ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

東急大井町線途中下車(9) 北千束駅

2015年08月28日 18時49分03秒 | まち歩き

 昨年(2014年)の8月19日から9月7日まで、「川崎高津公法研究室」の「待合室」(既に終了)において「東急大井町線途中下車」の第8弾として緑が丘駅を取り上げました(このブログには昨年の12月10日0時39分33秒付で再掲載しております)。

 それから約1年、ようやく第9弾として、北千束駅を取り上げることとなります。2011年8月6日に第1弾として二子玉川駅を取り上げてから4年が経過していますが、今年中に完結する目処が付きました。

 大井町線は、営業上は品川区の大井町駅から川崎市高津区の溝の口駅までの路線ですが、正式には大井町駅から世田谷区の二子玉川駅までの路線です。品川区、大田区、目黒区、世田谷区を通る訳ですが、大田区にある駅は大岡山とここ北千束のみであり、北千束駅の所在地は大田区北千束二丁目です(ちなみに、大岡山駅の所在地は北千束三丁目です)。

 御覧の通り、かなり小さな駅舎です。私が所有している本には1961(昭和36)年の写真が掲載されており、その頃はホームの真下に駅があったようです。現在の姿になったのが何時なのかわかりませんが、狭い空間に駅の機能を持たせたことがわかります。もっとも、この駅は大井町線で最も乗降客が少なく、急行も通過します。東京急行電鉄が発表している2014年度の一日平均輸送人員は6821人です。同線で1万人を下回る駅は、ここの他に下神明(7434人)と緑が丘(9212人)のみとなっています。

 改札口です。一箇所しかありません。青い改札機はICカード、磁気式乗車券の両方に対応しており、ピンク色の改札機はICカード専用です。

 大井町線の大井町~大岡山は、1927(昭和2)年7月、目黒蒲田電鉄により開通しました。しかし、この北千束駅が開業したのは1928(昭和3)年10月10日のことでした。遅れた理由はよくわかりませんが、耕地整理組合の事業との関係があるのかもしれません。島式ホームという基本構造は現在まで変わりません。

 また、この辺りは目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道との熾烈な、しかし圧倒的に目黒蒲田電鉄に有利な競争が展開された地域でもあります。そのことは、この駅の歴史にもよく現れています。短い間に二度も名称が変わっているのです。

 まず、開業当時の駅名は池月でした。池月とは源頼朝の愛馬の名前であり、洗足池のほとりに銅像が建てられています。頼朝は千束でこの馬と出会い、名を与えたのでした。その後、寿永3年と言いますから1184年のこと、宇治川の合戦ではこの池月が大活躍したとのことです(騎乗したのは頼朝ではなく、佐々木四郎高綱でした)。

 駅名からして、洗足池に関係があることがおわかりかと思います。池上線を建設した池上電気鉄道は、1927年8月に洗足池駅を開業させています。目黒蒲田電鉄は、自社が建設した目蒲線(目黒~蒲田。現在の目黒線と東急多摩川線)とほぼ並行する池上線に対抗する形で、大井町線における洗足池の最寄り駅として池月駅を開業させたのでしょう。

 しかし、池月駅は陸羽東線にもあります。現在の宮城県大崎市にある駅です。そちらは1914(大正3)年に開業しています。例外も多いとは言え、なるべく既存の駅と重複しないように名称を付けるという要請もあったのでしょう、大井町線の池月駅は1930(昭和5)年5月21日に洗足公園と改称します。これにより、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道への対抗意識をさらに強めたこととなります。五島慶太の意思もあり、1934(昭和9)年10月1日、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道を吸収合併します。その後、1936(昭和11)年1月1日、洗足公園駅は現在の北千束に名を改めます。この辺りは元々が千束といいますので、妥当な改称と言えるでしょう。

 ちなみに、池月→洗足公園→北千束と名を変えたこの駅の隣の駅は、二子玉川側が大岡山であり、これは現在も変わりませんが、大井町側は旗の台ではなく、東洗足という駅でした。東急の前身の一つである田園都市会社が最初に分譲したという洗足住宅地の東側にあることから名付けられましたが、池上線とは乗り換えることができず、旗ヶ岡駅からも離れていました。この点にも目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道との激しい競合がうかがわれたのですが、合併後もこの状態が続きました。東洗足と旗ヶ岡が統合して現在の旗の台駅が開業したのは、1951(昭和26)年3月1日のことです。

 1968年から2004年1月30日までの間に営業していた東急線の駅なら全て利用したことがある私ですが、やはり頻度の違いはあります。大井町線で最もよく利用する駅が二子玉川であり、次が自由が丘か大岡山、それから尾山台と旗の台です。北千束駅を利用したのは、今回(2015年8月28日)が二度目でして、実のところ、あまり歩いたこともないのでよくわかりません。

 駅前の道路が赤松商店会となっており、何軒かの店があります。もっとも、品川区内の駅とは異なり、商店街と言えるほどの規模にはなっていません。住宅地の中に商店があるという感じであり、緑が丘駅前よりも規模が小さいのです。

 「それにしても赤松とは何だろう」と思いました。その地域にあった名木が由来という地名もありますし、商店街もあります(二子新地駅前の松栄会が良い例です)。しかし、この辺りで赤松という地名を耳にも目にもしたことがありません。常磐松のように住居表示のために消滅した地名なのかとも思いました。近くには赤松小学校があります。

 駅前の道路を北のほうへ歩くと環状7号線に出ます。従って、目黒線洗足駅にも行けるということになりますが、今回は向かいません。大岡山駅のほうへ歩くと、御覧のように桁下2.6メートルしかない高架橋に出ます。この先、大井町線の電車は坂を下り、大岡山駅の手前で地下に入ります。

ほぼ同じ地点から北千束駅のホームを撮影しました。

この辺りは大田区でも旧大森区に属し、住宅地として開発されました。この先、大岡山駅方面に向かう道路を見ればよくわかるように、坂の多い場所です。

 赤松小学校の南側を通ります。歩いているのは8月28日の午前中で、まだ夏休み中です。ちなみに、川崎市立の小学校では既に二学期が始まっています。

 東京でもこの辺りでは低層住宅が多く、木造二階建ての家屋をよく見かけます。私にとっては、幼少時代から見慣れた風景ですが、川崎市でのほうが見られなくなっているような気もします。2011年3月11日の14時46分に10階建ての建物の10階にいた経験から、私は高層住宅に住みたいと思いません。このくらいの高さがちょうど良いと考えています。

駅前の道に戻りました。南のほうへ真っ直ぐ進むと中原街道へ出ますが、途中で右折すると洗足池に近いようです。但し、今回は洗足池を目標としておりませんので、向かいません。

この道路を奥のほうへ進めば、洗足池や中原街道に出られます。バスが通っていてもおかしくなさそうですが、この道路を走る路線バスはありません。

 赤松小学校の東側を歩くと、御覧のような標識(?)があります。大井町線のガードがあるためですが、高さが2.6メートルしかないのです。ガードの北側には、高さを示す標識があります。トラックなどに有用でしょう。

 さて、この赤松小学校ですが、歴史は古く、同小学校のサイトによれば、1878(明治11)年に馬込小学校分校として開校し、1879(明治12)年に赤松小学校として独立します。当初からこの地にあったのかどうか、サイトの記述からではわかりにくいのですが、少なくとも1919(大正8)年からはこの地にあったようです。

 北千束駅そばのガードです。かなりの勾配になっています。開業当初はこのようになっていなかったらしいのですが、後に道路を掘り下げ、立体交差としたようです。実際に、この駅の周辺はかなり起伏がありますし、駅の東側には踏切があります。北千束駅は、大岡山側は高架、旗の台側は地上となっているのです。

 この道幅では大型トラックが通るとも思えないのですが、貨物自動車など、背の高い車は注意を要します。

 駅の南側の道路からホームを見ます。道路の勾配がおわかりでしょうか。奥へ向かうに従って登っていくのです。このような場所でも自転車が活躍しているようです。ちなみに、ホームの手前側が1番線(自由が丘、二子玉川、溝の口方面)で、奥が2番線(旗の台、大井町方面)です。

 

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