地方自治の本旨」という文言がある。これはあまり明確な概念と言えないのであるが、憲法学説などにおいては、団体自治と住民自治があげられる。これについては異論があるかもしれないが、一応、憲法学説などの通説に従うこととする。

 団体自治は、特定の地域という側面に立脚する団体(例えば市町村)が、国家(中央政府)から独立して、その地域に関する事務を行うことである。日本においては、地方自治法第2条第1項に示されるように、地方公共団体には法人格が与えられている。この規定は、まさに団体自治の側面を示すものである。特別地方公共団体の場合については、上記と異なる説明が求められることとなるが、地方自治法の構造からしても、基本的には多くの規定を普通地方公共団体に向けているのであるから、ここでは普通地方公共団体のみを前提としておけばよいであろう。また、特別地方公共団体でも、特別区については、もはや普通地方公共団体と同様に「地方自治の本旨」が妥当すべき存在となっていると考えてよいであろう。

 既に、このことから、地方公共団体が存立するためには、一定の財源、一定の財政制度が必要とされることが明らかである。勿論、この場合、「地方自治の本旨」のもう一方である住民自治を忘れてはならない。住民自治は、国民主権原理になぞらえるならば、地方公共団体の権力性と正当性に関わると考えるべきであり、国家から独立して、その地域に関する事務を行う団体が行う事務処理の決定過程などに地域の住民が参加することである。地方公共団体が独自の財産などを有し、それを基にして収益事業などを行うのであれば話は別であるが、基本的に地方公共団体は、その地域の住民によって構成されるために社団法人としての性格を有する。このことからして、地方公共団体の運営に際しては、何らかの形で住民の負担に頼らざるをえない。ここに、国税とは別に地方税が必要とされる理由が存在する。また、地方税以外の財源の必要性などの理由も存在する。

 以上を前提としつつ、ここで、日本国憲法と地方税財政制度との関係について、私の問題意識を述べておきたい。

 日本国憲法は、第92条ないし第95条以下において地方自治に関する規定を置く。しかし、これらの規定には、地方公共団体(都道府県および市町村)の税財政制度の基本的枠組みに関する内容は含まれていない。むしろ、日本国憲法は、地方公共団体の税財政制度については具体像を示さず、沈黙していると評価してよい。

 拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』(2005年、勁草書房)33頁。同「憲法と地方自治―地方税立法権を中心に―」住民と自治541号(2008年)8頁も参照。また、後掲の拙稿(「ヘンゼルの地方財政調整法制度論」および「ドイツの地方税財源確保法制度」)、中里実「地方税条例の効力の地域的限界」地方税51巻11号(2000年)4頁、水野忠恒「法定外地方税における地方団体の課税権とその限界―アメリカ合衆国の州際通商条項におけるNexusを参照して―」地方税52巻5号(2001年)13頁も参照。

 勿論、第92条は「地方自治の本旨」を掲げており、第94条は「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有す」ると規定する。このことから、地方公共団体が独自の税財政制度を持つことは許容される、否、要請される。しかし、その制度の基本的な枠組みは「法律でこれを定める」のである。憲法が国の基本法であり、政治制度などの基本を定めるものであることからすれば、具体的にいかなる地方税財政制度を構築するかという問題は、結局のところ、中央政府の権限決定権に委ねざるをえない。

 拙稿・前掲書31頁。なお、この記述は、私が、日本租税理論学会第14回大会(2002年11月16日、中央大学駿河台記念館)において行った個別報告「ヘンゼルにおける地方財政調整法理論」、および、日本財政法学会第21回大会(2003年3月15日、中央大学駿河台記念館)において行った報告「地方税財源確保法制度の国際比較―ドイツの場合―」を基にしている。いずれの報告も、修正を加えた上で、両学会の叢書に掲載されている。拙稿「ヘンゼルの地方財政調整法制度論」日本租税理論学会編『相続税制の再検討(租税理論研究叢書13)』(2003年、法律文化社)167頁、同「ドイツの地方税財源確保法制度」日本財政法学会編『地方税財源確保の法制度(財政法叢書20)』(2003年、龍星出版)75頁。

 大日本帝国憲法と日本国憲法とを比較すると、大日本帝国憲法には地方自治に関する規定が存在しなかったが故に、地方自治に対して冷淡であったのは当然であろう。地方自治制度の歴史については他の講義を聴かれたいが、地方自治制度、そして地方税財政制度が存在したとは言え、それは、憲法上の制度ではなかったがために、中央集権の便宜に適うべきものであった。大正期に地方分権を求める動きが存在したとは言え、到底、実るようなことはなかった。天皇主権の下において地方分権を進めることは、理念的に相当な困難を伴う、否、根本的な部分において実現不可能であったと思われる。

 この点について、例えば、宮本憲一・小林昭・遠藤宏一編『セミナー現代地方自治―「地域共同社会」再生の政治経済学―』(2000年、勁草書房)32頁[宮入興一担当]は「地方自治制度の制定が中央の統治の障害になるとの危惧は、当時、この制度を推進した山県有朋らの官僚も抱いており、これに対処すべくとられた制度が、モッセ(Albert Mosse)らの提言をいれた『機関委任事務』に他ならない」と述べる。

 これに対し、日本国憲法は、とくに地方自治に関する一章を設け、地方分権型の国家を目指すという方針を明らかにした。しかし、現実には、1999(平成11)年に制定され、翌年に施行された地方分権一括法(正式名称は「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」)によって廃止された機関委任事務が、大日本帝国憲法時代から引き継がれ、強化されるなど、中央政府の意向によって、一見すると分権的、しかし実は中央集権的という体制が維持されてきた。そればかりでなく、地方分権という言葉にも、実は曖昧なところがあり、1970 年代以来の革新自治体などの経験を踏まえた市民運動家などの「住民自治」派の立場と、一部の政治家・学者・財界などによる「新自由主義」の立場とによって、地方分権の色合いは微妙に異なっている。そのことが地方分権推進法および地方分権推進委員会による中間報告や諸勧告に現れているため、内容・方向性ともにわかりにくくなっていることは否定できないのである〈詳細は、拙稿「日本における地方分権に向けての小論」大分大学教育学部研究紀要20巻2号(1998年)191頁を参照〉

 ただ、地方分権という場合、単に事務の配分なり移譲なりのみを意味するものではないことは当然であろう。これまでにも、日本の地方公共団体は、国と比較しても多くの事務を担当してきた。その点では中央集権的であるというより、地方分権的である。真の問題は、事務に関する決定権限の問題である。その典型が、かつての機関委任事務である。これは、実際には地方公共団体が担当するにもかかわらず、それが普通公共団体の事務とされず、国から普通地方公共団体の長に委任されたものとして、しかも普通地方公共団体の長を国の機関と位置づけて行わせてきた事務をいう。機関委任事務の存在は、はしなくも事務についての決定権限が普通地方公共団体にではなく、国に存在することを示している※。事実、地方分権一括法施行前の地方自治法は、機関委任事務に対する議会の関与を、基本的には認めていなかった。認めていたとしても、それは非常に限られた範囲のことである。これでは中央集権的であると言わざるをえない。

 ※このため、普通地方公共団体の長は、事務を委任する国の下部機関として、国、より丁寧に記すならば所掌する省庁の大臣の指揮監督の下に置かれていた。また、委任に際して法律の根拠によらない場合も少なくなく、不透明なものとして批判を受けることも多かった。

 地方分権とは、何よりも、一定の事務に関する、少なくとも第一次的な決定権限を、中央政府が独占するのではなく、地方公共団体(政治学や財政学などにいう地方政府)に分け与える、あるいは移譲するということである。事務の配分がなされるのは言うまでもないが、それだけでは地方分権がなされたと言えない〈拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』31頁〉

 そして、事務、それに関する第一次的な決定権限の配分だけでは、地方分権として不十分である。当然ながら、独自の決定に基づいて何らかの事務を行うと言っても、自由に使える資金がなければ話にならない。自らの収入源があり、そこから必要かつ十分な収入を得て、その収入に基づいて支出をなせるのでなければ、独立した存在とは言えないであろう※。時折、学生などに対して私が用いる(妙な)比喩を記すと、子(地方公共団体)がアルバイトなどをして稼ぐお金では、到底、自分の生活に必要な資金を全て賄うことができず、親(国)からのお小遣いなり仕送りなりに頼らなければならないというのでは、その子は自立した生活を送っているとは言えないであろう。

 その意味において、地方税法第37条の2および第314条の7に定められる「ふるさと納税制度」は、地方税財政制度の根本的な改善につながりえないだけでなく、 地方自治法第10条第2項に定められる負担分任原則、さらに住民自治の理念からの逸脱がみられるなど、理論的な問題が少なくない。個人住民税の寄付金控除のあり方や問題点に関する議論を喚起したという点に一定の役割が認められるという程度に過ぎないであろう。詳細は、拙稿「個人住民税の寄附金控除制度―『ふるさと寄附金控除』制度と『ふるさと納税』制度についての若干の検討」税務弘報56巻3号(2008年)105頁、同「2015(平成27)年度税制改正の概要と論点〜地方税制の重要課題を中心に〜」自治総研440号(2015年)85頁、同「地方税法等の一部を改正する法律(平成27年3月31日法律第2号)」自治総研446号(2015年)57頁を参照。

 最終的な決定権限などは国に、そして国民に留保されるということを前提とした上で記しておくならば、税財源、より一般的に言えば税財政における権限配分がなされ、完全に、とは言えないまでも、相当程度に地方公共団体が自立できるようにならなければ、地方分権は完成しない〈拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』31頁〉

 少々、本題から離れた記述が長くなったかもしれない。しかし、この講義を進めるにあたり、現在、私が抱いている問題意識の一端を示す必要があると考えたが故のことである。

 付記:日本財政法学会編の財政法講座全3巻は、いずれも2005年5月に勁草書房から刊行された。また、2008年12月に、これらの韓国語訳が韓国法制研究院より刊行されていることも記しておく。

 第1巻:財政法の基本問題

 第2巻:財政の適正管理と政策実現

 第3巻:地方財政の変貌と法

 

 ▲第6版における履歴:第7回として2019年10月22日掲載。

            2020年2月23日、第8回に繰り下げ。

 ▲第5版における履歴:未掲載。

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財政法講義ノート〔第6版〕の、長すぎる前口上

2019年05月25日 10時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 日本にある大学、とくに法学部で、財政法という名称の講義を開いているところはどれだけあるのでしょうか。

 このように記している私の本務校である大東文化大学法学部には、現在、財政法という講義が存在しません。2011年度から2016年度まで(2013年度を除く)「法学特殊講義2A(財政法A)」および「法学特殊講義2B(財政法B)」を担当していましたが、いくつかの事情により内容を変えてしまいました。また、非常勤講師(兼任講師、客員教授)として講義などを担当している大学にも、財政法という講義はありません。

 担当していない講義のノートを作成して公開するというのもおかしな話ではありますが、私が2000年6月3日から現在まで続けているホームページ(「大分発行政・行財政研究」→「高島平発法制・行財政研究」→「川崎高津公法研究室」)においては「財政法講義ノート」を公開していますし、財政法が私自身の専攻分野の一つでもありますので、第5版まで掲載してきたのです。

 そもそものきっかけは、私がまだ大分大学教育福祉学部の助教授であった2003年の8月7日〜10日に、熊本県立大学総合管理学部において財政法の講義を担当したことです。初の財政法の講義であるとともに(その時にはまだ租税法の講義を担当していません)、初の集中講義でもありました。もとより、当時受講してくださった学生の皆さん、聴講してくださった大学院生のT君、そして何よりも機会を与えてくださったI先生には申し訳なく、拙いものでしたが、講義ノートを作成しただけでは勿体ないとも思っていたので、それを基にして第1版の公開を始めました。

  2007年になって、M先生からお話をいただき、同年8月、4年ぶりに福岡大学法学部の財政法の集中講義を担当しました。それを機会に「財政法講義ノート」の第2版を開始し、2009年8月の担当により第3版を開始しました。

 ここまでお読みいただいた方にはおわかりのように、「財政法講義ノート」の第1版から第3版まで、本務校で担当しない講義、しかも集中講義のノートを公開するという、或る意味で異質なコーナーとなっていました。これに対し、第4版は、先に記したように大東文化大学法学部で「法学特殊講義2A(財政法A)」および「法学特殊講義2B(財政法B)」を担当するとともに、福岡大学での集中講義を担当したために開始しました。

 第5版は2014年度に開始しました。それから5年が経過しています。マイクロソフト社による簡易なホームページ作成用ソフトであるFrontpageおよびExpression Web 4の開発が終了していることなどから、第6版の掲載はとりあえずブログで行うこととしました。

 版を改めたと記しますが、内容の面では第5版までとあまり変わりがないようなものとなるかもしれません。また、財政法の範囲は膨大ですので、完成していないというのが本当のところです。しかし、たとえ見切り発車的であっても、敢えて公開することに何らかの意味はあると考えています。もとより、今後、研究の進展状況に応じて補訂や修正などを重ね、充実したものに仕上げたいと思っています。

 この講義ノートを利用される際の注意事項を記しておきましょう。

 1.必ず、六法を手元に置いて読んで下さい。財政法に関しては、基本的な部分であれば小型の六法(有斐閣の『コンパクト六法』、三省堂の『デイリー六法』など)でも対応できます(勿論、憲法、財政法および地方自治法が掲載されていることが条件です)。しかし、これらの六法に掲載されていない法律もありますから、有斐閣の『判例六法Professional』、三省堂の『模範六法』、第一法規の『新司法試験用六法』などの中型またはそれより収録法令数の多いものが望ましいでしょう。また、大蔵財務協会の『財政会計六法』、学陽書房の『財政小六法』という専門的な六法も出版されています。地方財政関係であればぎょうせいの『自治六法』もおすすめです。

 2.財政法についても、判例、実例などの検討を欠くことはできません。とくにこの分野の場合は実例や先例が重要です。もっとも、財政法についてまとまった判例集などはありませんので、憲法、行政法の判例解説などを参照することとなります。

 3.財政法の体系書は非常に少なく、また、絶版または品切れとなっているものばかりです。この講義ノートにおいては、引用または参照という形により、注(本文より小さい字で示しています)において文献を紹介しています。図書館などで探してみてください。なお、この講義ノートの第一部については憲法学の体系書、第三部については行政法学、とくに地方自治法の体系書を参考とすることをおすすめします。

 ちなみに、私が担当する前記講義のいずれも、教科書は使用しておりません。参考文献は、この講義ノートで紹介します。

 4.財政法は応用的法学の一つです。そこで、基礎的な六法(憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法)、そして行政法の学習を済ませておくのが望ましいのです。最低限、憲法、民法、行政法の学習を十分に行って下さい。もっとも、法学部以外の学部の学生、さらには法律学に全く触れてこなかったという方もおられるでしょう。そこで、憲法、民法、行政法などの基本的な部分にも触れておきたいと考えています。

 

 〔これまでの経過〕

 2003年8月16日、第1版として開始。順次掲載、修正。

 2007年8月5日、第2版として順次改訂。

 2009年7月7日、第3版として順次改訂。

 2011年3月4日、第4版として順次改訂。

 2014年3月3日、第5版として順次改訂。

 2019年5月25日、第6版として順次改訂。

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