ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

多摩川駅

2020年05月05日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私のサイト「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の第237回「東急多摩川線途中下車(3)多摩川駅」(2017年11月11日〜17日掲載)の再掲載です。若干の修正を施しましたが、内容は、写真を撮影した2007年5月30日、6月5日および10月12日の当時のままですので、御注意ください。

 

 東京都大田区田園調布一丁目に、東急東横線および東急多摩川線の多摩川駅があります。目黒線の電車も通るため、このコーナーで不定期のシリーズとなった「東急目黒線途中下車」に入れてもよいのですが、厳密に言えば目黒線は目黒~田園調布であり、田園調布~日吉は東横線ですので、ここでも目黒線にカウントしていません。一方、多摩川駅は東急多摩川線の起点であり、途中下車という言葉はおかしいのですが、東急多摩川線は以前の目蒲線の一部ですから、この言葉を使ってもよいでしょう。なお、東横線であればまさに途中下車になります。

 (なお、特に記していない場合には2007年9月1日撮影です。)

 東横線の名所、浅間神社下の急カーブのそばにある多摩川駅の南入口です。 改札口はこの奥にあり、自動改札機を抜けると階段があります。中央の階段が多摩川線の地下ホームに行くためのもので、左右の階段が東横線・目黒線のホームに行くためのものです。

 東横線の田園調布から日吉までは複々線になっています。この工事のために、多摩川駅の構造はかなり変わりました。 以前は、東横線と目蒲線の乗換駅とは思えないほど小さく、高架線の下にあるのか洞穴の中にあるのかわからないような古ぼけた感じで、乗降客が少ないために侘しささえ感じさせる駅でした。東横線の特急・通勤特急が運転を開始する前(東急は、大手私鉄で唯一、特急を走らせていなかったのでした)は、急行も通過していました。電車が通る時以外は非常に静かな駅でした。 それだけに、東京にいるとは思えないほどに鄙びた、あるいはのどかな感じでもありました。

 現在は御覧のようになっており、東横線と目黒線は高架ホームから発着し、多摩川線は地下ホームから発着しています。東横線と目黒線の急行が停車しますが、特急および通勤特急は通過します。また、多摩川線の起点となっているのですが、同線の駅では最も乗降客が少なく、むしろ蒲田が起点で多摩川が終点と考えたほうが実態に合っているかもしれません。また、多摩川駅は、東横線の駅でも最も乗降客が少ないのです。但し、乗換客がかなり多いことには注意が必要でしょう。

 駅前商店街です。多摩川駅の商店街は、以前からこんな感じのものでして、小さな商店街が何軒か並んでいるだけであり、大型の商店はありません。また、駅前にはロータリーなどもないため、路線バスは通っていません。この道を奥のほうに進むと、丸子橋の手前に多摩川駅バス停があります。渋谷駅、東京医療センター、二子玉川駅までのバス(それぞれ、渋33、多摩01、玉11)が出ています。

 駅名は「多摩川」ですが、商店街は「多摩川園前」となっています。1970年代後半まで、この駅の東側に多摩川園という、東京都内で最小の遊園地がありました。駅名も「多摩川園前」となっていました。多摩川園が閉園した後に「多摩川園」と改められ、目蒲線の分割とともに「多摩川」に改められました。

 世の中には何度か名称を変更した駅が多いのですが、東急もその例に漏れません。しかも、東急の場合、結局は元の名前に戻るという場合があります。多摩川駅、そして二子玉川駅です。 また、大井町線という線名も、昔の名前に戻ったという例です(一時期は田園都市線でした。なお、田園都市線は、何度も区間が変わっており、当初は大井町~長津田で、その後はつくし野、すずかけ台、つきみ野と延長し、大井町線の名称が復活した後には二子玉川園~中央林間となり、現在は渋谷~中央林間となっています。このような例は日本唯一でしょう)。

 元の名前に戻るというのはどういうことでしょうか。多摩川駅は、目黒蒲田電鉄(この会社が東急の母体で、後の目蒲線、現在の目黒線と東急多摩川線の母体でもある)が1923(大正12)年3月11日に開業させた駅でして、その時の名称が「多摩川」でした。多摩川園が1925(大正14)年にオープンしたこともあり、1926(大正15)年1月1日、駅が移転した上で「丸子多摩川」と改められます。同年2月14日に東京横浜電鉄(現在の東横線)の丸子多摩川~神奈川(反町と横浜との間にあった駅)が開業しています。1931(昭和6)年1月1日には「多摩川園前」に改称されます。1977(昭和52)年12月16日には「多摩川園」に、そして2000(平成12)年8月6日、目蒲線が目黒線と多摩川線に分割された日に、元の名前である「多摩川」に改称されたのです。

 〔以上については、荻原二郎・宮田道一・関田克孝『回想の東京急行Ⅰ』(2001年、大正出版)および同『回想の東京急行Ⅱ』(2002年、大正出版)の記述を基にしています。〕

 多摩川園という遊園地は、上の写真で言えば左側にありました。最初の写真で言えば右側で、駅の改札口を出てすぐ左側に進み、目蒲線の下をくぐると入口がありました。私が小学生の頃には、現在の遊園地の規模などからすればかなり小さな観覧車がありました。また、これまた短いリフトもありました。菊人形展なども行われていたはずです。多摩川園には何度か入ったことがありまして、最後に入ったのは営業最終日でした。たしか無料で、入場者にはお菓子が配られたと記憶しています。現在は宮崎台駅のそばに展示保存されている玉電の人気者、ペコちゃんことデハ200形も多摩川園に展示されていました。

 閉園後、テニスコートなどができました。子どもたちなどにはつまらない風景になってしまいました。テニスコートになってからも入場者は少なかったようです。いつの間にか閉鎖され、現在は大田区立の田園調布せせらぎ公園になっています。

 そう言えば、多摩川駅の隣、田園調布駅の近くには田園コロシアムがありました。ジャズ・ファンの方であれば、ライヴ・アンダー・ザ・スカイの会場だったということを御存知でしょう。ハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、そしてトニー・ウィリアムズによるV.S.O.P.のライヴ録音がLPとして発売されたこともありました。現在は田園コロシアムもありません。

 駅前の道を北西のほうに進みます。田園調布駅のほうへ向かう訳です。右側手前に多摩川駅がありまして、すぐに住宅街が広がります。 この道を進むと、宝来公園などに行くことができます。少し足を伸ばせば、自由が丘にも行けます。

 ここは田園調布一丁目です。そう、あの田園調布です。一般的に、超高級住宅地というイマージュで捉えられる田園調布は、東横線と目黒線の田園調布駅がある三丁目(同駅西口)を指しますが、住宅地としての価値は一丁目にもあります。よく沿線などで言われる序列は、三丁目(田園調布駅西口)→一丁目(多摩川駅)→二丁目(田園調布駅東口)→四丁目→五丁目です。この他、 大田区には田園調布本町、田園調布南(沼部駅の所在地)があり、世田谷区には玉川田園調布 があります。ちなみに、有名な田園調布雙葉学園(幼稚園、小学校、中学校および高校)は世田谷区玉川田園調布に、田園調布学園の高校と中学は世田谷区東玉川にあります(大学は川崎市麻生区にあります)。この周辺は世田谷氏の所領であったという話を聞いたことがありますが、奥沢や東玉川の位置などを見ていると、その話にも納得がいきます。

 多摩川園駅から西のほうへ歩くと、鬱蒼としたうっそうとした公園があります。 多摩川台公園です。数回しか足を踏み入れたことがないのですが、かなり広大な公園で、花見の名所でもあり、前方後円墳の亀甲山古墳、やはり前方後円墳である宝来山古墳などもあります。大きさは亀甲山古墳、古さは宝来山古墳、とのことです。

 実は、この辺りには古墳が多いのです。 多摩川の岸辺、という地形的条件によるものでしょう。発掘調査などが行われていないようなのですが、3世紀から5世紀にかけてのものらしいので、この土地に生活の根拠を置いていた部族の有力者が葬られたものでしょうか。

 かつて多摩川園があった場所です。金木犀が植えられていて、品の良い香りが漂っていました。この金木犀の香りを好む方は多いでしょう。私もその一人です。おそらく、この香りのために、至る所で金木犀が好んで植えられるのでしょう。秋の楽しみの一つでもあります。

 多摩川駅の東口に、自転車および歩行者のための通路ができていました。おそらく、この奥のほうに進めば田園調布駅のほうに出られるはずです。 以前はこの道路がなかったので、歩いてみたいとは思っています。

 田園調布せせらぎ公園の入口に、こんな案内が出ていました。この日のイベントに行きたかったのですが、採点などの仕事をしなければならなかったので、行っていません。

 今年は東横線、大井町線、池上線の開通80周年記念ということで、沿線で様々なイベントが行われています。東横線は、元々が東京横浜電鉄であり、80周年というのは、1927(昭和2)年8月28日、渋谷~多摩川(当時は丸子多摩川)が開通して渋谷から神奈川までが一本につながった時点を基点としています。桜木町まで延長されたのは1932(昭和7)年のことです。

 多摩川園(その後に多摩川園ラケットクラブとなっています)の跡地に、大田区立田園調布せせらぎ公園があります。大田区のホームページによると、ここは2001(平成13)年11月に公園予定地として取得され、2002(平成14)年から一部を一般開放しているようです。しかし、公園としての整備はまだ終わっていないようで、2003(平成15)年から整備計画を実行し始めており、完全に整備が終わるのは今年度ということになっています。田園調布せせらぎ公園という名称も、2004(平成16)年7月になってから決まったものです。

 撮影日には時間の余裕がないために入っていないのですが、一度、何かの折に散策してみたいと思っています。

 この写真は、2006年6月5日に撮影しました。東横線の撮影ポイントの一つといってよいでしょう。浅間神社のそば(奥のほうの山の上に神社があります)の急カーブを曲がる、通勤特急元町・中華街行き5050系電車です。多摩川駅のホーム自体が新丸子側でカーブしていて、発車するとすぐに大きく右に曲がり、多摩川を渡って東京都を離れ、神奈川県川崎市に入ります。そして、多摩川を渡ると同時に車窓が一変するのです。田園都市線の二子玉川~二子新地でも同じようなことが起こるのですが、東横線のほうが急な変化を起こします。 自由が丘を出て、田園調布、多摩川と、閑静な住宅街を通るのですが、多摩川を渡ると急にビルなどが多くなり、庶民的な町の新丸子に到着します。

 こちらは2007年5月30日に撮影しました。東急多摩川線の5番線ホームです。田園調布の方向を撮影しました。現在、東急多摩川線は多摩川~蒲田の営業区間であり、田園調布までの運行はありませんが、線路は田園調布まで伸びており、目黒線につながっています。おそらく、長津田(ながつた)検車区や長津田車両工場への回送運行のためなのでしょう。

 目蒲線時代の最後には、既にこの地下ホームが使われていたようですが、その頃には大分市に住んでいましたので、詳しいことはわかりません。

 東急多摩川線は、多摩川から蒲田までの全線を乗っても10分ほどしか必要としないほど短い路線です(しかも3両編成です)が、鵜の木、下丸子など、かつて町工場が多かった街を通り、けっこう楽しめる路線です。東京の私鉄には味のある路線が多いのですが、東急ではこの東急多摩川線と大井町線を、とくに味のある、渋さもある路線として、散策などをお勧めしたいと思っています。


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