ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2006年9月4日、田川後藤寺駅周辺を歩く

2013年07月07日 01時45分00秒 | 旅行記

 〔以下は、「待合室」の第226回「田川後藤寺駅周辺を歩く(その1)」(2007年8月30日~9月6日掲載)、および第227回「田川後藤寺駅周辺を歩く(その2)」(2007年9月6日~13日掲載)をまとめ、修正したものです。写真撮影日は2006年9月4日です。〕

 2006年、西南学院大学での集中講義が始まる前に、福岡県内を鉄道で周りました。まず、9月3日(日)に宮地岳線に乗り〔この時の模様は「西鉄宮地岳線乗車記(1)」、「西鉄宮地岳線乗車記(2)」、「西鉄宮地岳線乗車記(3)」を御覧下さい〕。それから貝塚に戻り、時計を見て博多駅に出て山陽新幹線(15時47分発のこだま664号岡山行き)に乗り、小倉で降りて16時17分発の日田彦山線田川後藤寺行きに乗り、田川後藤寺で後藤寺線に乗り換えて新飯塚に出て筑豊本線に乗り換え、飯塚駅周辺を歩いてから原田に出て、博多駅に戻りました。印象深かったのは香春岳でした。香春岳(これは連峰だそうです)は日本セメントが所有しているそうで、ここで石灰岩が採掘されています。山全体が石灰岩でできているので、採掘しやすいのでしょう。上のほうが完全になくなっており、醜態(故宮脇俊三氏も同じことを記していました)をさらしています。実は、その何年か前に香春岳を見ながら車を運転していた時、あまりの醜態に驚かされたことを思い出しました。

 そして翌日、つまり9月4日(月)、集中講義初日を前にして、再び福岡県内を周りました。3日に田川後藤寺駅での乗り換えを行っていますが、改札口を出た訳ではありません。そこで、駅前を歩いてみました。 

 9月3日の移動距離が200キロメートルを超え、翌日は少なく見積もっても150キロメートルほどでした。しかも、そのほとんどはローカル線による移動です。福岡県内の至る所、とまではいきませんが、できるだけ、多くの場所を周ろうと思い、時刻表を読みながら予定を組んだりしていたのです。

 何故そのようなことをしたかと言えば、福岡県という所が或る意味で日本社会の縮図のような地域であるように思えたからです。福岡市という大都会があり、その周囲に大野城市、春日市などのような近郊都市、糟屋郡志免町のように人口は5万人未満でありながら全国有数の過密地域があるかと思えば、北九州市という、政令指定都市ではあるが人口が減少しているという大都会があり、中間市などの近郊都市があり、そうかと思えば筑豊地方や大牟田市というかつての大炭鉱地帯があり、また少し目をずらせば農村地帯や過疎地域があります。しかも、平成の大合併の前には97の市町村があったのでした。列車でも自動車でもよいので、とにかく福岡市から少しでも移動してみればわかります。「車窓がこれほど急激に変わる都道府県も、そうは多くないであろう」と。「発展している都市と衰退している地域とが、これほどまでに強烈なコントラストを生み出している都道府県も、そうは多くないであろう」と。

 福岡市でも、とくに七隈線の沿線のように郊外型大規模小売店舗が多くなっている地域がありますが、福岡市以外の市町村を、私が見た限りで記しますと、やはりシャッター通り、中心街空洞化の問題は深刻です。私が実際に歩いて印象に残っているのは、北九州市八幡西区の黒崎駅前、JR筑豊本線の直方駅前、同じく筑豊本線の飯塚駅前です。いずれも、大分大学時代に周っていますが、とくに直方駅周辺の状況を目の当たりにして、息が詰まるような思いがしました。臼杵市の二王座や、中津市の新博多町(昼間なのに暗かった)を歩いた時と同じような感覚に陥ったのです。「今、ぼくは何処を歩いているのだろう?」、「どうしてこんな所を歩いているのだろう?」、こんな言葉が浮かんできました。

 それでも、筑豊地域には何かがあります。上手く説明することなどができませんが、何かにひきつけられるのです。そこで、大分大学時代以来、3年ぶりに筑豊地域を周ることにしました。

 日田彦山線、後藤寺線、平成筑豊鉄道糸田線(旧国鉄糸田線)の田川後藤寺駅です。名前の通り、田川市にあります。田川市と言えば、かつての筑豊炭鉱地帯の一角を占める場所で、往時は石炭輸送などで賑わいました。現在は、日田彦山線の重要な中間駅であり、後藤寺線の起終点駅、糸田線の起終点駅ですが、閑散としたローカル駅です。それでも田川市の中心駅でして、立派な駅舎です。糸田線のその他の駅は、金田(かなだ、と読みます)を除けばホームが1本だけの無人の停留所ですし、後藤寺線も同じようなものです。起点の新飯塚と終点の田川後藤寺以外は無人駅ですから。

 実は、上の写真を撮影した日の前日にも田川後藤寺駅に来ています。小倉駅から日田彦山線に乗り、ここで後藤寺線に乗り換えて飯塚市へ行ったのです。もう夕方に近い時間でしたので、駅前を歩く余裕がなく(これは接続列車の関係です)、田川後藤寺駅前を歩くのは翌日にしようと思っていました。そして、博多駅から篠栗線、筑豊本線、後藤寺線を乗り継ぎ、田川後藤寺駅に到着しました。接続がよかったので1時間ほどだったと記憶しています。それにしても、西鉄天神大牟田線や福岡市営地下鉄も走り、列車の本数も多い福岡市内と、1時間に1本程度の列車しか来ない(しかも、田川後藤寺から添田、日田方面への列車となると1日10数本しかない)というこの地域とでは、あまりに落差が激しいような気もします。

 田川後藤寺駅の西側から駅の様子を撮影してみました。大分時代に豊肥本線や久大本線で乗った黄色い気動車、キハ125が止まっています。田川後藤寺から大分へ行く列車があるので、大分の気動車かもしれません。筑豊地域ではあまり見かけないのです。

 駅前から商店街に向かう道路です。少し勾配を上るような感じになっています。道は狭く、かなりカーブが多いので、区画整理があまり行き届いていなかったのかもしれません。交差点付近には高校生などが何人か歩いていましたが、このあたりでは買い物客などをあまり見かけなかったのは、単に時間帯のせいでしょうか。ここまで、駅から僅かな距離ですが、閉まっている店が少なくなかったのは、単に月曜日だからということなのでしょうか。

 メインストリートではない通り、つまり脇道の様子です。何となく、私が小学生の頃に戻ったような気分となりました。駅から少し離れた所にある商店街のような感じがしたのです。ただ、全く違うのは、私が小学生の頃のこうした商店街には、買い物客などが多かったということです。地元の小学生がこうした道路の上で遊んでいたりしたものでした。私も自転車などでこうした商店街を走り回ったり、駄菓子屋に入ったりしたものです。時代は変わりました。

 本町銀天街という商店街を歩いてみることとしました。最近、とくに衰退しているのがアーケード商店街ですが、ここもそうです。何となく歩いてみますが、私が歩いている間に見かけた買い物客は、私の両手で数えられるくらいしかいなかったかもしれません。こういう商店街では、よくBGMや広告放送が流れています。人通りが多ければ、BGMや広告放送はそれほどよく聞こえないのですが、この日はよく聞こえました。私はアーケード商店街に慣れ親しんで育ちましたので、このような光景には複雑な思いがします。

 私が知る限り、川崎市内の商店街ではあまり見かけませんが、多くの商店街には、上の写真に登場するような適正納税推進のための宣伝ノボリがかけられています。おなじみの五七五です。しかし、閑散としている通りにはあまり似合いません。ちょうど、西南学院大学での集中講義「税法」の初日の前日でしたので、「一体、この商店街から生み出される市税や県税の収入はどのくらいなのだろう?」などという思いが頭に浮かんできました。

 こういう商店街を歩いていると、たまたま店休日で閉まっているのか、それとも閉店して時間が経っているのかわからないことがあります。しかし、何軒もの店が連なってシャッターを下ろしているということは、少なくともそのうちの何軒かは商売をやめていることを意味する、と考えるのが自然です。或る曜日を休みと決めて一斉に何軒もの商店が休むという商店街は、あまり存在しないはずです。

 休日で閉まっているというのは、外観でわかることも多いのです。シャッターに貼り紙があり、それで完全に閉店してから相当の時間が経過していることがわかることもありますし、看板などが外されていることによってわかることもあります。シャッターが歪んでいる場合もあります。色々なパターンが考えられます。

 この先にも商店街は続きます。しかし、買い物客らしい人は歩いていません。まして、ここを歩いている完全な他所者、つまり私のような者は見当たりません。

 商店街を南のほうに歩き続けました。駅から離れるに従って、シャッター通りの度合いが高くなっているようです。かつては、多くの買い物客がここを通り、にぎわっていたはずです。

 私は、この付近を車で通ったことがありません。一度、英彦山の西側から旧国鉄添田線(廃止)に沿った形で北上し、北九州市に出たことはありますが、田川市を通ったことがないのです。直方市や飯塚市も車で通ったことがありません。そのため、郊外型大規模小売店舗があるのかどうかはわかりません。大分市に住んでいた経験からしても、郊外型大規模小売店舗は鉄道路線の沿線からかなり離れた所に設置されることが多い、と思われます。日田彦山線、後藤寺線、平成筑豊鉄道糸田線の車窓からでも、大駐車場を完備するような店舗は見えません。

 人口が減少している、事業所などが減少しているということは勿論としても、それだけで商店街が衰退する訳ではないでしょう。モータリゼイションが進み、自家用車が主な移動手段となったことが、最も大きな原因でしょう。大分市に住んでいた私としては、通勤であれ何であれ自家用車での移動を前提とする社会が必ずしも善いものとは思えません。昨今のように燃料代が高くなると大変なことになりますし、そもそも体調が悪い時などには自家用車を運転できませんから、買い物も何もできないことになってしまうのです。

 そろそろ、アーケードの出口が見えてきました。道路がきれいに舗装されているだけに、何となく妙な気分になってきます。右側の店舗にはミスター・マックスがあったようです。大分市などでは鉄道路線の近くではなく、郊外にあります。

 考えてみると、京浜地区でアーケード商店街はあまり普及しなかったらしく、あまり見かけません。私が知っている、あるいは覚えているのは、武蔵小山(東京都品川区)、西小山(同)、三ノ輪橋(東京都荒川区)、浅草新仲見世通りなど(東京都台東区)、川崎駅東口の銀柳街(川崎市川崎区)、武蔵新城駅南口のアーケード街(川崎市中原区)、くらいです。私自身は、鶴見線の浜川崎駅、昭和駅、扇町駅、武蔵白石駅、大川駅を除く川崎市内の全駅を周ったことがありますが、アーケード商店街と呼べるのは川崎駅東口と武蔵新城駅南口の商店街だけです(溝の口駅西口商店街もアーケード商店街と言えるでしょうか?)。

 実は、この写真を撮影した日、北九州市八幡西区の黒崎駅まで行ったのですが、そこのアーケード商店街も、閉まっている店のほうが多く、人通りも少なかったのです。その後、黒崎ではアーケードをなくすことを決めたとのことです(但し、実際に撤去されたかどうかはわかりません)。

 アーケードを出て少し歩くと、日田彦山線が見えてきます。手前のほうが添田、夜明、日田方面です。福岡県内および大分県内では、この日田彦山線の田川後藤寺~夜明のみ、まだ利用したことがありません。本数が少なすぎるので、接続などを考えなければならないのです。

 2両編成のキハ40系が見えます。白地に青帯という、JR九州では一般的な色です。国鉄時代の失敗作とも言われるキハ40系は、大きな車体でエンジンの音も大きいにもかかわらず、速く走ることができないのです。大分に住んでいた時に豊肥本線で乗ったことがありますが、とにかく遅い気動車で、上り勾配にさしかかると他の気動車以上に速度が落ちてしまいます。 電車に比べると気動車は勾配に弱いのですが、それにしても、という印象を受けるのです。ただ、製造された両数が多いためなのかどうか、九州ではよく見かけます。

 田川後藤寺駅の東南側には、新しいマンションなどが建ち並んでいます。奥に見えるマンションは、駅の周辺ではおそらく最も高い建物ではないでしょうか。よく目立ちます。あちらのほうは歩いていませんが、マンションなどが多いようなので、西側とは異なる印象を受けるような所なのでしょう。

 日田彦山線に沿う道路から、先ほど歩いた商店街のほうを撮影してみました。中程にある道路の奥のほうに、アーケードが見えます。古くからの住宅地あるいは商業地であることがわかりますが、道幅が狭く、自動車の通行は少々厳しいかもしれません。駐車場もそれほど多くありません。軽自動車ではなく、3ナンバーの自家用車が自由に走ることができるような道路、そして、無料で利用できる大駐車場。これらが、自動車社会における商業地の最低条件です。これが当てはまらない例外が、東京都区部などなのです。

  田川後藤寺駅に戻ってきました。この駅の利用者がどのくらいなのかわかりませんが、駅に入ってくる列車は1両か2両という場合が多く、本数も少ない(1時間に1本あれば多いと言えるほど)なので、それほど多いとは思えません。しかし、駅前にはタクシー乗り場があり、何台かのタクシーが客待ちをしています。この地区の中心駅であるからです。無人駅では客待ちをしてもあまり意味がないでしょうし、そもそも、タクシー乗り場がないかもしれません。

 これから平成筑豊鉄道糸田線に乗ろうと思い、田川後藤寺駅の改札口を抜けて糸田線のホームに来ました。そこから後藤寺線の0番線ホームを撮影してみました。

 この日、私は後藤寺線に乗って田川後藤寺にやってきました。その時に乗ったのがキハ31という、国鉄最末期にデビューした気動車です。元々は熊本地区と大分地区で走っていたもので、大分市に住んでいた頃には豊肥本線で何度も乗りました。完全にワンマン運転に対応していて、整理券をとり、運賃を運転士席のそばにある運賃箱に入れるという、バスのような車両で、椅子の配置などもバスに似ています。写真の車両はキハ31  1で、たしか熊本地区、豊肥本線や三角線で走っていたのを見たという記憶があります。前日、筑豊本線の桂川~原田を利用した時もこのキハ31  1で、その時には10人ほどしか客がいなかったのですが、後藤寺線に乗ったのもこの気動車で、乗客は15人ほど、途中の駅で降りる客も、乗ってくる客もあまりいなかったようです。

 いかにも、昔からの国鉄駅という感じです。首都圏でも、こんな感じの跨線橋をよく見たものです。もっとも、九州では単線が多く、駅もホーム1本しかないというような所が多いので、九州では立派な駅というべきなのかもしれません。手前の車止めは糸田線のためのものです。ただ、国鉄時代にはこの車止めがなく、線路がつながっていたのかもしれません。

 田川伊田・小倉側の様子です。後藤寺線は左側ですが、すぐに左にカーブを切ります。そのため、赤色を点灯させている信号は、日田彦山線と糸田線のものです。

 この後、糸田線に乗り、金田で伊田線に乗り換えて直方に出て、商店街を歩き回った後、筑豊電鉄線で黒崎に出ました。突然の大雨には参りました。 ずぶぬれになって、駅前のアーケード商店街に入り、少し遊んでから鹿児島本線の快速で博多駅に出て夕食をとり、地下鉄で天神に戻りました。その翌日から集中講義をやったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする